ました。上野の八百善《やおぜん》へ行ったのでした。料亭も、その時始めてはいったのでした。樹が繁っていますから月はよく見えなくて、葉隠れに光が射《さ》すだけです。ただおずおずと珍しい御馳走《ごちそう》をいただいていました。お嬢さんは平気です。いつもお出《いで》になるのでしょう。
 或時宮内省からのお使が、女官のお手紙を持って来ました。中奉書《ちゅうぼうしょ》の二つ折に美しい散らし書《がき》で、なかなか読めません。
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ちか/″\くれのおめでたさ、どなたも同じ御事に悦入《よろこびいり》まゐらせ候。弥《いよいよ》御勝《おすぐれ》あそばし、寒さの御障《おさわ》り様もあらせられず、御さえ/″\敷《しく》入らせられ候御事、数々御めで度く、御よろこび申上げまゐらせ候。左様に候へば、此御まな料、まことに麁末《そまつ》の御事におはしまし候へども、歳末の御祝儀申上まゐらせ候しるしまでにさし上まゐらせ候。なほ幾久しくまん/\年までも相変らずといはひ入まゐらせ候、すゑながらどなた様にもよろしく御申伝へ戴《いただ》け候やう、ねがひ上まゐらせ候。御目録にて失礼の御事、よろしく御断《おことわり》申上まゐらせ候。めで度かしく。
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なほのことの外ひえ/″\しく、随分御自愛遊ばし候やう、ねがひ上まゐらせ候。なほ又新年に相成候はゞ、不調法の詠草|伺《うかがい》申上度、よろしくねがひ上まゐらせ候。めで度かしく
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[#地から3字上げ]直子
    福羽美静様人々
 福羽氏は御覧になると、御自分のお名前の肩へ墨を引いて私に下さいました。御覧になった印でしょう。珍しいお手紙と、取って置きましたのが残っています。
 その内に新しい奥様を、お国許《くにもと》からお迎えになりました。これということもない、おとなしやかなお方でした。種々の先生が来られます。お花、お茶、お香、双六《すごろく》の先生などまで来られます。地方出の奥様に、子爵夫人としての教養をお附けになるのでしょう。若いお召仕は、その頃は見えませんかった。種々の人が出入するので、或時お妹さんと仰しゃる方にお目にかかりました。白髪まじりの大がらなお方でした。福羽氏は指さして、「これは、かわ女房だよ」と仰しゃいました。何のことか分りませんかったが、若いという反対の方言かと思われます。そのお連合《つれあい》らしい中年の人が執事めいたことをしていられました。
 いつか、一年ほど過ぎました或日、お父様のところへ福羽氏のお手紙が来ました。珍しいことです。
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前略。
おきみ様事、東京女子師範学校中の高等女学校に募集致し候専修科と申《もうす》へお出し候はゞ如何哉《いかがや》。是《これ》は追々新聞広告に見え候通り、当月十五日|迄《まで》に願書|御出被下《おんだしくだされ》たく、右科中に英語、和文、音楽(○是は西洋ピヤノより舞踏まであり)、日本の琴も間にあり。右学ばせ候はゞ可宜《よろしかるべき》かなど考候。御考|承度《うけたまわりたく》、不取敢得貴意度《とりあえずきいをえたく》候。早々。
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    二月三日[#地から3字上げ]美静
   森静男様
    尚々皆様へ宜敷《よろしく》御願申候也。
 こんな不規則な稽古では仕方がないと、誰もいっていたのでしたから、すぐ願書を出しますし、洋行中のお兄様にも通知します。田舎育ちの者が、知人もない中央の学校へ受験に行くというのを案じたのでしたが、すぐに独逸から返事が来て、不合格でも心配するなとあったので、気が楽になりました。
 幸に入学しましたが、入学すると今までと違って、ぐずぐずしてはいられません。乗物の不自由な頃ですから、お祖母様と一緒に本郷の素人《しろうと》下宿に移り、そこから学校通いです。それでもう福羽邸通いはやめました。
 学校を終るとすぐに縁づきましたので、福羽氏にはいよいよ御疎遠になりましたが、事あるごとにお知らせだけはしておりました。
