から、同藩の医|吉木蘭斎《よしきらんさい》というのが直ぐに迎えて養いました。「好い拾得物をなされた」と、人が羨《うらや》んだといいます。やがて娘に娶《めあわ》せましたが、幾程もなく順吉は藩を脱してしまいました。養父の失望、娘の悲歎はいうまでもありません。どんな事情があったのか知りませんが、「そんなことなら婚礼などしなければよいのに」と、人が噂《うわさ》をしたそうですから、いずれ無情な行動があったのでしょう。その時になって、始めて誰も祖父の目利《めきき》の違わなかったのを感じました。
 順吉は脱藩後|仏蘭西《フランス》語を修め、忽《たちま》ち上達して、江戸で徒を集めて教えていました。明治初年になって、前に述べた西周氏が洋行から帰って、西三筋町《にしみすじまち》に住われた頃、沼津に軍黌《ぐんこう》が出来るからとのことでその主務教頭となるように勧められて承諾しました。その時順吉が尋ねて来ることが度々に及びました。新知識に接するためでもあり、森家の親戚という意もあったのでしょうか。ところが西氏の沼津へ立たれる前に来ると約束して置いて、ついに来ませんかった。順吉と同宿していたのが津和野の人で、後に西氏に語りましたのには、或日金沢の士が二、三人尋ねて来て、どこかで酒を酌《く》んだようですが、それきり帰りません。その後見た人がないのですから、きっと殺されたのでしょう。翌日その室を見たら、取散らしたままになっていたから、遁《のが》れたのではありますまい、とのことでした。あたら才分はありながら終をよくしなかったのは惜しいことでした。
 祖父が病を押して江戸からお国へ帰る途中、近江《おうみ》の土山《つちやま》で客死せられたのは、文久《ぶんきゅう》元年のことでした。長兄が生れる前年です。ですから私たち兄弟の誰も祖父の顔を見ていません、写真もないのですから。
 祖父の容姿のよかったことは前に書きましたが、その歿後《ぼつご》、祖母には経済の才があると、兼ねて聞えていたのでしたから、再縁を勧める人が多い内に、藩でも有名な富豪の某家から是非にと望まれました。森の家はもともと資産などないのでしたので、応分の補助をする、後嗣《あとつぎ》も生まれて御家庭の心配もあるまいから、どうか来てもらいたいと、断っても断ってもいわれます。ついには祖母の里方、長州|鷹《たか》の巣《す》の木島家までも手を廻したので、心弱い里方の父もその応対に困り果てましたが、その時祖母が、「先様《さきさま》には何の申分もありませんが、亡夫より男ぶりが悪いから御免を蒙《こうむ》りましょう」といわれたので、仲介者も口をつぐんだとのことでした。もとより口実だったのでしょうけれども、聞く人もそれを怪《あやし》まなかったのです。
 その祖母から私は、一人きりの女の子というのでかわいがられて、夜《よ》なべをしながらよく祖父の話をして下すったので覚えているのですが、その内の一つに次のようなのがあります。
 或年の三月頃の晩、祖父は知合の家で碁を打って、夜を更《ふか》されました。その日は空が薄曇っていて肌寒く、今にも雨がこぼれそうだと思う内に、本降《ほんぶり》となりましたので、家では若党の和助を迎いに出しましたら、とくに帰られたというのです。夜更にどこへ寄られたろう、行違いになるわけもないし、もうお家へお著《つき》かも知れぬと思いながら帰って来ますと、いつか雨が止《や》んで、月が出ています。傘を畳んで、提灯《ちょうちん》を消して、川の辺まで来ますと、川の水が光ってそこらが明るく、橋の上に何やら立っているものが見えます。立止ってよく見ますと、それが御主人で、傘は拡《ひろ》げたままで足許《あしもと》を見ていられます。
「旦那様《だんなさま》、どうなさいました」と、声を懸けても聞えぬらしいので、「旦那様、旦那様」と、なおも呼びながら近寄りました。
「旦那様、雨は止んでおりますのに」といって傘を取りましたら、初めて気が附いて、「あゝ和助か」といわれます。
「そちら側は板が落ちていて、お危のうございます。こちら側をまいりましょう。」
