七年十二月二十八日の日記に、「佐藤元萇師の書到る。郵筒に一封書寄数行啼《いちふうしょすうぎょうをよせてなく》と題したり。披《ひら》けば紅葉《もみじ》いくひらか机上に翻《ひるがえ》りぬ。葉の上に題したる詩に、只知君報国満腔気《ただしるきみがほうこくまんこうのき》、泣対神州一片秋《ないてしんしゅうにたいすいっぺんのあき》の句ありき」としてあり、十八年九月十三日の条にも、「朝家書又至る。応渠翁の書に曰《いわ》く。参商一隔、いかにおはすらんと筆はとれど書やるすべもなく、こゝろ迷ひぬるは、綣恋之情《けんれんのじょう》かたみに同じかるべし。まづ尊堂も弊盧《へいろ》も無事なるはうれし。扨《さて》本月一日大洪水、堅固なる千住橋|並《ならびに》吾妻橋押流し、外諸州の水災|抔《など》惨状、こは追々新聞等にて御聞《ごぶん》に触《ふれ》候はん。略之《これをりゃくす》。五月雨《さみだれ》にこゝろ乱るゝふる里をよそに涼しきつきや見るらむ、など口にまかせ候。政之。御令妹このほど御歌は上達、感入《かんじいり》候也。書余|譲後信《こうしんにゆずる》。努力|加餐《かさん》。不宣。七月十一日。応渠再拝。牽舟賢契榻下《けんしゅうけんけいとうか》」とあります。
飛んで二十年三月二十五日の条に、「応渠翁|中風《ちゅうぶう》の事、山海万里を隔てゝ徒《いたずら》に心を傷ましむるのみ」とありますが、もうその頃は千住にお住いではなかったでしょう。終りの御様子は存じません。その頃私は毎日遠路を学校通いで、学校以外のことは何も知りませんかった。
学校入学前に貰った、別の人の次のような手紙があります。
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弥《いよいよ》御機嫌よく、御悦申上候。相かはらず来月十九日納会相催し候まゝ、何とぞ/\御ばゝ様御同道にて御出《おいで》願ひ上候。遠方|故《ゆえ》御出なくば、御詠にてもいたゞき度、此段申上候。過《すぐ》る比《ころ》福羽君に一寸《ちょっと》御目にかゝり、御咄《おはなし》きゝ候間、ちと/\三八在宿に候まゝ、御とまりがけにても御出待上候。万々拝顔のうへ申入候。めでたくかしく。
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きみ子君に[#地から3字上げ]三艸子《みさこ》
これは松《まつ》の門《と》三艸子といって、大野定子と並んで歌よみといわれていた人でした。人あたりのよい方で、福羽氏ともお知合だったと見えます。色白の顔にお化粧をなすって、口紅の赤いのが目に附きました。当時子供だった私には、あまり見かけない御様子なのでした。濃い黒髪がつやつやしていたことを覚えていますが、髪形はどんなでしたか、記憶にありません。人の噂《うわさ》では芸者だったともいいますが、どうでしょうか。歌会などへいつも一緒に行って下さる祖母も、「あんな御様子の方ではねえ」といっていました。それでただ一度伺っただけで、学校へ行くようになってからは御無音《ごぶいん》に過ぎました。
小金井へ縁附いて、程《ほど》過ぎてからのことです。少し落附いて何かして見たいと思う時に、兄が井上通泰《いのうえみちやす》氏の紹介で松波資之《まつなみすけゆき》氏へ伺って見よと申されました。井上氏は兄の親友|賀古鶴所《かこつるど》氏と別懇なのでした。
何でも牛込見附《うしごめみつけ》からかなり行って、四谷《よつや》見附の辺のお堀端《ほりばた》から松の枝が往来へ差し出ているのが目につくあたりにお住いだったと思います。痩形で、少し前屈《まえかが》みの恰好《かっこう》の静かなお年寄でした。優しい奥様もいらっしゃいました。
その頃私は小さい子供を持っていましたので、来よとおっしゃった日にも伺いかねるのでしたが、その頃下すったお手紙は、大師流というのでしょう、大変見事なものでした。
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御文ありがたく拝見、此間は御はじめてなるに、まことに御早々にて、失敬いたし候。あとにて、
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近からばしひてとめてもしきしまの
道のことごとかたらむものを
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と申候。お歌いづれもおもしろく、此調子にて御すゝみなされ候はゞ、追々よき御歌かずかず出申《いでもうす》べく候。右御返事まで。
尚《なお》来月の会にはかならず御出|待入《まちいり》候。きのふも婦人方よたり計《ばか》りにて御うはさいたし候。
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十八日[#地から3字上げ]寸介由伎《すけゆき》
