のを、次兄の篤次郎と相談して、独逸へ電報で諾否を問合せて、ずんずん事を運んでおしまいになったのです。昭和四年の九月でしたが、或日|賀古《かこ》氏から私宛のお手紙が来ました。
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お天気が晴候まま、庫に入り古トランクをかきまわしたる所、こんな古書が出ました故、御手元へさし上げます。誠に御不沙汰《ごぶさた》いたします。漸《ようや》く涼しくなり候まま、近日御伺いいたします。九月十三日、鶴所。
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中に兄からの電報が封入してありました。私の縁談の時のもので、こちらからは何とお打ちになったのか知りませんが、それには仏蘭西《フランス》語で、ただ「承諾」の一語があるのでした。電報用紙は桃色の縦四寸、横五寸余のもので、封筒にはいっています。千八百八十八年とありますから、随分古いものなのです。賀古氏の小川町の病院は震災に焼けましたが、蔵が一つ残りましたので、その中にあったものと見えます。
次兄篤次郎は賀古病院で終ったのですが、その頃は随分お盛んのようでした。次兄の臨終の後で、私どもと夜の更《ふ》けるまで話していて下さるので、お疲れでしょうから、お休みになっては、と申しましたが、おはいりになりません。通夜をして下さるお心持と見えました。ちょうど長兄が旅行中で留守でしたので、幾分かそのためもあったのでしょう。
病院が手狭《てぜま》と見えて、お住いは小石川|水道町《すいどうちょう》でした。召使を代えたいからとのお話で、旧|津和野《つわの》藩の人の娘をお世話したことがありました。幾度か事細《ことこま》かな書面を下さるのでした。その娘を連れて伺った時、お座敷に坐っていますと、お庭の中を流れる水の音が、さらさらと優しく聞えました。水道町ですから、水は御自由だったのでしょう。由緒のあるお家らしく、風雅な構えで、障子の腰張《こしばり》に歌が散らし書《がき》にしてありました。その折奥様にもお目にかかりました。賀古氏は常磐会に歌をお出しになるのでしたから、歌人にもお知合が多かったのでしょう。井上通泰氏などは特に御別懇のようでした。ずっと前に、私どもが滝野川《たきのがわ》へ散歩した時、まだ詰襟服《つめえりふく》の井上氏を連れて、掛茶屋《かけぢゃや》に休んでいられるのにお会いしたことなどもありますから、古いお知合だったのでしょう。
賀古氏の父上は、割合に早くお亡くなりになったので、老年の母上によくお尽しになるのでした。病院にお住いの頃でしょう。夜を更《ふか》してお帰りになると、母上は睡《ねむ》らずに待っていられます。廊下でわざと足音を高くして、「おっかあ、帰ったよ」と、一声お懸けになると、それで安心してお休みになるのだとのことでした。ほんとは何とおっしゃるのか知りませんが、そうお話になるのを聞いて、「御尤《ごもっとも》で」と、幾度も母はうなずきました。兄なども母の晩年には、出這入《ではい》りの度に、廊下づたいに部屋の傍まで来て声を懸けますので、母はどんなにそれを喜んでおりましたか。年寄の気持は、皆同じことでしょう。
上総《かずさ》の日在《ひあり》に賀古氏の別荘が出来た時、兄もその隣の松山に造りました。その二つに鶴荘、鴎荘の名を附けて、額を中村|不折《ふせつ》に書いてもらったのですが、賀古氏の方は簡単でも門がありますから、すぐ掛けられましたけれども、森の方には何もないので、いつまでも座敷の隅に置いたままになっていました。後になって入口の格子《こうし》の上に掛けたとか聞きました。日在へは兄はあまり行きませんでしたが、賀古氏は晩年よく行っていられました。
今思出してもおかしいことがあります。病院を経営なさる御都合上、幾らか相場《そうば》にも関係なさったらしく、或時好条件の株があるが買ったらと、頻《しき》りにお勧めになるので、金子《きんす》をお預けしたのだそうです。ところがそれが全く思惑《おもわく》違いとなったので、いつものさっぱりした気性にも似ず、ひどくそれを苦になすって、こちらでは忘れた頃になっても、まだ済まなかった、済まなかったとおっしゃる、と母が笑っておりました。
大正十一年兄の終る時には、よく団子坂へ来ていられました。何んのお話をなさるのでもなく、ただ枕元《まくらもと》に坐っていられるだけでも、兄にはそれが何よりも心丈夫らしく、尋ねた時に賀古氏が来ていられると聞くと私までが、よかった、と思ったことでした。
