っと成人して養子を貰い、間もなく妊娠したので、これからと思った時に祖父が客死せられたので、その時の祖母の歎きは思いやられます。それでも気丈な祖母は崩折《くずお》れず、養子が優しい性質で励ましてもくれますので、孫の出生をひたすら待ったのでした。そうして生れた孫が私たちの長兄鴎外で、母はその時十七歳でした。
母の産は不思議なほど軽かったそうです。お医者仲間では、まだ年少なので、骨が堅くないからだろうという人もありましたが、祖母は、「全く祖父のお助けに違いない。生変《うまれかわ》って来られたのだから」と、神棚へ灯明を上げて、いつまでも拝まれたとのことです。
そんなわけで、その初孫《ういまご》を非常に大切になさるのでした。或日夜更けてから用事のある人が、横堀にあった森の家の辺を通りかかると、あかあかと灯がともっていて、人声もするのです。もしや病人ではあるまいかと覗《のぞ》いて見たら、生れたばかりの赤ん坊のむつかるのをあやすというので、皆起きて騒いでいるのに呆《あき》れたということです。私はその話を聞いてほほえんだのでしたが、近頃|成尋阿闍梨《じょうじんあじゃり》の母の日記のことを佐佐木信綱《ささきのぶつな》大人《うし》の書かれたのに、その母性愛のことの記されてあるのを読んで動かされました。成尋はひよわかったので、人に抱《だか》せると泣き、自分が抱けば泣止む。寝床へ置いても泣出すので膝《ひざ》の上で寝かせ、高坏《たかつき》を灯台として膝の前にともし、自分は背中を衝立《ついたて》障子にもたせかけて、百日の間は乳母《うば》にも預けずに世話をしたなどとあるのです。時代こそ違え、身分こそ違え、祖母の孫に対する心は、阿闍梨の母にも劣らなかったろうと思います。何しろ母が若かったので、長兄は殆《ほとん》ど祖母に育てられたのです。
私ども兄弟は幸に丈夫でしたが、孫の於菟さんは早く母に別れ、乳母の乳が悪かったというので、始めは弱々しかったのに、母はその頃家事に忙しいので、祖母の心配は一通りではありません。「森家の長男に気を附けねば」とよく世話を焼かれたのですが、時には焼かれ過ぎることにもなるので、皆うるさがり、困りもしました。もう団子坂へ移ってから、於菟さんが腎臓病に罹《かか》って、「入院させたら」という話になった時、「私の傍から連れて行ってしまうのはあんまりだ」と、泣いて承知せられません。
「そうではありませんよ。遠方へほんとに連れて行かれたら大変だと思って入院させるのです」と、納得させるまでが長くかかりました。
いつも日当りのいい処で、眼鏡をかけて裁縫をなさいますが、針箱などはありません。何か黒塗の処々|剥《は》げた箱を使うのでしたが、その辺は綺麗に片附いていて、糸屑《いとくず》など散らかっておりません。解き物などをするのにも、長いのは皆|揃《そろ》えてしばって、たとうへ入れてあります。それらは袖廻りとか、絎物《くけもの》とか、当りの強くない処にだけ使うのでした。新しい糸は背筋、脇縫《わきぬい》などに使います。それも大抵寸法を取って切り、右手で縫い始めて、終りますとちょっと左の手で針を持ちかえて、二針三針返し縫をすると糸がなくなります。「両刀使いですね」といいました。短い糸はつなぎ合せて玉にしてあり、それも木綿と絹とが別にしてあって、幾つか溜《たま》ると蒲団《ふとん》の被《おおい》などに織ってもらいます。
老眼の度が進んだばかりでなく、白内障になって、片方は全く見えず、片方も視力が大分弱ってからは、絵のある本を二、三冊傍に置いて見ていられました。煙草《タバコ》は吸わないのですから、退屈そうでした。たまに私が子供を連れて行きますと、ひどく喜んで、「御馳走《ごちそう》しましょう、栗を持ってお出《いで》」といって、栗の堅い皮を小刀でお剥《む》きになります。「危いではありませんか」といいますと、「私は目で見ないで、勘でするのだから」と、なるほど上手になさいます。「渋皮はそっちで剥いて、御飯に焚《たい》ておくれ」と御機嫌です。