 そういって、お供をして帰りましたが、家に著きましても、あまり口を利かれません。それでも家の人たちは安心して、「きっとお酒が過ぎたのでしょう」と思っていました。
 その翌日、祖父は祖母に話されました。
「ゆうべ先方《せんぽう》を出ると、人通りのない道を、笠《かさ》を被った小僧が素足でぴちゃぴちゃ附いて来るので、傘の中へ入れてやったが、足許に絡《から》みついて歩きにくいことといったら少しも道がはかどらぬ。連《つれ》はないのか、どっちへ帰るのか、と聞いても返事をせぬ。顔を見ようとしても、小さな笠で分らない。やっと川の辺へ来たら、『こっち、こっち』と袖《そで》を引いて、橋の方へ行く。橋は雨で一面に濡《ぬ》れている。高下駄《たかげた》で辷《すべ》りそうだし、橋板の落ちている所もある。桁《けた》の上を拾って歩くと、またしても足許に小僧が絡む。そんなことでどれだけ時間が立ったか、汗びっしょりになった時に和助が来てくれたのだ。」
 これを聞いた祖母は、目を円くしていいました。
「それはきっと狸《たぬき》でしょう。あの辺には狸が出るように聞きました。」
「何だか知らぬが、誰にもいわぬように。」
 口止めをされたので、祖母は誰にも話しませんかったが、母だけは知っていました。祖父は碁に凝ったためと思われたと見えて、その後は碁石を手にせられませんでした。
 長兄のお書きの伊沢蘭軒《いざわらんけん》の伝にも、似寄りの話が出ています。蘭軒が病家からの帰途、雨の夜で、若党が提灯を持って先に立って行きます。蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》のお堂に近い街を過ぎる時、菅笠《すげがさ》を被った童子が後から走って来て、並んで歩きました。
「おじさん、怖《こわ》くはないかい。」
 蘭軒は答えません。童子は反覆しました。若党は振返って見るなり、「あっ」と叫んで、傘と提灯とを投出しました。
「どうしたのだ。」蘭軒が問いました。
「今お側にいた小僧は、額の真中に大きな目が一つしかありませんかった。」
「ばかをいうな。そんなものがあるものか。お前の見損いだ。」
「いいえ、河童《かっぱ》が出たのです。あの閻魔堂の前の川には河童がいます。」
 蘭軒は高笑いしました。「目が闇《やみ》に慣れて来た。思いの外暗くはない。提灯と傘とを拾って来い。」
 伊沢の家には近視の遺伝がありました。それで蘭軒は童子の面を見ることを得なかったというのです。なんというよく似た話でしょうか。けれども森の家には近視眼の遺伝はないのです。
 ずっと後のことですが、次兄の篤次郎は筆名を三木竹二《みきたけじ》といって、大の芝居好《しばいずき》で、九代目団十郎が贔屓《ひいき》でした。その団十郎が「高時《たかとき》」を上演しました時に、勧められて祖母と一緒に見に行きました。母は次兄に連れられて、とっくに見られたのです。
 団十郎の扮《ふん》した高時の頭は円く、薄玉子色の衣裳《いしょう》には、黒と白との三《み》つ鱗《うろこ》の模様が、熨斗目《のしめ》のように附いていました。立派な御殿の廂《ひさし》の蔀《しとみ》を下した前に坐っています。どろどろの鳴物《なりもの》でそこらが暗くなりますと、天狗《てんぐ》が幾つも出て来ます。皆羽根を附けていて、欄干を伝うのもありますし、宙返りなども鮮かにするのです。その役者たちは、幾日も熱心に物干《ものほし》に下りた鳶《とんび》を見て研究したのだそうです。やがて高時の側へ来て、頻《しき》りに嘴《くちばし》を動かすのは、舞を教えようというのでしょう。高時は機嫌よく立上って、「習おうとも、習おうとも」といって、天狗どもに引廻され、不思議な挙動をさんざん繰返した後に、疲れ果てて睡《ねむ》ります。怪しい気配を訝《いぶか》しがった城入道その他の人々が、廊を踏鳴らして近寄ると、天狗たちはばらばらと柱をよじ上り、鴨居《かもい》を伝わって逃散ります。そして虚空から、「天王寺の妖霊星《ようれぼし》を見ずや」と歌います。その声が聞えると、高時は正気に返って立上り、小|長刀《なぎなた》片手に空を睨《にら》みます。駈寄《かけよ》った人々が燭《しょく》を差上げ、片手を刀の柄にかけて、同じく空を見上げたところで幕になりました。