大正十二年の震災に病院は焼けましたが、あの悪いお足であちこちお逃げになったのに何の怪我《けが》もなくて、本郷森川町新坂上の御親戚に避難せられました。その冬お見舞として駱駝《らくだ》の毛糸で襟巻《えりまき》を編んで差上げたら、大変お喜びで、この冬は風も引くまいとの礼状でした。ところがその後に風を引いて、なかなか直らぬとのお手紙だったので、襟巻も利き目がなかったと、家で話合いました。その頃には、焼跡に新築を急いでいられるようでした。
次に載せるのは、翌十三年四月十日に、主人宛に寄せられたものです。
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拝啓。今朝与謝野氏来訪、不折《ふせつ》書林太郎君墓銘数葉持参致し、誠によき出来に候。礼金は先づ筆墨料として×円|許《ばかり》投じては奈何《いかん》との事に候。三十余枚も書き試みたる趣に候。御序《おついで》の節立寄下され候はゞ幸に候。此書|悉《ことごと》くを団子坂に送りやるべきか、奈何(後略)
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次に昭和に入ってからのを数通載せます。
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又寒くなり申候。日露戦役後に於《お》ける兵站《へいたん》衛生作業のあらまし、奉天《ほうてん》戦前後に於けるを当時の同僚安井氏の記したるを、頃日《けいじつ》『軍医団雑誌』といふのにのせ候趣にて、其別冊数部を送りこし候まゝ、筋違ひのつまらぬものなれども、一冊拝呈仕候。此戦役の前半、即ち第二軍に於ける兵站衛生作業、南山役《なんざんのえき》、得利寺役《とくりじのえき》(大石橋《だいせつきょう》、蓋平《がいへい》小戦)、遼陽《りょうよう》戦なれども、此分を記すと云《い》ひし軍医先年病歿、それ切《きり》になり居候。
拝啓。先人の小伝わざわざ御返し下され恐れ入候。台湾名物|唐墨《からすみ》下され、有難く存上《ぞんじあげ》候。酒伴の最好物に候。私事十六日上総へまゐり、昨夜帰宅仕候。取りあへず御挨拶迄《ごあいさつまで》、拝具。
御書|辱《かたじけな》く拝見仕候。かねて願上候|御認《おんしたた》めもの、早く拝見いたし度と存じ候へども、今日も尚《なお》せき少々出で候まゝ、引き籠《こも》り罷在《まかりあり》候。熱は既に去り申候。もし御都合よろしく候はゞ、十日か十一日頃、乍憚《はばかりながら》御来臨下され度|希上《ねがいあ》げ候。此度の風しつこくこまり候。早々。
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次に載せるのは、昭和五年の葉書と封書とです。
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「不忘記」拝見仕候。先達て奈良、芳野《よしの》へ御旅行の折、御母上様の御墓所に御参詣《ごさんけい》の事と拝察いたされ候。ふた昔ばかり前か、維新の際長岡藩士の窮状を『しがらみ』にてか拝見仕候。今は夢のやうに、ぼうつと覚え居候。また拝見をいたす事を得ば幸に候。今朝思ひ出で候まゝ、匆々《そうそう》以上。七月十九日朝。
拝啓。一昨日は御書を給はり、辱く奉存《ぞんじたてまつり》候。其節御恵贈の朝鮮産西洋種|梨子《なし》、誠にやすらかにして美味、有難存候。彼の争議一件御筆にのせられ候由、以て当今社会の現況を知る事を得べく、楽しみ罷在《まかりあり》候。何卒《なにとぞ》御示下され度希上候。土山の下の終に、深山に佗《わび》しくくらし居り候老僧にかしづきゐる婦人の京の客の帰り行くをたゝずみて遥《はるか》に見送る心情、いかにも思ひやられ候。
林太郎君在職中遺業の一つがどふやら湮滅《いんめつ》せんとするありて、此頃後々迄もはつきり書きて遺したく、それぞれ調べ中に候。昨日も目黒の奥の方の又奥迄人を尋ねまゐり候。どこ迄行きてももとは荒野なりしが、町つづきになりて、ビルヂング様の建物も見え、草屋根の家などは一向見えず、いやに開けたものと呆《あき》れ申候。
千葉あたり田舎の家屋は昔に変らねど、人心のいやに青竹の手すり然と険悪にすれからしになりたるも心にくゝ覚え候。どこか秋の虫をきゝ、肱《ひじ》を枕にゆるりと午睡し得る所はなきかなぞ夢想せられ候。
貴詠ちと御ひまになり候はゞ御認め下され度、是《こ》れ又希上候。匆々不備。九月十二日、鶴所。
