戸《こうしど》を透して、大勢の職人が忙し気に働いているのが見えます。そこで乾いた品を少し買います。祖母が千住へ行く時、弟への土産《みやげ》のためです。木の葉の麺麭《パン》といって、銀杏《いちょう》、紅葉《もみじ》、柿の葉などの形の乾いた麺麭に、砂糖が白く附けてあるのが弟の好物でした。
 名高い粟餅屋《あわもちや》もすぐ傍です。先に歩いていられた祖母が振返って、「きょうはよかった。気を附けていても、近頃は休んでばかりいたのに。さあ、見て行きましょう」といわれます。「何ですか」という私の手を引っぱって、程好《ほどよ》いところに立たれます。広い店の奥まったところに、三人の職人がそれぞれ木鉢を前にしています。その木鉢は餡《あん》と胡麻《ごま》と黄粉《きなこ》とになっているので、奥にいるのが粟餅をよいほどにちぎっては、その三つの鉢へ投げるのです。調子づいて来ると、その早いこと、小鳥の落ちるようだといいましょうか、蝶《ちょう》の舞うようだといいましょうか、ひらひら落ちるのがちっとも間違いません。実に熟練したものです。感じ入って見詰めていますが、近所の人には珍しくもないようです。それは見馴れているからでしょう。沢山の註文《ちゅうもん》があると見えて、出来たのを入れた箱が積んであります。
「あれは園遊会などの余興にも出るのだよ。囃《はや》しにつれてするのを曲取《きょくどり》とかいうそうだよ。まあ御覧、上手《じょうず》に投げるではないか」と、祖母も感心していられます。ほんとに鮮かな手際《てぎわ》です。三人の職人もそれぞれに順よくまぶして、傍の箱に並べるのです。その出来立を買いましたら、別の人が傍の箱から取って包んでくれました。その晩はその話をして、特別おいしく頂きました。
 なお少し行きますと、左手は春木座《はるきざ》のある横町です。それほど高級の芝居ではありませんから、上手の役者ばかり出るのではないでしょうが、いつも非常な繁昌《はんじょう》です。そこでは客の脱いで上った下駄を、帰りまでに綺麗に掃除して置いてくれるというので評判でした。
 粟餅の立見《たちみ》などをして遅くなったので、急いで帰ります。その途中|藤村《ふじむら》で、父からの頼みの羊羹《ようかん》を買いました。藤村は大学の横手にあるよい菓子店です。下宿で兄がそれを見て、「この羊羹は上等だね」といわれたのに、祖母は得意そうに、「書生の羊羹とは違いますよ」と答えられました。書生の羊羹というのは焼芋で、それが兄の好物なのでした。
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   兄の手紙

 主人が亡くなって、まだ心の落附かぬ内に、私の家には疎開、焼失、移転などと、次々にいろいろなことがあったので、何をどこへ遣ったか覚えてもおらず、何かと書附けた手帳なども見喪《みうし》なったような騒《さわぎ》ですから、分らぬ物も多いのです。最初から、これだけはと心懸けた品を、三つ四つの包に拵《こしら》えて、その頃はどこが安全ともいわれませんが、親戚《しんせき》にしっかりした鉄筋コンクリートの建築があるので、とにかくそこへ預けました。どうなっても不足はいわぬという約束です。
 その五階の建物も、三階までは罹災《りさい》しました。後でその構内へ落された焼夷弾《しょういだん》を拾い集めたら、幾百とあったそうで、その殻が小山のように積んでありました。落ちた折の恐ろしさが想像せられます。預けた品は一階の隅の物置のような室に入れてあったので、幸い助かったといって、終戦後返されたのを喜びましたが、一箇だけ不足していました。二間続きの広い室で、床から天井までいろいろの物がぎっしり積上げてあったのですから、見えないのも無理はないと思いました。
 けれども人間は勝手なもので、無事な品を喜ぶにつけても、「ほんとにあれは惜しかった。こちらの方ならそれほどでもないのに」などと、勝手をいっていました。