その間にも、よく鼻をおかみで、紙屑籠《かみくずかご》はじきに一杯です。「年寄は皆鼻をかむものだが、私の洟《はな》のひどく濃いのは、脳味噌がだんだん溶けて出るのらしいよ」といわれるので、「まさか」といって笑います。
女中たちが早く用事の片附いた夜などに、「御隠居様、お相手をいたしましょう」と、花がるたなどをしますと、始めは喜んでいられますが、あまり負かしては気の毒だと思って斟酌《しんしゃく》しますと、勘がよいのですからすぐ悟って、「もうおやめにしましょう」といわれるのでした。
追々に残った方の目も見えなくなり、火鉢の傍で泣いていられるのがお気の毒でした。母が心配して私の宅へ来られて、「あんな年寄でも手術が出来るものかしら」と相談されました。主人が早速大学の眼科へ行って、河本氏に尋ねましたら、「健康なら手術は簡単だから」とのお話でしたので、それではと入院となったのです。
手術の済んだ午後に主人が尋ねましたら、何の故障もなかったそうで、安静第一とのことです。それで二、三日過してから私は見舞いました。
「喜んでおくれ。また見えるようになるそうだよ」といわれます。
附添《つきそい》の看護婦は元気のよい人で、「御隠居様は大層経過がおよろしそうですが、どうも繃帯《ほうたい》をおいじりになっていけません」といいます。それを聞いて、「うるさくて困るものだから」とおこぼしです。
「それはおうるさいでしょうが、そっとしてお置きの方が早くお癒りになりますよ」となだめますと、看護婦がまた口を挟んで、「召上り物はよく上りますけれど、昨晩あまり甘いお菜だから、さっぱりした大根|卸《おろし》が食べたいとおっしゃいます。けれどもそんな物はございませんといっても、これだけ大勢の食事を拵《こしら》えるのに、大根の切れ端くらいないはずはないとおっしゃるので困りました」というのです。
「おばあ様、ここではね、何でもすっかり出来上った品を運んで来て、附けわけるのですから、大根の切れ端はありますまい。あした大根と卸金《おろしがね》とを持って来ましょう。きょうのお見舞はきんとんです」といいますと、「甘くてもきんとんならば」とお喜びでした。
帰りに賄室《まかないべや》の前を通る時に見ましたら、間の時間なので、がらんとしていて人気もなく、小鼠《こねずみ》がちょろちょろ走っていました。廊下では繃帯をかけたり、黒い眼鏡をかけた人に多く出逢います。目の悪い人も多いものだと思いました。
退院後は大分元気を取戻されて、また元のような静かな日が続きました。
或日森の母が見えて、「お前の家の紋本があるなら見せてほしい」といわれます。宅では男紋と女紋とが木版で出来ていますので、男のは※[#「縢」の「糸」に代えて「木」、第4水準2−15−26]《ちきり》違い、女のは粟穂《あわぼ》違いです。
「女紋の方を捺《お》しておくれ」とおっしゃるので、「何になさるの」と聞きますと、「まあ、待ってお出《いで》なさい。」
程もなく三越《みつこし》から大きな箱が届きました。「何だろう」と思って開けましたら、燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》に白羽二重《しろはぶたえ》の裏、綿《わた》をふくらかに入れた袖無しです。背には粟穂違いの紋が、金糸に色糸を混ぜ合せて、鮮かに縫ってあります。
「まあ、見事ですこと」と、家中寄って眺めていますと、そこへまた森の母が来られていわれました。
「ちょうど宮内省からいただいた白生地があるので、お祖母様の退院の心祝いを兼ねて緋に染めさせて、家ばかりでなく親類の女の年寄の方たちにも贈物にしようとお兄さんがいわれたので、それぞれの定紋《じょうもん》を縫わせて、五つほど造らせたから、お前の処のお祖母様にもと届けさせたのだが、綺麗でしょう。」
宅の母はそれを、「あまりお立派で勿体《もったい》ない。飾って置きたい」といわれました。
