思出しました。宅の母は幾度も著ないで亡くなりましたが、袖無しは戦災を免れて、今も箪笥《たんす》の奥深くしまってあります。森のは焼けたように聞きました。跡のお家のはどうでしょう。
 その頃の禅林寺は、本堂の藁葺《わらぶき》は崩れかかり、鐘楼の鐘は土に置いてあり、ひどく荒れ果てた様子でした。今は住職の努力で立派に再建されています。墓地の隅には、向島に住み始めた頃に祖母が郷里から土を取寄せて、標《しるし》ばかりに建てた石がまだあって、小さい祖母の姿をさながら見るようです。
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   根附

 小金井はこれという道楽のない人でした。時候のよい時に静かな田舎を散歩する位なものなのです。物事は非常に丁寧でしたが、器用ではありません。同じ解剖教室に今田束《いまだつかぬ》という人がいられました。それはまた器用な人で、同じ標本を造るのにも鮮かな手際を見せられるので、ひどく感心しておりました。一緒に向島のボートに行ったり、その帰りに浅草辺を散歩したりするのでしたが、明治二十二年の秋でしたろう、急の病気でお気の毒にもお亡くなりになりました。お形見だといって、遺族の方から根附《ねつけ》を二つ下さいました。木彫の馬と牛とでしたろう。それがひどく気に入って、つくづく眺めておりましたが、いつまでも飽きないと見えて、後には机の上に置いてありました。
 或時何かの会があって夜帰った時、すぐに服を脱がず、かくしに手を入れて、何か握って笑っています。著替《きがえ》を持って傍にいた私は、何となく片手を出しましたら、その上に置かれたのは小さな一つの根附でした。私の不審そうな顔を見て、「あまりいい夜だからぶらぶら歩いていたら露店にこんなものがあったから」といいました。「こんなことをするのではあるまいか」といいながら、ざっと水をかけで拭《ふ》き取ってから、柔かな裂《きれ》を出させて、頻《しき》りにこすっていました。それは鳩らしいと思いました。鳩というものは可愛らしいはずなのに、目付《めつき》がどうも強いのです。簡単な彫りですから、他の鳥なのかもしれません。これが根附を集める始めでした。
 私が小さくて向島に住んでいた頃、父が医者だというので、或人が、真白で親指の頭位ある小さな髑髏《どくろ》を持って来て見せました。あまり見事なのでよく見ましたら象牙彫《ぞうげぼり》の根附でした。その人のいいますのに、これは旭玉山《あさひぎょくざん》という彫刻師の作で、この人は天保の頃浅草で生れ、初めは僧侶《そうりょ》でしたが、象牙の彫刻を好んで種々の動物を造ったので、髑髏は最も得意なのだそうです。その技術の精巧なのに内外人を驚かし、明治になって美術学校教授となり、明治十四年の第二回博覧会へ出品した髑髏の彫刻には、明治大帝の御前で、総裁|能久親王《よしひさしんのう》から名誉賞を授与せられたのです。そうした人が造ったので、よく見たら玉山の銘がありました。その話をしましたらよく知っていまして、自分の専門に縁のある髑髏なのですから、今まで展覧会などでも、注意して見ていたといいました。
 根附は手先の技巧の勝《すぐ》れた日本人の得意とする小芸術品で、外国人には真似《まね》の出来ない緻密《ちみつ》なものを作るのでしたから、外人にも珍重せられるのだと思います。洋行しました時にも、外国の博覧会などに多く陳列されていて、それについての著書が独逸《ドイツ》にも英国にもあるのに、その本国の日本ではかえって等閑に附せられていると、外国の学者たちにいわれていたのだそうです。

