いって遣ったが取りにも来ない。」
「お兄様は何とおっしゃるの。お家に似合いませんね。」
「おれの部屋だから構わんのだろう。」
そんな物に趣味を持たぬ父は、お茶の道具を丁寧に片附けながら、「もう鳥の餌を作らねば」と、小さな鉢や木箱などを幾つか取出して、頻《しき》りに交ぜたり摺《す》ったりしていられました。
「昔のお薬の調合のことを思出しますね。」
子供は珍しそうに見詰めておりました。
出来上った新築の二階家の玄関は、母の趣味で広い式台が附き、塗縁《ぬりぶち》の障子が建ててありました。「こうして置かねば、お邸のお部屋様やお姫様方をお招きするのに似合わないから」というのでした。旧藩主の方々をお招きしたいというのが、かねてからの母の願いなのです。この二階が観潮楼です。
崖の見晴らしに建てたのですから、俗に雪月花によしというわけで、両国に花火のある夜などは、わざわざ子供を連れて見せに行ったりしました。まだその普請中に行きますと、祖母などが、「もっと近くへ越してお出《い》で。私は出られぬし、ちょいちょい逢いたいから」といわれますし、主人が終生出入する心組《こころぐみ》の大学へも、それほど遠くもないからと、曙町に地所を見附けて移りました。鶏声《けいせい》が窪《くぼ》といわれた坂上で五百坪ばかり、梅林や大きな栗の木があり、通りかかった人が老松の生繁《おいしげ》ったのを見て東海道の松並木のようだといいました。土井の邸跡で、借地なのです。向い側は広い馬場でした。昔将軍がお鷹野《たかの》のお小休に、食後の箸《はし》を落されたといういい伝えで、二本の大杉が鬱蒼《うっそう》とそそり立っていて、遠く白山坂上からも見えました。朝など雉子《きじ》の鳴く声がします。夜は梟《ふくろう》の声があちこちにします。家は歪《ゆが》みかかって支柱のある小さな古家でしたが、水がよいのと、静かなのとを主人が喜んで極めたのでした。
住いが近くなったので、団子坂への往《ゆ》き来《き》が繁くなります。観潮楼の広い二階は書斎と客室とになって、金屏風《きんびょうぶ》が一双引いてありました。これも母の趣味なのです。そこで「雲中語」などの合評会が開かれ、後には歌会も催されました。
或時お兄様が、「今度の歌会に石という題があるが、お前も詠んで見ないか」とおっしゃいました。
[#ここから3字下げ]
千曳《ちびき》の石胸に重しと夢さめて
なほ夢の間の安さをぞ思ふ
[#ここで字下げ終わり]
と書いて見せましたら、ただ笑っていらっしゃいました。それきり詠めともおっしゃらず、詠みもしませんでした。それでも、「歌会の日には手不足だから手伝いに来ておくれ」とおっしゃるので、下座敷に行っておりました。レクラム本から選んで、西洋料理めいたものをあれこれと作るのでしたが、母はバタ臭い物はお嫌いなので、お塩梅《あんばい》もなさいません。
「少しサラダでも召上って御覧になったら」と申しますと、笑って手を振っていらっしゃいます。お人数だけ冷えていい物は附並べて、私はお暇《いとま》をします。夕食の時におりませんと、老母や主人子供の食事が女中任せになって困るので、会の様子は後に行った時に伺うのでした。
観潮楼歌会のあったのは明治四十年頃でしたが、ちょうどその頃|常磐会《ときわかい》というのも出来ました。それは前年の夏、兄や賀古《かこ》氏が、小出《こいで》、大口《おおぐち》、佐佐木氏等を浜町《はまちょう》の常磐にお招きして、時代に相応した歌学を研究するために一会を起そうという相談をしたのでした。このことを賀古氏から山県《やまがた》公へ申上げたら、お喜びになって、「力を添えよう」とおっしゃいました。その集りをした因縁で、常磐会という会の名を兄が附けました。
私にはその方が似合《ふさ》わしいからといわれますので、おりおりは出詠しました。最初の題は故郷薄《ふるさとすすき》、初雁《はつかり》というのでした。
「何とお詠みになりました」と伺いましたら、四、五首ずつおっしゃいましたが、初雁の方で、「雁今|来《きた》る」といわれましたから、私は笑って、「それだけで後はなくっても聞えますね」と申しましたら、「ほんとだ」と、大きな声でお笑いになりました。
何しろ非常にお忙しいので、ちょっとの暇にお詠みになるのでしたが、御自分が首唱なすったためでもありましょうか、随分多くお作りになったようです。選者は五人でしたが、だんだん変りました。井上、鎌田、大口、須川、佐佐木の諸氏など、かなり続いたようでした。小出翁もいられましたが、亡くなられました。
月ごとの歌題は葉書で通知がありました。選歌の載る『たづ園』という雑誌も送っていただいておりました。
『たづ園』は広島県|沼隈《ぬまくま》郡|草戸《くさど》村の小林重道という人が出していられました。井上通泰《いのうえみちやす》氏のお弟子《でし》で、井上氏が岡山へ赴任せられた頃からの熟知なのでしょう。それは井上氏の機関雑誌ともいうべきもので、同氏の「金葉集《きんようしゅう》講義」「南天荘歌話」「南天荘歌訓」「無名会選歌」、同氏選の「競点」などと、賑かなことで、それに常磐会選歌、次選歌、五人の選者の歌も出るのでした。
