くれますし、何が分らぬといいますと、すぐに図書館で調べて、書抜《かきぬき》を送ってくれました。私が年をとって細《こまか》い文字など見づらいので、校正なども頼みますと、長年|馴《な》れているものですから、手早く親切にやってくれます。それをいつも感謝しておりました。酒を絶対に用いませんので、御礼心に、来そうな時には甘いお菓子を心懸けて取って置くようにしていました。
萎縮腎は一時|快《よ》くなりましたので、大晦日《おおみそか》には米や野菜を持って箱根へ湯治《とうじ》にまいりました。元旦にそこから寄越《よこ》した葉書に、「私は割合に元気にしております。元日と二日とは休養、三日頃から見物、携帯食糧のなくなる頃帰京」などとしてありました。全快したのかと喜んでおりましたら、二月の中頃に丹毒《たんどく》になったといって来ましたので、どうかと思って見まいますと、「もう足の痛みは取れた」といって、座敷の中をずっていました。それほどでもなかったらしいのですが、いろいろの病気も皆腎臓から出るらしいので、内心困ったものと思いました。
その年は例年よりも寒さが続いていました。三月二十日になってまだ雪を催している日に、台湾の於菟さんに潤三郎の近況を知らせようと手紙を書いていましたら、そこへ当人がひょっこり尋ねて来ました。
「まあ、もう出歩くのですか。無理でしょうに」といいますと、「痛みも取れてあまり退屈だから出て来ました。神田《かんだ》の本屋に用があるので、ついでに寄ったのです」というのです。
食事時になりますけれども、時節がら何もありません。何しろ寒いのですから、お雑炊《ぞうすい》を作って出しましたら、「これで温かになります」と、ふうふう吹いて食べておりましたが、その横顔はめっきりと痩せが目立っていました。
帰ります時に、玄関まで送って出て、「病気の挙句《あげく》だから、気を附けて早くお帰りなさい」と書いて見せましたら、「うんうん」とうなずきました。悪くならねばよいがと、後姿を見送ったのですが、それが宅へ来た最後となってしまいました。
潤三郎が帰ると、間もなく雪が降出しました。案じられるものですから手紙を出しましたが、この頃は郵便も手間取るので、二十七日にやっと返事が来ました。「あれから帰りに新富町《しんとみちょう》の友達の家で話す中に雪となり、帰ったら病気が再発してまた医者通いをしましたけれどもう癒った。医者の勧めもあり、また箱根へ一週間ほど行きたいと思います」とのことです。
けれども四月二日にはまた、「箱根はさっぱり湯が出ないし、ひどく物資も不足だというから、湯の出るようになるまで見合せます」といって寄越したので、どこへも行かなかったことを知りました。
それから三、四日した四月六日の朝でした。電話がかかって来て、「脳溢血《のういっけつ》で、けさから昏睡《こんすい》状態です」というのです。
「それは大変、すぐ行きます」と、急いで支度している内にまた電話です。「唯今こときれました」と聞くなり、思わずそこに坐ってしまいました。
生きている間に今一度逢いたかったと思うと、涙がこぼれて仕方がありません。老年になってから、十も年下の弟に先立《さきだ》たれ、四人兄弟が私一人になってしまったのですものを。
車といっても近頃は間に合わないので、省線、目蒲線《めかません》と乗継いで行くのが、もどかしくて仕方がありません。駅を下りてからの長い桜並木は、まだ莟《つぼみ》が堅くて、籬《まがき》の中には盛りの過ぎた白梅が、風もないのにこぼれておりました。
枕元に坐ってさし覗《のぞ》きますと、ただ静かに睡《ねむ》っているようですが、もうこの世の人ではありません。拝をしてから額に触《さわ》って見ましたら、氷のような冷かさ。それが電気のように沁《し》み渡ります。つい十日ほど前に、熱いお雑炊を、ふうふう吹いていた横顔が目に浮びました。涙と香の煙の立迷うのとで、そこらはただ朧気《おぼろげ》に見えました。