 これを見て私は、また祖母の話を思出したのです。風の冷い晩秋の頃、毎夜二、三の同僚の家へ代る代る集って謡の会をするのに、祖父も混っていられました。藩主は謹厳な方で、歌舞音曲はお好みになりませんでしたが、謡はなさるとのことでしたから、自然家中の者も嗜《たしな》んだのでしょう。その祖父が或夜帰られませんので、病気でも出たのかと早朝人を出しましたら、途中の森の社《やしろ》の廻廊で睡っていたというのです。
「誰とも知らぬ二、三の人と出逢って、ここに立寄ったが、医道について論ずるのに、甲論乙駁《こうろんおつばく》という有様で果てしがなく、ついに言伏《いいふ》せはしたが、ひどく疲れた」と祖父はいわれたそうです。
「高時」の芝居を見てそのことを思浮べた私は、そっと祖母の袖を引いて、「おじい様がお社で人と議論をなすったというのも、あんなでしたろうか」と申しましたら、「そんなお話は人中でするのではありません」といわれました。
 頭は円いし、相貌《そうぼう》は立派ですし、祖父もあんな風ではなかったかと思ったのです。それで帰ってから兄たちにいいましたが、誰も相手にしませんかった。
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   祖母

 森の祖母が八十八で亡くなったのは明治三十九年七月で、ちょうど於菟《おと》さんと、宅の長男と、二人の曾孫が高等学校へ入学した時でした。於菟さんを非常にかわいがっていられたのですから、分ったらさぞ喜ばれたでしょう。
 若い時から身だしなみのよい人だったそうで、老いてからも毎朝丁寧に手水《ちょうず》を使い、切下げの髪を綺麗《きれい》に撫《な》でつけて、火鉢の側にきちんと坐っていられるのでした。毛筋は細く柔かで、茶色になっていましたが、白髪は終るまで一本もないのが不思議でした。小作りな痩《や》せ形《がた》な人で、色は浅黒く、人並より鼻が高いのでした。歯は入歯でしたが、それが鉄漿《かね》でも附けたかのように真黒で、黄楊《つげ》で造らせたとのことでした。
 その切下げの髪で思出したのですが、私を毎朝小学校まで、運動がてら送って下すっていた頃、帰りに巡査が呼止めて、「いつその髪を切ったのか」といったのです。咎《とが》められたと思った祖母は腹を立てて、「ちゃんと届がしてあります。家へお出《いで》なさい、見せますから」といったら、そのまま行ってしまったとのことでした。父は笑って、「咎めたのではないでしょう。誰か親戚の人にでも髪を切らせようと思って聞いたのかも知れません」といわれました。
 祖母はその頃六十位でした。まだ職人などには、男でも結髪の人をよく見かけた時代で、断髪令というものが出たと聞いたことがありますが、まさか届を出したのでもないでしょう。病気のために断髪するという形式でもあったのでしょうか。
 その頃の小学校では日々成績表を附けていて、出来のよいのは丸が貰《もら》えるのです。生徒たちは自然丸の数を競うことになります。帰って祖母の顔を見ると、「今日は幾つ」と、きっといわれます。丸の多い日は元気ですが、少い日にはしょげるのです。叱りはなさらなくても、むつかしい顔を見るのがつらいのでした。
 森の家では質素な生活を長年の間続けていたのですから、祖母はよく働かれたのでしょう。祖父は思う通りを行って、人の思わくなどは顧みない風でしたから、その周囲の人々との間を円満に執りなすのには骨を折られたそうです。上役の人の家に然《しか》るべき来客などのある時には、「お執持《とりもち》に森のおもう様をお願いするといい」といわれたくらいでした。おもう様は方言です。
 初めの男の子が夭折して、次に生れたのが母でしたが、小さい時は虚弱でしたので、育てるのに心遣いが多かったのです。それがや
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