で、何かとさぞ御苦労だったでしょう。佐佐木信綱《ささきのぶつな》氏が見えます。私と同年位なのに、よく遠くまでお越しになったこと。あちこちに知ったお顔も見えますが、ただ目礼だけして置きます。席に落ちつきましたら、隣に石井|柏亭《はくてい》氏、千ヶ崎悌六《ちがさきていろく》氏がいられるので、『冬柏《とうはく》』の歌会のあった頃を思出しました。前列から振返って目礼せられたのは額田《ぬかだ》医学博士御夫妻でした。兄が臨終の時お世話になった方です。
「沙羅《さら》の木」の詩が合唱せられて、式が始まりました。曾孫たちの小さな手で、幕がするすると除かれます。谷口吉郎《たにぐちよしろう》博士の設計に拠るということで、特に明治の煉瓦《れんが》を集めて十三|間《げん》の塀《へい》を作り、二尺五寸に三尺六寸の横長の黒|御影石《みかげいし》を嵌《は》めこみ、それに永井荷風《ながいかふう》氏が「沙羅の木」の詩を書かれたのです。その傍には詩に歌われた根府川石《ねぶかわいし》をあしらった沙羅の木の白い花が一つ二つ夢のように咲いています。
 左寄りに大理石の兄の胸像があります。これは武石弘三郎《たけいしこうざぶろう》氏の力作で、博文館で文界十傑を募集した時当選したのに対して、損得を離れて製作せられたものでした。長く処を得なかった胸像もよく掃除せられ、黒|花崗《かこう》と耐火煉瓦とを四角に積重ねた美しい台の上に据えられて、晴上った日に照らされ、つぎつぎと花を捧《ささ》げる小さな曾孫たちを笑顔で見下されているようです。
 私は近来耳が遠いのですから、佐佐木氏のお歌を始め、つぎつぎとお話下さる皆様のお言葉がはっきり聴分《ききわ》けられなくて残念です。そんなわけですから、近頃は人の集まる処へは出ないことにしています。もし出れば無言劇でも見るような気になっているより外はありません。耳が遠いといえば尾崎行雄《おざきゆきお》氏が与謝野《よさの》さんの歌会へお出になって、いつも聴音器(イヤホーン)を卓に置いていられたお姿を思出すので、私も使って見ましたが、工合よくまいりません。それで今日もぼんやりしていたのですが、傍の孫が袖《そで》を引くので、見返ると岡田八千代《おかだやちよ》女史が笑顔で立っていられました。これこそ三十余年ぶりにお目にかかるのですが、ちっともお変りになりません。
 碑の建ったあたりは、母がいつも草取りをせられた処です。腕まである長い手袋をはめて、頭は頂の辺が薄くなっているので、日が照ると手拭《てぬぐい》を乗せるのでした。西洋婦人の帽子が羨《うらやま》しいといわれました。そして小さな草まで抜かれます。それが済んだ後を掃くのは座敷|箒《ぼうき》です。柔かでないと隅々まで綺麗《きれい》にならぬといわれるのでした。
 そんな姿で門前までも平気で出て、駒寄せの間なども丹念に掃除せられます。私はその頃|蓬莱町《ほうらいちょう》に住んでいたのですが、借家でも庭は広くて正面に赤松の林があり、隣は墓地で大竹藪《おおたけやぶ》がありました。静かでよいのですけれど、そんなですから、ひどく草が生えます。私も土いじりが好きですから、よく草取りをします。母が来られると、「御覧なさい、草取りをしました。綺麗になったでしょう」と申します。母は笑って、「こんなでは駄目だよ。すぐ伸びるから。私のは毛抜で抜くようにするのだから」と御自慢です。あの『十六夜日記《いざよいにっき》』で名高い阿仏尼《あぶつに》が東国へ下る時に、その女《むすめ》の紀内侍《きのないし》に貽《のこ》したといわれる「庭《にわ》の訓《おしえ》」一名「乳母の文」にも、「庭の草はけづれども絶えぬものにて候ぞかし」といってあります。そんなことを口にして、「昔から草は伸びるものとなっているのですね」などと、母と語合うのでした。
 草取りをしてくたびれると、母は隣り境にある臥牛《ねうし》のような大石に腰を下して休まれます。それは観潮楼が出来上った時、千樹園という植木屋が勧めて入れたもので、子供たちはその背の上を面白がって歩くのでした。その石は今もきっとそこらにあるでしょう。気の利いた女中が掃除の済んだ跡で、飛石に雑巾《ぞうきん》をかけましたら大層喜ばれましたので、それから何か母の機嫌を損《そこな》うと、すぐ飛石洗いをすると笑われました。