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賀古氏と兄とは、大学生時代から五十余年にわたって、公私共に変らぬ親友なので、その官人生活の裏面には、いつも多大の配慮を得て、山県公その他へも推薦せられたものでした。その兄が逝《ゆ》いてからの賀古氏は、どれだけお寂しかったでしょう。晩年に主人や私へよくお便《たより》を下さいましたのも、以前にはないことでした。『冬柏《とうはく》』所載の消息なども、そうしたものを書いて自ら慰藉《いしゃ》していられたのではあるまいかと思いますと、お気の毒にもなって来ます。
昭和六年一月一日、朝から元気で病院の医員たちの年賀を受けられましたが、午後書斎へはいられて、突然発病されたらしく、誰も臨終には間に合わなかったそうです。「己《おれ》は脳溢血《のういっけつ》で逝くのだ」と、いつもいっていられましたので、お望通りだったとはいえ、あまりにはかない終り方でした。兄が逝いてから八年、七十六歳だったのです。
お墓は駒込|吉祥寺《きっしょうじ》で、山門を入って右側です。本郷にいます頃は近いものですから、庭の花を持っては、よくお参りしましたが、疎開以来遠くはなりますし、だんだん私も老年になりますので、お彼岸くらいにしかまいられません。
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古い手紙
兄の洋行されたのは明治十七年八月で、船はフランス船メンサレエ号というのです。ベルリンへ著《つ》かれたのは十月十一日でした。出立後家族の者は、ただ手紙の来るのばかりを待っていました。翌十八年の正月にカードを送られた時の私と弟との喜びは非常なものでした。ついぞそうした物は見かけませんでしたから。
忙しかったでしょうに、よく手紙を下さいました。こちらからも度々出したものでした。「独逸《ドイツ》日記」というのに、「家書|到《いた》る」ということが、月に二、三回はきっと見えます。それが滞独中ずっと続いています。日記もよく附けていられました。
その頃千住に佐藤|応渠《おうきょ》という人がいられたのに、お兄様は詩を見ておもらいになって、親しくなさいました。学者としてあがめられても、もともと漢方のお医者でしたから、時代後れで、質素なお暮しでした。私が稽古《けいこ》に通った関澄《せきずみ》桂子さんともお附合《つきあい》なのです。その佐藤翁が新年に私へ下すったお手紙があります。
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新禧《しんき》万祝、御歌いとをかしく、御出精のほど見えはべれ。加筆返上、其後御兄さまより御便りはありしや、いかゞ。あらば御聞せ下され。
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其まゝに千代の鏡と氷るなり
結びあまりし今朝の薄氷《うすらひ》
大きみの千世の例《たとえ》と老がつむ
心の根芹《ねぜり》もえやしつらん
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など、思ひ候まゝかいつけ上候。桂の君にもよろしく御伝《おつたえ》ねぎ上候。かしく。
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おきみさま御もとへ[#地から3字上げ]元萇《げんちょう》
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別紙|憚《はばかり》ながら御とゞけねぎ上候。
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元萇は翁の本名です。別紙というのは桂子さんへのお便でした。佐藤翁の手紙も写して独逸へ送りました。
二月七日の「独逸日記」には、「朝家書至る。妹の歌に」として、
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こと国のいかなる鳥の音をきゝて
立かへる春を君やしるらん
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と書留めてあります。
前後しましたが、十
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