遺骸《いがい》にはさっぱりした羽二重《はぶたえ》の紋附が著《き》せてありましたが、それはお兄様の遺物でした。納棺の時に、赤い美しい草花を沢山取って来て、白蝋《はくろう》のような顔の廻りを埋めたのが痛々しく見えました。私はそっと紙と鉛筆とを入れました。いつも身に附けていたものですから。
書斎には蔵書が書棚に溢《あふ》れ、また昔からの趣味で、あらゆる物を切抜いて貼附《はりつ》けたのが山を成しています。もはやそれを読む人も、整理する人もないことを思いますと、またしても目頭《めがしら》が熱くなりました。
それから毎日のように潤三郎の家へ行きます内に、並木の桜の花が咲き、それがまた忽《たちま》ち盛りを過ぎて、目蒲線を往復する電車の屋根を白くするようになりました。思えば遠い遠い昔です。私どもが幼くて向島《むこうじま》に住んでいた頃、土手の桜の花の盛りに、やっと歩かれるようになった弟の手を引いて、お母様たちともよくその辺を散歩したものでした。その頃の隅田川《すみだがわ》には花見船が静かに往き来していて、花びらがちらちらと川の水に散りかかっていたのでした。並木の桜の散るのを見て、その頃がなつかしく思出されました。
*
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雪の日に早くかへれとわれいひぬ
つひのわかれと知るよしもなく
わが涙たゞしづくすれぬかづきて
のごひもあへず香たてまつる
かひなしと知りつゝその名一声は
呼ばであられぬわれなりしかな
なき人をきのふもけふも訪ふ家の
庭の白梅ちることしきり
羨《うらや》ましかの世に行きてむつまじく
父母兄達とかたりますらん
茶羽二重大きく白き菊の紋
兄のかたみをよみの晴著《はれぎ》に
人の世のはかなさ見せてゆく道の
並木のさくら雪とちりかふ
はや十日かすかにちりの積もりたり
君が手ふれしうづたかきふみ
親はらからみなつぎつぎにさきだちて
ひとりのこりぬ七十路《ななそじ》の身の
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祖父
森の家は、石州《せきしゅう》津和野の城主亀井家に代々仕えた典医でした。亀井家は元和《げんな》三年に津和野に封ぜられてから十二代になり、森は慶安《けいあん》から天保《てんぽう》年間までで十一代になりました。祖父はもと佐々田|綱浄《つなきよ》といった人で、若い頃は江戸、大阪、長崎と、諸国を遍歴しました。天保二年に逝《ゆ》いた森|秀庵《しゅうあん》の養子になった頃は、年がもう四十位でした。通称は始め玄仙といったのを、後に白仙と改めました。亀井家では奥附という勤めでした。この祖父が十二世なのです。
祖父は性質が謹厳でしたが、同時に放胆な一面もあったそうで、趣味も広かったので、蔵書には医書の外に歌集、詩集、俳書などもあったのです。その中に橘守部《たちばなもりべ》の『心の種』があったといって、後年長兄が私に下さいました。漢文も達者に書かれたらしいのですが、詩は一つもないそうです。歌は好まれたと見えて、始めて江戸へ出る時に富士山を見て、
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おもひきやさしも名高き富士の根の
麓《ふもと》を雲の上に見んとは
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と詠んでいられます。それを後に福羽美静翁が半折《はんせつ》に書いて、自ら讃歌を添えて贈られたのが、懸物《かけもの》になって残っていました。俳諧《はいかい》は大阪にいた頃|点取《てんとり》ということを人から勧められたけれど、宗匠の人物に不服だったのと、無学の人にも叶《かな》わなかったりするので廃《や》めたのだそうです。
碁も謡も少しはなさいました。若い頃には碁に凝ったこともあるらしいのですが、或《ある》集会で十ばかりの童子でその道の天才といわれるのと打って見ましたら、少ししたらその子が声を立てて笑って、「いやだ、おじさんは。わたしがこう打てばこう、ああ打てばああと考えたのでしょうが、それではだめですよ」といいました。じっと考詰《かんがえつ》めてしたことに図星《ずぼし》を指されて赤面して、もう続ける気持がなくなったそうです。その子は盤を離れると、そこにある菓子を食べたり、相撲《すもう》を取ったりして、外の子供と少しも変らないのに、その道にかけては怖《こわ》いものだといわれました。