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御文細々拝見、先般も難有《ありがたく》候。皆々様、御安全めで度、くれぐれ御悦申上候。小生年賀にて森さまへさし上候事細々御示。御老人さまへは歓之事《よろこびのこと》難有存候。此度森さま御祝品御入念|痛入《いたみいり》候。御礼|御序《おついで》に御頼《おたのみ》申候。猶《なお》あなたよりも御祝之品に預り痛み入候。いづれ是《これ》より御礼|可申上《もうしあぐべく》候。扇子|丈《だけ》あり合《あわせ》を呈《ていし》候。御入手|可被下《くださるべく》候。御出張之先之事、御案も候半。森御老人之事、くれぐれ御案じ上候。猶ほあなた様方も御留守|者《は》嘸々《さぞさぞ》御配意と存じ申候。学士院之選挙人と申候。いかゞ相成候哉と存候。此方よりは出し置候事候。先は右一応之御礼迄申上候。匆々《そうそう》謹言。
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   七月四日[#地から3字上げ]美静
    小金井様参ル
     くれぐれ御用心専一に存候。かしこ
   尚々|出来合之団扇《できあいのうちわ》等御笑らんに入候。

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一寸《ちょっ》と文呈上候。秋暑之処御安全慶賀之|至《いたりに》候。扨《さて》先般は御来車|被下《くだされ》、且《かつ》御土産に預り候所、足痛にて御目にかゝり不申《もうさず》、失礼致候。其後御書面にも預《あずかり》候所、平臥《へいが》中|故《ゆえ》御無音申候。此節少々快方候、併《しかし》他出致し兼《かね》候まゝ御無礼|仕《つかまつり》候。此えり麁物《そぶつ》ながら呈上(○蘭の絵ハ御苑ニアル分ヲ写させ申候)。御笑留《ごしょうりゅう》被下度、外粗大なる冬瓜《とうがん》一つ御目にかけ申候。まづ過日之御礼迄|如此《かくのごとく》候。匆々謹言。
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   九月十日[#地から3字上げ]美静
  小金井きみ子さま参ル
 この二通の手紙は、一つは主人が北海道へアイヌ研究に出張した時のことらしく、時期も七月でしたし、当時お父様も工合が悪かったのでしょう。学士院云々もその頃のことでした。
 後の一通は、わざわざお使で私に下すったのです。半襟は新宿御苑《しんじゅくぎょえん》の蘭の花を染めた珍しいもので、幾十年を経てすっかり色はあせながら、今も手筥《てばこ》の中にあります。なお粗大な冬瓜とありますのは、全く珍しく見事な物で、親類中に分配していただきました。御養嗣逸人氏は園芸の研究家で、今世にもてはやされる福羽|苺《いちご》というのは同氏の創《はじ》められたものと聞きました。
 唯今私は二番町の親戚の家におりますが、昔伺った二番町の福羽氏の邸宅はどの辺かと尋ねても、知っている人がありません。何しろ半世紀どころか、七十年も前のことですから。
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   電話

 電話は文明の利器ですけれど、私どものように、いつも世に後れた家庭では、それほど利用もしないのでした。主人は、専門が解剖というためもありましょうが、諢名《あだな》を仙人と呼ばれ、新しいものは真先にという気風ではありませんでしたが、大学教授でしたので、電話は願出れば無償で引いてもらわれたのです。その電話の出来た始めの頃でした。郷里の若い娘の勤口《つとめぐち》の世話を頼まれましたが、幸いに知人に電話交換局の人があって、そちらへ世話をしてくれました。交換手なのですが、先方へ線を繋《つな》ぐ時、声が漏れて来るのを耳にしますと、お嬢さんが友達を誘って遊びに行く打合せをしたりするのを、田舎者だものですから、大胆なことかのように来て話すのでした。
 兄の家では、役所との関係もありますので、大分早く引かれましたが、先方からかかって来れば格別、あんまりお使いにはならなかったようでした。万年筆がお嫌いだったように、新しいものはあまりお好きではないのです。そういう点ではかえって母の方が進んでいて、「そちらに電話がないと不便だから引いておもらいなさい。私が病気になった時に、早く知らせたいと思うから」などといわれました。