 兄も庭の綺麗なのがお好きでした。縁の隅に麻裏草履《あさうらぞうり》が置いてあって、食後などには折々庭へ出て見られるのですが、上る時には必ず元のように裏返しにして置かれます。心ない客が燐寸《マッチ》の軸などを庭に投げたりするのをひどく嫌って、客が帰るとすぐに拾わせるのでした。
 庭には大盃という楓樹《ふうじゅ》があって、根元につくばいが据えてあり、いつも綺麗な水が溢《あふ》れるようにしてありました。苔《こけ》のついた石に紅葉の散っている時などはよい眺めでした。或建築家が、乾いた庭は息詰りがしてならぬ。水はつくばいの水だけでもよい。庭でそこばくの水を眺めるのは、お茶を飲むのと同じ気持がするといわれました。兄はよく草履ばきでその石の上に跼《かが》んで、そこらを見ていられました。明治二十九年の句に、「亡父を憶《おも》ふ」として、
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俤《おもかげ》やつくばひのぞく秋の水
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というのがあります。
 こんなことを思返している内に式は終ったのでしょう。あたりの人々のぞよめく気はいがし始めました。
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   弟

 昭和十八年十二月十三日のことです。弟|潤三郎《じゅんざぶろう》から来た葉書に、「工合が悪いので医者へ行ったら、萎縮腎《いしゅくじん》との診断です。とうとう父上、兄上と同じ病気に懸《かか》りました。いずれ跡を追うことになるでしょう」とありました。びっくりして他へ行くはずだったのを止《や》めて尋ねましたら、家はひっそりとしています。あまり静かなので黙ってそっと上って襖《ふすま》を開けますと、潤三郎は机に倚《よ》ってこっちを見て笑っています。外に誰もいないので玄関の戸の開く音も聞えなかったのでしょう。「人をびっくりさせてはいけないよ」と、紙に書いて見せますと、「いや、それほど重くはないそうで、ただ長くかかるといわれたものだから」といいます。
「長くかかってもいいではありませんか。お兄様のは一、二年だったけれど、お父様のはよくなったり、悪くなったり、随分時がかかったでしょう。老年になれば誰でもする病気ですから、気を附けて体の調節を図ったら、きっとよくなりますよ。安静にしているのが第一ですから、あまり出歩かぬことですね。」
 私はこう書いて見せて、その日は帰りました。
 潤三郎の耳の遠いのは昔からです。賀古《かこ》さんの病院へ通って、代診の内藤さんというのが優しいよい人だったので、それほどでない時にも、よく診《み》てもらったものでした。
 大正十一年にお兄様がお亡くなりの時、一週間ほど詰切《つめき》って、葬儀が済んで帰宅したその晩から大熱を出して、四、五日を夢中で過して、ようよう全快しましたものの、その時から耳は全然聞えなくなりました。精神上の打撃からだと医者はいわれます。それでも端《はた》の者が思うほど苦にもせず、元気に書き物をしたり、調べ物をしたりしておりました。いつも紙と鉛筆とを懐《ふところ》に持っていて、それを出しては人に書かせ、自分は口で返事をするのでした。
 妻の静子さんは、森の親戚《しんせき》の米原《よねはら》家の人なのですが、その生れた時に、私どものお父様の名の一字を取って、静子と名づけられたのです。子供は一人ありましたが、早く亡くなりました。静子さんは生田流《いくたりゅう》の琴が上手なので、近所のお嬢さんたちに、楽しみに教えていられました。潤三郎が耳が聞えないものですから、琴の音をうるさがらないで都合がいいといっていられました。