風采《ふうさい》もよく、背丈《せたけ》もあり、同役は著流《きなが》しが常なのに、好んで小袴《こばかま》をはかれました。頭こそ円けれ、黒羽二重の羽織を長めに著て、小刀を腰にした反身《そりみ》の立姿が立派で、医者坊主などといわれた円頂《えんちょう》の徒とは違うのでした。
その円頂のことですが、森の親戚に西《にし》という家があります。やはり代々の医者でした。森からそこへ縁附いた人の後に、小字経太郎《こあざなみちたろう》、寿専というのがあって、幼い時から学問を好んで、就《つ》いて学ぶ師が皆驚くほどでした。家蔵の書を残りなく諳《そらん》じたのです。嘉永《かえい》元年その二十歳の時に有為の才を認められ、当職が召出して藩主の命を伝えました。それは、「一代|還俗《げんぞく》仰付けらるゝに依り、儒学を修業すべし」というのでした。還俗は医者を罷《や》めることなのです。つまり僧と同じ扱いなのでしょう。後に男爵西|周《あまね》となったのはこの人でした。
祖父には人に譲らぬ気概があったので、時の典医だった堀、平田、加藤の諸氏と、脈について大いに論じた書類がありました。その頃の医者の診察は第一に脈を取り、舌を望むのです。手首を支えて動脈に触れるのですから、奥方とか姫君とかいわれる方々は、人に面《おもて》を見られるのを厭って、糸で手首を結わえて、簾《すだれ》の間から出されるのを、膝行頓首《しっこうとんしゅ》して拝診したというのです。これを糸脈《いとみゃく》というのですが、恐らくは形式だけのものでしょう。傷ついて両手を包んだ人の脈をどうして見るかという説が出て、誰も頭を傾けた時、祖父は脈は心《しん》の響を伝えるものだから、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》、頸《くび》、股《また》、脛《すね》、どこでも脈の通う所を押えれば知ることが出来る。手首は触れやすいために習《ならい》となったのに過ぎぬと論ぜられたので、列座の人々は驚き呆《あき》れ、首肯する者、否定する者、暫く騒然としたそうです。
森の家を嗣いでから祖母を迎えましたが、最初に出来た長子が夭折《ようせつ》し、次に生れた長女はひ弱くて心細かったのでしょう、その頃|石見国美濃郡《いわみのくにみのごおり》に高橋|魯庵《ろあん》という人があって、その子の順吉というのが夙慧《しゅくけい》として聞えていましたので、貰受《もらいう》けて養子にしました。津和野に来たのはその子が九歳の時でした。
順吉は眉目《びもく》が秀麗で、動作が敏捷《びんしょう》でしたから、誰にも愛されました。養老館に入って学びましたが、十四歳になった時には、藩の子弟にも及ぶ者がないと推奨されたのです。養老館は天明《てんめい》年間に建てられた藩の学校で、孟子《もうし》の養老の語を取って名附けたのです。後年母が話されたのに、「医者の家で人の出入も多く、子供に何か持って来てくれるのに、誰も私にという人がなくて、順さあに上げてとばかりいうので、祖母は変な顔をなすったよ。私はよほど無愛想な子だったと見えるね」とのことでした。
順吉はそれほど受けがよかったのですが、祖父の気に入りませんでした。心に誠実がなくて、時には虚偽にも類した行為も交ったので、弱い少女と妻の行末《ゆくすえ》とを頼むのに不安だったらしく、ついに離別せられることになりました。それを聞いた知人で、訝《いぶ》かしがらぬ者はありません。祖父があまりに頑固《がんこ》だと誹謗《ひぼう》する人さえあったのです。いよいよ話が極った時、祖母は五年間の親しみを思って涙を流されたそうですが、当の順吉は平気だったといいます。
しかし俊秀な少年として知られていたのです
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