 兄は電話での応対なども下手《へた》でした。電話へ出ると、平常と違った切口上《きりこうじょう》になるのでした。兄は数学というものが不得手なので、電話番号が覚えにくいらしく、何かの字を当てて覚えようとなさいます。譬《たと》えば親戚や自宅の電話番号なども、六七四というのを空(むなし)と覚えるという風で、自宅の二五七九を、「太藺(ふとい)と七子(ななこ)だ。織物二つで覚えいいだろう」などといわれましたが、余人にはそれもむつかしいというので、後には「藤色七子」と赤い紙に書いたのが、電話器の下の柱に貼《は》られたようでした。ですから時に番号が変りでもしますと、それはそれは苦い顔をなさいました。
 いつでしたか、夜分《やぶん》になって尋ねましたら、お嫂《ねえ》さんはお留守です。まだ小さかった類《るい》さんは病気で寝ていました。ちょっと話していますと、電話のベルが頻《しき》りに鳴ります。女中が出ますと長距離らしいのです。取次いでも、兄は頭を振るだけで、出ようとなさいません。行合せた私が出て見ましたが、よその家のことですから、はっきりしたことはいわれません。「どうしましょう」と伺いますと、「捨てておけ」とおっしゃいます。電話はいよいよ鳴ります。その頃いたつるという若い女が出て、何とかいって切ったようでした。お嫂さんはどこかへお出かけで、その晩はお帰りにならないのですが、さすがに類さんが心懸りで、様子を問おうとせられた電話なのでした。そんなことはよくあるのだそうで、何だかお気の毒で、早々にお暇《いとま》しましたが、帰りしなに勝手へ出て女中に聞きましたら、「行くなとおっしゃるのに、お出かけになったのです」と、女中も不服そうでした。類さんは熱があるらしく、その枕元《まくらもと》で兄の何かと慰めてお出《いで》の声が聞えます。こんな時には皆困ったことでしょう。
 このつるというのは、まだ若いのに、無口で、寂しい顔立ちをした女でした。やかましく叱られても口答《くちごたえ》もせず、いつもいいつけられた通りに牛乳瓶の消毒などをしていました。何か面倒な家庭の子でしたろう、暫《しばら》く世話になっていたようでした。
 その頃私の家には、どこからか迷って来た鳩がいました。近くの白山《はくさん》神社の群から離れたのかも知れません。それがよく馴《な》れて、卵をかえしたり、雛《ひな》をはぐくんだりします。それを見せるといって、類さんを連れて来ました。そんな時はつるも楽しそうで、晴やかな笑顔をしていたのですが、するとそこへ、「早くお帰りなさい」という電話です。「遊び過ぎました」といって、急いで帰る時の女の顔は、いつものように寂しそうでした。
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   建碑式

 七月九日の鴎外の命日に、詩碑の除幕式があるという通知を受けて、団子坂へ行きました。だんだん年を取るので、孫に連れて行ってもらいます。車で大観音の前を通りますと、四万六千日《しまんろくせんにち》だというので賑《にぎや》かです。三十幾年前もこんなだったと思います。今か今かというような、兄の容体を案じながら通った時の気持が思出されます。その頃の大観音の高いお堂は焼け失《う》せて、今は何か小さな物が建っているだけで、ここにも世の変遷が見られます。森の家も、いかめしかった門は影も形もありません。毎朝兄が出勤せられる時、馬丁が馬を引いて来るのを佇《たたず》んで待っていられた軍服姿が思出されます。
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駒《こま》ひくをまつ朝戸出《あさとで》の手すさびに
    折りてぞ見つる梅の初花
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 明治四十年頃の歌です。その梅なども、もとよりありません。昔駒寄せのあった向側に机を並べて、来会者に記名させる人々が待っています。筆を持ちますと、知人の名が目に附いて、もう来ていられるな、と思います。
 そこら一杯に人の並んでいられる傍を通って前の方へ出ますと、於菟《おと》さんが笑顔で立っていられます。今日の式ま
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