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七日には御つかへのよし、さてさて残念なる事に御座候。在宿の事はいそがしく、前より申上かね候。其内御近所へまゐる序《ついで》御坐候まゝ、其時参上申承るべく候。又御主人様へも御目にかゝり、面白き御咄しも承度《うけたまわりたく》候。右御返事まで。
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十二月五日[#地から3字上げ]寸介由伎
きみ子様
お名前はいつも万葉仮名で、判で捺《お》したようでした。
手紙ではありませんが、小出粲《こいでつばら》氏の筆の跡も残っております。小出氏は常磐会の歌の選者の一人です。もと石見《いわみ》浜田の藩士で、初め荒木寛畝《あらきかんぽ》に画を学ばれましたが、武芸を好まれて、宝蔵院流の鎗術《そうじゅつ》の皆伝を受けられたそうです。井上通泰氏が小出氏とお心安かったのは、嗜好《しこう》が同じだったからかも知れません。井上氏も棒をお遣いになって、その御秘蔵の棒に石上《いそのかみ》という名を附けられたと聞きました。石上は「ふる」の枕詞《まくらことば》です。
小出氏の墨蹟は、常磐会の題詠を見て下すったので、次の如くです。
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春雨
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春雨は降るとも見えず薄月《うすづき》の
匂ふ軒端に梅の花ちる
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此歌よろしけれど、或は類歌あるべく、いさゝか陳腐のきらひあり。
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川霞《かわがすみ》
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薄月の空に匂ひて川ぞひの
柳をぐらく霞たなびく
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舟
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魚《うお》つりし人は帰りて柳かげ
つなげる舟に月のぼりきぬ
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○印の歌さし出し可申《もうすべく》候。
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なお余白に、
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拝啓このほどは御病人ありて御取込のよし、千万|御察《おさっし》申上候。
森様へも一寸御尋ね申上|度候得共《たくそうらえども》、おのれも風邪等にて御不音《ごぶいん》申訳なく候。
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すべて朱で書いてあります。宛名《あてな》も宿所も皆朱なのです。
こんなにして常磐会へ出して下すっても、拙いのですから入選しません。曙町の住いの向いに箕作元八《みつくりげんぱち》氏が住んでいられ、その夫人光子さんも小出氏のお弟子で、この方はよく入選なさるのでした。
曙町の家は旧土井邸の跡で、杉の大木が二本あって、それが白山《はくさん》の上からも見えていました。昔将軍が狩に出て、野立《のだて》せられた時、食後に箸《はし》を二本立てられたのが成長したのだなどといわれます。夜は梟《ふくろう》の塒《ねぐら》です。小出氏が、どんな処か、といわれた時にその話をしましたら、天狗の寄合《よりあい》に好い場所ですね、といわれました。光子さんにその話をしましたら、また先生の例の癖、と笑われました。小出氏の亡くなられた時の兄の追悼の句があります。
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おもしろいおやぢと春のつれて行く
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[#改ページ]
福羽氏の手紙
近頃あちこち移転するために、手廻りのものを片附けました時、古い手紙の束を見出しました。種々の人のがありますが、その中で一番古いのは福羽美静《ふくばびせい》氏のです。封筒はありませんが、文面に拠って大抵時がわかります。