 私どもが蓬莱町《ほうらいちょう》に住んでいた頃です。団子坂から父が来た時に、その根附を見せましたら、「小金井さんもそんな物がお好《すき》かい。家にもあったようだよ、持って来て上げよう」といわれましたが、次に来た時下すったのは鹿の角で彫った小指位の根附でした。蝦蟇《がま》仙人の立姿で蝦蟇を肩に載せています。
「これは古い机の引出しにあったので、お祖父様《じいさま》のものらしいよ。」
「それではお大事なのでしょう、戴《いただ》いていいかしら。」
「いいとも。今家にはそんな趣味の人はないから。」
 帰って来たので見せましたら、「これは面白い」とその簡素な彫を喜びましたが、そのはずです。その後何年も集めましたが、鹿の角のはそれだけでした。
 追々《おいおい》心がけては集めるのでしたが、形も小さく価格もそれほどでないので、入手しやすいのです。折々『装剣奇賞』などを見ていました。その本は初め鍔《つば》を少し集めた時に求めたので、「鉄色にっとり」などという言葉を、私なども覚えました。象眼《ぞうがん》のある品などは一々袋に入れるので、いくつも縫わせられました。古いよい裂地《きれじ》でなければといわれて、そんな品は持ち合さないので困りました。それが今度は根附になったので、その本の根附の処を頻《しきり》に見るのでした。
 日本に仏教が盛《さかん》になってから、仏像の彫刻をするために、優秀な技術の仏師が渡来して、その発達も目ざましく、相好《そうごう》の荒々しいのも柔和なのも、種々な傑作が今の世までも残されているのですが、それに由来して日本人独得な緻密の性能から、根附のような彫刻も始まり、江戸時代には隆盛を極めたようです。あたかも鎖国時代の事で、外国の影響は少しも蒙《こうむ》らないで発達しましたから、西欧人が珍重して研究するはずだと思います。
 根附は提物《さげもの》の根元に附けるために用いるので、昔の燧袋《ひうちぶくろ》から巾著《きんちゃく》、印籠《いんろう》、煙草入の類を帯と腰との間を、吊《つる》す紐《ひも》の端に取りつけたものです。『装剣奇賞』に、「佩垂《はいすい》の墜《つい》に用ゆ」とあります。
 形彫《かたぼり》根附といわれるのは、人物動物などを形のままに彫刻したもので、一番数が多いようです。饅頭《まんじゅう》根附といって、円形の扁平《へんぺい》なものもあり、また吸殻《すいがら》あけといって、字のように煙草の吸殻をあけるために作られたものもあります。黒塗の印籠、または金蒔絵《きんまきえ》をしたり種々手の込んだ優美な品につける根附は、高尚な趣味のものでなければならず、吸殻あけなどは簡単な人が持つのでしょう。紙巻煙草が盛んになるまでは、職人、農人などは掌《てのひら》にあけて上手にころがして吸付けたものでした。

 根附の材料は種々あるので、日本は良材が多いのですから、檜《ひのき》などよく使われましたが、その質が余り硬くないので、磨滅する虞《おそ》れがあります。宅にある根附の中に、笠《かさ》の上に何か動物のいるのがありましたが、すっかり減って形が分らぬ位になっていました。「これは珍しいから」と、大事にしていました。その道の人は減るのを慣れというそうで、これなどは慣れの甚しいのでしょう。
 そのために硬く粘り気のある黄楊《つげ》を用いるようになりましたが、産地によって硬軟の差があるようにも聞きました。また桜、黒檀《こくたん》、黒柿《くろがき》なども用いられ、胡桃《くるみ》なども多く使われます。これは種彫《たねぼり》といわれます。
 象牙は黄楊と共に、根附にはよく使われるので、支那、朝鮮からの輸入でしょう。琴柱《ことじ》にも使われましたが、三絃《さんげん》の盛んな頃はそれに使う撥《ばち》の需要が夥《おびただ》しいのでしたから、撥|落《おとし》が根附の材料に多く使われたのですが、低級の人が用いるので、名のある人たちが、皆良質の品を厳選したのは無論のことでしょう。いつどこで求めたのか、その三角落しの根附が一つありました。大分古びています。ならず者ででもありましょうか、裾《すそ》を帯に高々と挟んで、足を二本ずっと出しています。頭は月代《さかやき》が広く、あお向いた頸元《くびもと》に小さな髷《まげ》が捩《ねじ》れて附いていて、顔は口を開いてにこやかなのは、微酔《ほろよい》加減で小唄《こうた》でもうたっているのかと思われました。身を斜に片方の肩を少しあげているのが、三角をよく利用したものと思います。これも面白いと申しました。その象牙は大分黄ばんでいましたが、産地によるのか、採集時によるのでしょう。
 同じ象牙彫でも、山水の形を細かに彫って、立木があり家があり、よくもこんなにと思うようなのもあります。まさか天使でもないでしょうが、可愛らしい子供が、太った手足を出してしゃがみ、薄衣《うすぎぬ》らしいものを頭から被って、その襞《ひだ》が形よく柔かに垂れている純白の美しいのもありました。これなどは外人向きと見えますから、かなり新しいものでしょう。始めはこんな風のものも求めましたが、だんだん目が肥えて来て、古い木彫でなければというようになりました。

