ことにていかなる境界《きょうがい》にありても平気にて、出来る丈《だけ》の事は決して廃せず、一日は一日丈進み行くやう心掛くるときは、心も穏《おだやか》になり申者《もうすもの》に候。小生なども其|積《つもり》にて、日々勉学いたし候事に候。物書くこともあながち多く書くがよろしきには無之《これなく》、読む方を廃せざる限《かぎり》は休居《やすみおり》候ても憂ふるに足らずと存じ候。歳暮御忙しき事と御察し申上候。当地は二三日代りに乍寒乍暖《たちまちさむくたちまちあつし》、まだ小寒なるに梅など処々|開居《ひらきおり》候。
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十二月二十九日雨夜[#地から3字上げ]林太郎
きみ子様
文中に見えています小金井の母は、長岡藩の名流の長女に生れたので、小林|虎三郎《とらさぶろう》氏の妹でした。子供が非常に多く、世の変遷のために、幾多の難儀をなさいました。次男に生れた主人などは、小さい時に同藩の家へ養子に遣られ、その養父に附いて上京したのですが、大学南校へ通う内に、頼りにしたその養父に死別《しにわか》れましたので、他家の食客にもなり、母の弟の助力で医学に志して、明治五年の暮に第一大区医学校へ入学しました。それからは至って順調で官費生となり、第一位の成績で卒業したのは明治十三年の夏でした。時に満二十一歳七カ月です。その間に帰郷したのは幾度でもありませんでした。その頃病弱だった実父が亡くなりました。卒業後すぐに洋行、帰朝して教授というようなわけでした。母は一両年してから、弟妹とともに引取られて上京し、近くに住われるようになりましたが、親とはいいながらも、主人との間は割合にあっさりしたもので、森の母と兄とのことを見馴れた目には、ただ驚かれるほどでした。こちらよりあちらで遠慮をなさるので、話は何でも私に取次がせられるのですから、何かと意志の食違いが多くて、お互にお気の毒なのでした。幾年かして弟は戦死し、妹は縁づき、その後に私どもと同じ家で御一緒に生活するようになりました。子供らも追々に物事が分るようになりましてからは、母も何かと孫に話されるので、そうしたことから気分も大きに和《なご》むようになりました。母も主人の健康の思わしくない時などは取越苦労《とりこしぐろう》をなすって、いつかは、「ここのお父さんにもしものことがあっても、私はお前と離れようとは思わない。伯父《おじ》さん(主人の兄)の所へは行きたくない。どんな暮しでもするから、そのつもりでいておくれ」と、涙をこぼしておっしゃるので、「えゝえゝ、行届きませんが、どうでもして御一緒に過しましょう。その内には子供たちもそれぞれに成人しますから」と申しました。
この問答を聞いた森の母は涙に誘われて、「それはお前の大手柄というものだよ」といわれ、ついで小倉への手紙にもそのことを書いて、「お前も喜んでおやり、きみ子はお母さんから金鵄《きんし》勲章をいただいたから」といわれたので、それから暫くの間、私は金鵄勲章という綽名《あだな》が附けられました。兄からは名誉を重んじるといわれましたが、金鵄勲章などは随分な負担でした。
次の手紙も母宛ですが、私のために書かれた一節があるので写して置きました。
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お君さんの安心立命の出来ぬは矢張《やはり》倫理とか宗教とかの本を読まぬ為めと存候。福岡にて買ひし本の内に『伝習録』といふものあり。有触れたる者なれど、まだ蔵書に無き故買ひおき候。これは王陽明《おうようめい》の弟子が師の詞《ことば》を書き取りしものなるが、なか/\おもしろき事|有之《これあり》候。中にも、知行一致といふこと反復して説きあり、常の人は忠とか孝とかいふものを先づ智恵にて知り、扨《さて》実地に行ふとおもへり。知ると行ふとは前後ありとおもへり。是《こ》れ大間違なり。譬へば飯といふものを知るが先にて、扨《さて》後に食ふとおもふ如し。実は食はんと欲する心が先づありて飯といふものも生じ、食ふといふ行は初めの食はんと欲する心より直ちに出で来るなり。忠も孝も前後などは無しとの説なり。この王陽明が、「行は智《しること》より出づるにあらず、行はんと欲する心(意志)と行《おこない》とが本《もと》なり」といふ説は、最も新しき独逸《ドイツ》のヴントなどの心理学と一致するところありて、実におもしろく存候。其外仏教の唯識論とハルトマンとの間などにも余程妙なる関係あり。此《かく》の如き事を考ふれば、私の如く信仰といふこともなく、安心立命とは行かぬ流義の人間にても、多少世間の事に苦《くるし》めらるることなくなり、自得《じとく》するやうなる処も有之やう存候。