福羽氏は津和野藩士ですが、中央に出て出世をなすったので、西周《にしあまね》氏の男爵、福羽氏の子爵が郷人の誇なのでした。福羽氏は侏儒《しゅじゅ》でした。親御《おやご》さんが、その体では見込がないから廃嫡する、といわれた時、どうか少し待って下さい、必ず何か為遂《しと》げますから、と泣いてお頼みになり、江戸へ出て国学を専攷《せんこう》して、世に許されるようになりましたので、明治天皇御即位の時の制度などは、福羽氏の創意に基《もとづ》いたように聞きました。御所では両陛下の御歌を拝見せられ、元老院議官というお役をお勤めでした。その頃私がぽつぽつ三十一文字《みそひともじ》を並べましたので、亀井家で何かお集りのあった時、お父様が福羽氏にお目にかかって、私のことをお頼みになったのです。無論お兄様とも相談の上でした。福羽氏は快く承知なすって、「昼は勤めで忙しいから、泊りがけでお出《いで》なさい」とおっしゃったというので、六番町《ろくばんちょう》のお邸へ、祖母と一緒に折々伺いました。お手紙の数通はその頃のもので、唐紙の巻紙に書いてあります。
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浦千鳥
筆
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右御出詠なさるべく候。過日の詠草御返し申上候。
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十八日
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森きみ子様[#地から3字上げ]美静
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池水鳥
山松
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右弐題御出詠|可被成《なさるべく》候。此程の歌点検致し候。かしく。
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十二月四日
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森きみ子さま御返事[#地から3字上げ]美静
福羽氏はいつも馬車で出入なさいます。その頃夫人はいらっしゃいませんでした。お写真を見せていただきましたが、すらりとした立姿、おすべらかしに緋《ひ》の袴《はかま》、宮中へ参内の時のお姿でしょう、お品がよくて立派なものでした。御主人が侏儒のお体に大礼服を召したのとお並びになったら、どんなでしたろうか。それはそれは大切な奥様でしたが、ふとした病気でお亡くなりになったのです。お医者もそれほどの大事とはいわなかったそうで、いよいよ御臨終という時傍らにいたお医者に大喝して、「帰れ」といわれたそうです。さぞかし残念に思召《おぼしめ》したでしょう。
最初の奥様のお子に逸人《はやと》様という御養子をなすって、お孫様もありました。逸人様は地方のお勤めですが、御邸内に広いお家がありました。御上京の折のお住いです。
お邸には若くて美しい御召仕《おめしつかい》がいまして、六つか七つくらいのお嬢様がありました。祖母などは、親しげにお名前を呼んで、お心やすくしていました。夕方お馬車の音を聞くと、そのお嬢様と御一緒に走り出てお迎えをします。お体が小さいので、馬丁が扉を開けてから、お下りにならなければお姿は見えません。往来の人は空《から》馬車が走ると思っていたといいます。
始めて伺った時には、前日お客来だったそうで、床の間に皇后陛下(後の昭憲皇太后《しょうけんこうたいこう》)のお短冊が掛軸になって掛っていました。赤地に金箔を置いた短冊に、美しいお字で書かれていました。早速写しとりましたが、幾年か立つ内にその手帳を失い、お歌も忘れました。
広いお座敷の襖《ふすま》が黒塗の縁で、浅葱色《あさぎいろ》の大きな紋形がぽつぽつあるのを、芝居で見る御殿のようだと思いました。お庭は広く、立樹も多くて、六番町の化物屋敷と人はいいました。きっと荒れた邸をお買いになったのでしょう。曲りくねったお廊下などがあって、隠れん坊をするに好いのです。小さいお嬢さんと夢中になって遊んでいると、お祖母様に叱《しか》られます。
「今日はお習字だよ」と仰しゃると、墨を磨《す》るお手伝をします。毛氈《もうせん》を敷き、太い筆を執っていろいろお書きになる時には、きっと一、二枚はいただきました。或人が、いただいたお短冊が百枚になったからと、それを版にしたのを幾冊か持って来たことがあり、その一冊もいただきましたが焼きました。
仲秋の名月の頃、月見に連れて行こうと仰しゃって、お嬢さんとも御一緒にお供をしました。その時始めて馬車に乗り
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