 潤三郎が『朝鮮年表』という本を作ったのは、よほど前のことです。朝鮮に行きたい希望でしたが、生来虚弱なので、お兄様からお許しが出ませんでした。朝鮮の歴史にも興味を持っていましたが、早くから江戸時代の文化史を専攷《せんこう》にして、『紅葉山文庫《もみじやまぶんこ》と御書物奉行《ごしょもつぶぎょう》』の著書があります。これは東照宮三百年祭紀念会の補助に成ったので、昭和八年に出版せられたのですが、約八百頁もあって、幕府の紅葉山の変遷から、御書物奉行九十人の伝記が集めてあり、奉行の伝記に関しては、雑書の類まで広く漁《あさ》った上に、その墓所をも一々踏査したのでした。京都府立図書館在職中に筆を執り始めてから、完成までに二十年の歳月を経、その間に稿を改めることが五回に及びました。自分が図書館に勤めていましたし、お兄様も図書頭《ずしょのかみ》をなすったりしたので、自然そうした方面に興味を持ったのでしょう。
 外に『多紀氏の事蹟』という著述もあります。多紀氏は江戸時代の漢方医学の牛耳《ぎゅうじ》を握って、あるいは医学校を創立して諸生を教え、あるいは書物を校刊して学者の研鑽《けんさん》の資に供した官医で、その登門録と題した門人帳に九百五十人もの名が見えるのでもその盛業が忍ばれます。多紀氏の墳墓は滝野川城官寺《たきのがわじょうかんじ》にありますので、そこへ調べに行く時には、いつも麺麭《パン》を持参で、私の家へ寄っては、お茶を下さいといったものでした。この出版は日本医史学会からの補助を受けました。
『多紀氏の事蹟』もまた昭和八年に出版せられましたが、その年の暮にはまた於菟《おと》さんと共に、『鴎外遺珠と思ひ出』という書物を公にしました。最初の『鴎外全集』十八巻は、いろいろの事情のために、大正十二年一月から始まって、五年目の昭和二年十月にやっと終りましたが、その十五、六巻までの校正は、大抵一度は潤三郎が見ているのです。その間には帝国図書館その他へ行き、関係資料の蒐集《しゅうしゅう》に努めたのです。ついで昭和四年に『鴎外全集』の普及版が計画せられて、潤三郎は編輯《へんしゅう》校正に当りましたが、その後も遺文は続々発見せられますので、それに遺族の思い出をも加えて一冊にしたのが『鴎外遺珠と思ひ出』です。
 その後新しい『鴎外全集』が岩波書店から出た時も、潤三郎は相談に与《あずか》って、校正に力を尽しました。岩波版の全集には、「校勘記」というものを添えました。お兄様も晩年は病体で、その伝記物には調査の不十分な点などもあったので、潤三郎は気の附くかぎりその訂正補充に努めて、それらを「校勘記」に記載したのです。
 潤三郎がお兄様のことを書いたのは『明星《みょうじょう》』の紀念号からですが、その時はまだ病気が癒《なお》り切らず、鈴木|春浦《しゅんぼ》さんが来て筆記せられたのでした。それから後、お兄様に関することどもは細大|洩《もら》さず書抜いたり、切抜いたりしてそれが長年の間に大分の量になったのを整理して、『鴎外森林太郎』の一冊を作りました。これは昭和十七年に発行してから、一年半の間に十回までも版を重ねて、本人も大満足でした。つまり晩年はその兄のために全力を尽したといってもよいのです。それが急に亡くなったので、あの世でお兄様は潤三郎を迎えて、「御苦労だった」とお礼をおっしゃったろうと思います。
 潤三郎が京都府立図書館に勤めていましたのは、明治四十三年から大正七年まででしたが、その間お母様は楽しみにして、京都へお出かけになったものでした。またその間にお母様の御病気の時は、京都から上京して、一カ月ほども看護しました。潤三郎の京都にいた間にお兄様は人々の伝記を起草せられたので、京都に関することを度々照会して、手紙の往復が絶えませんでした。時には宇治《うじ》までも行って、万福寺《まんぷくじ》の墓地にある碑文を写して来たりなどもしました。帰京後にも、伝記に関しては、いろいろ蔭《かげ》の補助をして上げておりました。
 性質が至って優しくて、私の頼むことなども、潤三郎はよく聞いてくれました。何の本が見たいといいますと、すぐに本屋を探して買って来て
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