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この次のは三十四年も押詰った頃のもので、翌年の三月には上京されましたから、小倉からの長い手紙は、これが最後になります。
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拝読。良精君近頃健康|不宜《よろしからず》候こと承候へども、仰《おおせ》のとほり存外険悪に及ばずして長生せられ候事も可有之《これあるべし》と頼み居候。又々牛の舌御恵贈の由、不堪感謝《かんしゃにたえず》候。翻訳材料となるべき書籍二三、別紙に認《したた》め上《あげ》候。南江堂に可有之候。『明星《みょうじょう》』は当方へも新年に投稿|可致旨《いたすべきむね》申来候。然し何も遣《つかわ》すべきものも無之候。近頃井上通泰、熊沢蕃山《くまざわばんざん》の伝を校正上本せしを見るに、蕃山の詞に、敬義を以てする時は髪を梳《くしけず》り手を洗ふも善を為す也《なり》。然らざる時は九たび諸侯を合すとも徒為《とい》のみと有之候。蕃山ほどの大事業ある人にして此言始めて可味《あじわうべく》なるべしと雖《いえども》、即|是《これ》先日申上候道の論を一言にて申候者と存候。朝より暮まで為す事一々大事業と心得るは、即|一廉《ひとかど》の人物といふものと存候。偶々《たまたま》感じ候故|序《ついで》に申上候。荒木令嬢の事、兎《と》も角《かく》も相迎《あいむかえ》候事と決心仕候。併《しか》し随分苦労の種と存候。夜深く相成候故|擱筆《かくひつ》仕候。草々不宣。
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十二月五日[#地から3字上げ]林太郎
小金井きみ子様
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賀古氏の手紙
『冬柏《とうはく》』の昭和五年十月号の消息欄に、賀古鶴所《かこつるど》氏が与謝野《よさの》氏に宛《あ》てた、次のような手紙が出ています。
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『冬柏』第七号の消息中に、月夜の村芝居、向島奥の八百松《やおまつ》に催した百選会の帰るさに、月の隅田川を船にて帰られたくだりを拝読して、今より五十年余り昔の事を思い出《い》でました。それは同学中に緒方という温厚な少年がありました。月の夜に柄になく散歩を誘いに来ました。そのまた兄さんは月に酔う人で、或秋の夜に兄弟|両人《ふたり》して月に浮かれて、隅田川より葛飾《かつしか》にわたり、田畑の別なく、ひと夜あるき廻り、暁に至りケロリとして寄宿舎に帰って来たことがありました。独逸《ドイツ》にてかようなのを Mondsucht と称しますが、敢《あえ》て精神病には数えませぬ。月に魅せられて、ついうかうかとさまよい出て、市中または林間田野を歩き廻り、覚えず溝川《どぶがわ》に落ち入り、折々は死ぬるものもあるとか聞きました。緒方が月の夜に見えぬと、「またモントズクトか」といったことがありました。緒方のいうには、「月夜に散歩していると、何となくよい気持になり、つい夢心持になって歩き廻るのさ。事は違うが、チャンの阿片《あへん》に酔うた心持もこんなものかしら。」(月狂生)
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その前に添えてある与謝野晶子氏の文に、「私が前号のこの欄に月見の事を書きましたら、賀古鶴所先生から早速興味あるお手紙を頂きました。私信ですけれども差支《さしつかえ》がないと思いますから次に載せます。文中の緒方氏は森鴎外先生の「雁《がん》」という小説の中に「岡田」という姓で書かれている医学生です。独逸の留学から帰って早く歿《ぼっ》せられましたが、明治医界の先輩で、今の大阪の緒方医学博士の御一族です」としてあります。