その内に三十七、八年戦役になって、兄は出征されましたので、あの袖無しを著《き》てお祝の席に出ると楽しみにされたのも徒《いたずら》になって、時が過ぎました。ですから三十九年の一月に凱旋《がいせん》になった時の祖母の喜びは非常なものでした。その前日に尋ねましたら、「祖母様がちょっと」といわれます。
何かと思ってお部屋へ行きますと、小さな火燵《こたつ》に寄りかかって、笑いながら、「こうやって林《りん》が立派にやっていられるので、私たちも仕合せなのを喜んでいますが、孫にだって御主人といってもよかろうねえ」といわれるのです。
「そうですとも。御主人に違いありませんよ」といいますと、「私が歌をよんだから聞いておくれ」といわれます。
「まあ」と、私はびっくりしました。今までついぞそんなことなどおっしゃったことはないのですから。
「笑わないでおくれ」といわれます。
「笑うものですか。ただ珍しいので驚いたのです。」
「無事に帰るのを、私も丈夫で待受けたと思った今朝、庭の蹲《つくば》いの傍に水仙が一つ咲いていたのが目に附いたので、
[#ここから3字下げ]
御主人のけふお帰りをよろこぶか
ぽつかり咲いた水仙の花
[#ここで字下げ終わり]
どうだろう、ぽっかり咲いたのがいいたかったのさ。」
私はまた驚きました。昔から家事には精《くわ》しいのですが、そこらに本があっても見ようとはなさらず、ただ倹約ということばかりをいっていられたのですし、まして近頃は気力も衰えて、はっきりもなさらないのに、どうして歌をお思附《おもいつき》になったのだろう、よほどお嬉《うれ》しいのに違いないと思いますと、いつか目頭《めがしら》が熱くなりました。歌は百人一首だけがお馴染《なじみ》だったのです。
「お祖母様はお上手ね。結構ですからお書きになったら。」
「筆なんか持ったことはないよ。お前書いて置いて、林が帰ったら見せておくれ。誰にもいってはいやだよ。」
恥しそうな御様子です。
明くる日、帰宅せられた時はなかなかの混雑でしたが、少しの合間《あいま》に赤い袖無しを著て、ちょこちょこと座敷へ出て、「御無事でおめでとう」と、丁寧に挨拶《あいさつ》をなさいました。
その夜、お客が遠退《とおの》いた時に、歌を書いた紙を私がそっと出しましたら、お兄さんはそれを見て、にこにこ笑っていられました。
翌日出勤の時に、「お祖母様、歌をありがとう」と、声をお懸けになりましたら、首を縮めて、小さな体を一層小さくなすったということでした。
それから気の張《はり》がなくなったというのか、めっきり弱くなられましたが、三、四月頃からは米寿《べいじゅ》の祝をして上げるといわれたのをひどく喜んで、いつもその気分でいられるのでした。人が見えて、そこらがごたごたしますと、「お客様は大勢かい。賑《にぎや》かだね」などといわれます。それで七月亡くなられる時は、もうお湯も召上らず、ただすやすやと息をして、一週間目に終られました。いよいよ納棺という時、お蒲団の上で足を伸したら、ちっとも小さくはありません。やはりいつもつつましやかにしていられるので、誰もが小さく思ったのでした。
御遺言にまかせて、お骨は土山《つちやま》の常明寺の祖父のお墓の傍に納めました。年が立って兄も亡くなられ、向島の墓も都合で三鷹《みたか》へ移されました。それから幾らも立たない頃に墓参に行きましたが、まだ道順もよく分らず、吉祥寺《きちじょうじ》で省線を降りてから、禅林寺まで行く道の細い流の中で障子をせっせと洗っているのを、秋も深くなったと思いながら、佇《たたず》んで見ていましたが、傍に小綺麗な百姓家があって、荒い生垣《いけがき》から中がよく見えます。ふと赤いものを見かけて覗《のぞ》きましたら、日当りのよい縁側に、よほどの年でしょうが、髪の真白な、顔の柔和なお婆さんが、真赤な袖無しを著て、一心に糸車を廻しています。庭には山茶花《さざんか》が咲き、鶏が二、三羽遊んでいて、ほんとに絵を見るようでした。そのお婆さんから、暫く忘れていた袖無しのことを
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