 ところがその後その室を整理することになって、全部の品を持出した中に、こんな物があった、そちらのらしい、と寄越《よこ》されたのがそれなのでした。入れて置いた紙の箱は潰《つぶ》れ、上包《うわづつみ》は煤《すす》け破れて、見る影もありませんが、中の物は無事なので、天佑《てんゆう》とはこのこととばかりに嬉《うれ》しく思いました。
 それを順々に拡げて見て、幾日かを過しました。人から贈られた書簡ばかりを集めて置いたので、古いところでは福羽美静《ふくばびせい》、税所敦子《さいしょあつこ》、小池直子、松《まつ》の門三艸子《とみさこ》、橘東世子《たちばなとせこ》、松波資之《まつなみすけゆき》、小出粲《こいでつばら》、中村秋香《なかむらしゅうこう》、賀古鶴所《かこつるど》、与謝野寛《よさのひろし》、同|晶子《あきこ》の方々のもの、現存の人でも皆二、三十年前のものばかりです。その中で私が一番大切に思うのは、兄が小倉や戦地から寄越された長い長い手紙です。小倉在勤は明治三十二年六月から三十五年三月まででしたから、随分古いものなのです。
 それらの手紙を、どんなにか忙しい中から書いて下すったのだろうと思うと、当時の私の無遠慮と無智とが顧みられて、顔が赤らみます。その頃は主人の健康も勝《すぐ》れず、子供も四人いまして、前途のこと、経済上のこと、その他何かと心を苦しめていたのでした。思ってはならぬ、いってはならぬと承知していることまでも、子供らの寝静まった夜などに、書きに書いては送ったのでした。読む人が何と思うかなどということは考えもしませんかった。ただ兄に手紙を書くということが、私の慰安なのでした。その寂しさに甘えた心持だったのでしょう。
 その頃は森の母も頻《しき》りに手紙を書かれたようでした。母は面白い人で、「私は字のお稽古《けいこ》をしないのだから」と、書いたのを決してお見せになりませんでした。小倉との手紙の往復の始ったばかりの頃でしょう。母に向って、「お兄さんは随分だと思うよ。私が送った手紙の仮名遣《かなづかい》などを、朱で直して寄越されたのでがっかりした」などと、笑いながらおっしゃいましたが、忽《たちま》ち上達なさいました。次の手紙は母|宛《あて》になっていますが、私のために書かれたものなので、母はすぐに団子坂から曙町まで持って来られて、「これはお前の教科書だよ」といって渡されたのでした。
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十日の御書状拝見|仕《つかまつり》候。庭の模様がへ、北村のおくりし朝顔の事など承《うけたまわり》候。おきみさんより同日の書状まゐり候。家事(姑《しゅうとめ》に仕へ子を育つるなど)のため何事(文芸など)も出来ぬよしかこち来《きたり》候。私なども同じ様なる考にて居りし時もありしが、これは少し間違かと存じ候。おきみさんの書状を見るごとに、何とかして道を学ぶといふことを始められたしと存《ぞんじ》候。道とは儒教でも仏教でも西洋の哲学でも好《よ》けれど、西洋の哲学などは宜しき師なき故、儒でも仏でもちと深きところを心得たる人をたづねて聴かれ度《たく》候。毎日曜午前位は子供を団子坂にあづけても往かるるならんと存候。少しこの方に意を用ゐられ候はば、人は何のために世にあり、何事をなして好《よ》きかといふことを考ふるやうにならるるならん。考へだにせば、儒を聞きて儒を疑ひ、仏を聞きて仏を疑ひても好《よ》し。疑へばいつか其《その》疑の解くることあり、それが道がわかるといふものに候。道がわかればいはゆる家事が非常に愉快なる、非常に大切なることとなる筈《はず》に候。又芸に秀づる人は、譬《たと》へば花ばかり咲く草木の如し。松柏《しょうはく》などは花は無きに同じ。されど松柏を劣れりとはすべからず候。何でもおのれの目前の地位に処する手段を工夫せねばならぬものに候。小生なども道の事をば修行中なれば、矢張《やはり》おきみさん同様の迷もをりをり生じ候へども、決して其迷を増長せしめず候。迷といふも悪《あ》しき事といふにはあらず。小生なども学問力量さまで目上なりともおもはぬ小池局長の据ゑてくるる処にすわり、働かせてくるる事を働きて、其間の一挙一動を馬鹿なこととも思はず無駄とも思はぬやうに考へ居り候へば、おきみさんとても姑に事《つか》へ子を育つることを無駄のやうに思ひてはならぬ事と存候。