右の賀古氏の手紙は、私にも興味が深いのですが、その中には不審の点もありますので、春にでもなったらお目にかかって、伺って見たいと思っています内に、翌六年の元日の午後、賀古氏は急逝せられて、そのことも出来なくなりました。
賀古、緒方の二氏と兄とは、学生時代三角同盟といわれて、いつも行動を共にするのでしたから、お二人とも向島や千住の家へも来られ、泊りなどもなさったので、皆お親しくしていました。いつでしたか、緒方氏が有馬《ありま》土産だといって、筆の柄を絹糸で美しく飾ったのを下すったのが、ひどく嬉《うれ》しかったことを忘れません。そんなわけで、自然家庭の御様子なども知りました。賀古氏は四角な赭《あか》ら顔の大男でしたのに、緒方氏は色のあくまでも白い貴公子風の人でしたが、親孝行なのがよく似ていられました。「雁」に書いてある岡田という青年は、オカダ、オガタという音が似ていますから、その人のようにも取れますが、これは兄の理想とする標準的な青年を写して見たのでしょう。実は「雁」よりも、「ヰタ・セクスアリス」に書いた児島十二郎というのが緒方氏そのままです。卒業の宴会が松源《まつげん》という料理屋であった時、下谷《したや》一番といわれる美しい芸者の持って来てくれた橘飩《きんとん》を、その女の前でゆっくり食べていたというのがその頃の語り草となっていて、幼かった私の記憶にもそれが残っています。
緒方氏の本名は収二郎ですが、十二番目のお子さんで、御兄弟が非常に多かったのでした。十三郎といわれ弟さんもありましたが、字はどう書くのか覚えません。この弟さんは、兄さんの温厚なのに似ず才気|煥発《かんぱつ》した方で、何か失行のあった時、名家の子弟であったためか、新聞に書立てられて、その方を鍾愛《しょうあい》なさる母上がひどく苦になさった時など、緒方氏は母上がお気の毒だといって、寝食を忘れるほどに心配なすったのでした。
緒方氏がまだ十歳くらいの頃、大阪の家の広い庭で遊んでいられた時に、父上が厠《かわや》から出られたと思うと、手洗の所でひどく咯血《かっけつ》せられました。「それをただ立って、じっと見ていた」と話されたことがありました。父がないのだから母が思い遣られる、とよくいわれましたが、その母上は大勢のお子さんたちをお生みになって、気性のしっかりした方《かた》とのことでした。上のお兄様は陸軍の軍医になっていられ、兄が陸軍へ出るようになった始の頃に、地方へ検閲に行った時の上官で、一緒に写された写真を見ましたが、痩型《やせがた》の弱々しい風貌《ふうぼう》の人でした。
賀古氏も緒方氏にも妹御《いもうとご》がおありなので、卒業後兄に縁談のあった時に、「あんなに仲よくしていたのだから、どちらの方でも貰《もら》って、ほんとの親戚《しんせき》になったらよかろうに」と、母が勧めたようでしたが、そのままになったのは、兄が承諾しなかったと見えます。卒業後|程《ほど》なく緒方氏は大阪へ帰られました。
賀古氏と兄とは、終生真実の親戚以上の交際を続けました。賀古氏は陸軍の依託学生なのでしたから、すぐに陸軍に出られて、日清日露《にっしんにちろ》の両役にも出征し、予備役へ編入されてから病院を開《ひらか》れたのです。
兄の洋行中、私が学校へ通うために、祖母と本郷の下宿に暫くいた頃に、賀古氏は病気で入院していられ、若い奥様が附添って世話をしていられました。そこへお見舞に行った祖母は、私へのおみやげというので、お菓子や果物を沢山いただいて来て、「林《りん》と同じに、孫のように思われる」といわれるのを私は笑ったことでした。その予後が思わしくなくて、一生片足を引かれるようになりました。さぞ御不自由のことでしたろう。
私が小金井の人となりましたのは、賀古氏のお世話なのでした。兄は洋行中でしたから、帰った後にと両親は思っていました
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