 根附は帯へ挟むためですから、滑りのよい形を選ぶので、昔は小さい瓢箪《ひょうたん》を使ったといわれます。ひどくひっかかりそうなのは好まないので、木魚《もくぎょ》などは多くもない採集の中にも三つ四つあったでしょう。その他|達磨《だるま》は、堆朱《ついしゅ》のも根来塗《ねごろぬり》のもありました。亀も形がよいと見えて、一つのも重ったのもあったようです。
 秘蔵したのは釣瓶《つるべ》の上に蛙《かえる》がいるのでした。正直《まさなお》という銘がありました、正直は何代かあったのですから、どれだか分りません。小金井は名のためではなくて、ただ気に入ったのを喜ぶのでした。また木彫のお福の面がありました。それには出目右満《でめうまん》とありました。右満は天下一ともいわれたのですから、真物などやたらに手には入らないでしょうが、その面のにこやかな面《おも》ざしは、見ていてほほえまれます。それから無銘ですが、鬼の面がありました。目に金が入れてあり、上手な作と見えて、物凄《ものすご》い様でした。どちらも黄楊らしく、よい艶《つや》に光っていました。
 珍しがっていたのは、三番叟《さんばそう》が烏帽子《えぼし》を被り鈴を持っているので、持って振りますと、象牙を入れた面から舌がちょいちょい出るのです。彩色した茶摘女《ちゃつみおんな》や、能人形も少しあり、金属や陶磁器のも一つ二つありました。

 しめやかな雨の降る日、朝書斎に這入《はい》ったままあまり静かなので、そっと二階へ上って覗《のぞ》きましたら、机の上へ薄羅紗《うすラシャ》の裂《きれ》を敷き、根附を全部出して順よく並べ、葉巻をくわえて楽しそうに見ています。「おや陳列会ですか」といいながらはいりますと、それを買った時、貰《もら》った時のことなどをぽつぽつ話します。それぞれに思い出があるのです。何か一品手に入りますと、また机の上の陳列会があるのでした。
 晩年あまり外出せぬようになってからは、楽しげに愛玩《あいがん》すると聞いて、知人が一つ二つ持って来て下さる事もありました。下さる人はそれほど目利《めきき》という訳でもありませんから、古くない慣れの少いのもあるので、絹の打紐《うちひも》を通して、中指にかけて握っているのを皆が笑いますと、自分も笑いながら、「名のある彫刻師で、いつも自作を一つ袂《たもと》に入れて、磨《みが》いていたのがあるというよ」といいます。
 いつか全部に紐をつける事にしました。それからは本や新聞を見る時も、紐を指にかけて握っているのでした。睡《ねむ》っている時も手から離しません。朝目が覚めて、「どこかへ行った」といいます。顔を洗いに立つと、蒲団《ふとん》の上に転がっていました。
 段々終りに近くなっては、一々品をいいますから、取りかえてあげます。見ないでも握り加減で分るのでした。やはり木魚とか種彫とか、握り工合のよいのを喜びました。「子犬」といわれて取ってあげるのは、草鞋《わらじ》に子犬が二つむつれている形でした。大きさも程《ほど》よく、ほんとに可愛らしいのでした。
 終ってからそれらの品々を皆集めて、柔い裂に包んで箱に入れ、仏の前に供えて置きました。納棺の時にと思いましたが、病理解剖にするのでしたから、いよいよ埋葬の時、一つ二つ手馴れたのを入れました。地下でも相変ら
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