それが無駄ならば、生きて世にあるも無駄なるべく候。生きて世にあるを無駄とする哲学もあれど、その辺の得失は寸紙に尽しがたく候。ここに方便を申せば、おきみさんは名誉を重《おもん》ぜられ候ゆゑ、名誉より説くべきに候はんか。小生なども我は有用の人物なり、然《しか》るに謫《たく》せられ居るを苦にせず屈せぬは、忠義なる菅公《かんこう》が君を怨《うら》まぬと同じく、名誉なりと思はば思はるべく候。おきみさんもおのれほどの才女のおしめを洗ふは、仏教に篤き光明子《こうみょうし》がかたゐの垢《あか》をかきしと同じく名誉なりとも思はば思はるべく候。これは方便にして、名誉の価は左《さ》ほど大ならずともいふべけれど、名誉より是《かく》の如く観じ候如くに道の上より是の如く観ずるときはおのれの為《な》す事が一々愉快に、一々大切なるべく候。飛んだ説法に候へど、おきみさんへの返事のかはりに、此《この》紙に筆に任せ認《したた》め進じ候。
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    十四日[#地から3字上げ]林
   母上様
 半紙を四枚|綴《と》じて毛筆で書いてあります。年月はありませんが、三十三年の秋の頃でしょう。
 小倉というので思出しましたが、三十二年六月九日に赴任が発表になって、十四日に出立というので、主人が新橋へ参りましたら、大勢の見送りがあったといいます。しかしそれは形式上のことだそうで、十六日に今度は千駄木《せんだぎ》の宅の方へ暇乞《いとまごい》に寄りましたら、もう出立したとのことでした。誰にも時間は知らせないのでしょう。「おかしなことをするのですね」と申しましたが、私は産前でしたから、一切外出しないのでした。
 三十三年一月に兄から母へ寄せた手紙の一節に、「小金井氏財政の事ども承知いたし候」とあり、「当郡病院長澄川といふもの参り話に小金井は咯血《かっけつ》したり云々《うんぬん》と東京より申来《もうしきたり》との事に候。尤《もっとも》咯血したりとて必ず死すとも限らねど或《あるい》は先日|腫物《はれもの》云々の報知ありしころの事にはあらずやなど存じ候。秘し居るにはあらずやなど存じ候、いかゞ」とあります。
 この手紙も母が持って来て見せられました。主人は腰の辺に俗にいう根太《ねぶと》の大きなのが次々に出来て、そのために熱も出たのでした。私はそんな手紙は出しませんが、細大漏らさずにいい送る母から聞かれたのでしょう。案じて下さる御親切は喜びながらも、母と二人で笑ったのでした。咯血は主人の教室にいる若い助教授のことでした。その人は耶蘇《ヤソ》信者でしたが、短命で亡くなられました。
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拝呈。先日は御細書《ごさいしょ》下され候のみならず、其前後に色々御送寄|奉謝《しゃしたてまつり》候。然るに先日の御書状あまりに大問題にて一寸《ちょっと》御返事にさし支《つかえ》、不相済《あいすまぬ》と存じながら延引いたし居候内、今年も明日と明後日とのみと相成《あいなり》申候。家内の事は少なりと雖《いえども》、亦久慣の勢力重大なるため、改革の困難は国家と殊《こと》ならずと存候。先頃《さきごろ》祖母様を新築の一室に遷《うつ》しまつらんとせしとき祖母様三日も四日も啼泣《ていきゅう》し給ひしなど御考|被下《くだされ》候はば、小生が俄《にわ》かに答ふること出来ざる所以《ゆえん》も御解得なされ候ならんと存候。兎角《とかく》は年長の人々を不快がらせずに、出来る丈《だけ》の事をなすといふに止《とど》め度者《たきもの》と存じ候。然乍《しかしながら》御手紙|参《まいり》候ごとに一寸御返事に困るやうなるは、即《すなわ》ち真直に遠慮なく所信を述べて申越され候為にして、外に類なきことと敬服いたし候事に候。小供《こども》も次第に多くなりし為、文事にいとまなきよし承候。これも又似たる
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