曙町の宅のお向いに箕作元八《みつくりげんぱち》氏がいられましたが、夫人の光子様は小出氏のお弟子で、常磐会ではよく当選なさるのでした。
「今月はいかがでした」などと、門口《かどぐち》でお目にかかるとお話をしました。兄から、「お前も小出さんへ伺って御覧」などといわれて、一、二度お訪ねしたことがありました。曙町の様子などを聞かれましたので、二本杉のお話をしましたら、「それは天狗《てんぐ》の寄合《よりあい》によい処ですね」といわれました。光子様も、「いつもその通りお口が悪いのです」とおっしゃいましたが、間もなくなくなっておしまいになりました。もと英照皇太后《えいしょうこうたいこう》宮にお仕えした方で、山県公の眷顧《けんこ》を受けられ、その詠み口がお気に入っていたと聞きました。後に和装の立派な歌集なども出たようでした。椿山荘《ちんざんそう》の七勝の歌などもあります。
選者の二人の点があると次点、三人なら当選です。四人は稀《まれ》で、五人はまずないようでした。兄も当選などはあまりありません。私などはもとよりです。山県公は音羽大助《おとわだいすけ》の名で加っていられました。後には古稀庵主《こきあんしゅ》としてあります。その侍女の吉田貞子という方もお詠みになるので、「今度はお前のはよかった」など、楽しそうにお話になるよしを兄が申しておりました。いつでしたか獣という題で、私の当選した歌に、
[#ここから3字下げ]
恐しき獣なれども檻《おり》の内に
餌《え》をまつ見ればあはれなりけり
[#ここで字下げ終わり]
「こんな歌を詠む人も選ぶ人もどうかと思うね」と兄からいわれました。
観潮楼歌会は一、二年で止み、常磐会は十幾年も続きましたが、『たづ園』を送ってもらいましたのは大正八年まででした。
[#改ページ]
本郷界隈
大学鉄門前の下宿|上条《かみじょう》にいた頃は兄も若かったし、そこへ折々遊びに行くのを楽しみにしていた私もまだ小さいのでした。父は千住で開業医をしていられて、人出入はあるのですけれど、私は偏屈な性質で、心安くする人もなく、学校の同級生には、近くの西洋造りらしい屋敷に住んで派手に暮すお医者さんの娘と、土地で名代《なだい》の軽焼屋《かるやきや》の娘とがありましたが、その軽焼屋も大分離れているので、行ったことはありませんかった。ただ家で本を読んだり、裏庭で土いじりをするくらいのものですから、兄に附添って下宿にいられる祖母が、用事があって家へ来られた時に連れて行ってもらうのが楽しみで、祖母の来られるのが待たれました。
下宿ではいつも好んで鉄門の見える窓の際にいました。いろいろな人の出這入《ではいり》が珍しいのです。日蔭に植えた低い檜《ひのき》があるので、外からは見えません。首を伸ばせば時計台は真正面です。その時計は大きなもので、五尺あるとか聞きました。始めて行った時、頭の上でちょうど時を打つカーン、カーンの音を聞いて、珍しいあまりに大声を挙げて、「鳴りましたよ、鳴りましたよ」といって、「静かになさい」と叱《しか》られました。あまり大き過ぎるためか、時は正確ではなかったそうです。月に一回、裏から梯子《はしご》をかけて、登って行って捲《ま》くのだとか聞きました。
上条の下宿人は、大抵学生さんですから、昼間は皆留守で静かです。祖母は一心に裁縫していられます。次から次と千住から持って来られるので、仕事の絶えたことがありません。裁縫が切りになりますと、買物に連れて行って下さいます。私は大喜びで、お河童《かっぱ》の頭を振り振り附いて行きます。賄《まかない》の菜の外に、何か兄の口に合う物をというのですが、つい海苔《のり》、佃煮《つくだに》、玉子などということになるのでした。
下宿を出て右へ行くと、間もなく大学の境を離れて無縁坂です。坂の下り口の左側に小店や小家が並んでいる中に、綺麗な家の一軒あるのは妾宅《しょうたく》だということでした。化粧した美しい女が、いつも窓から外を眺めているという、学生たちの噂《うわさ》でした。或《ある》学生さんが買物をするとて、お札を剥出《むきだ》しに掴《つか》んで、そこの窓の方を見ぬようにして通り過ぎたのですが、気が附いたらその札がありません。人通りの少いところだから、その辺にきっとあるとは思うけれど、またその窓の前を探しながら通りたくないので、ぐずぐずしている間に時が立ってしまった。もう誰か拾ったろうと残念がりました。半円札でしたか、一円札ですか。なぜ銭入に入れて行かなかったろう、せめて袂《たもと》にでも入れて行けばよいのにと、祖母が呟《つぶや》きました。
買物は池《いけ》の端《はた》へ出て、仲町《なかちょう》へ廻ってするのです。その仲町へ曲る辺に大きな玉子屋があって、そこの品がよいというので、いつも買います。買って帰って、そんな話をしているところへ次兄が顔を出して、「あの店では怪しい玉子はきっと皆|煎餅《せんべい》にするのでしょう」といったので、祖母は嫌《いや》な顔をなさいました。その店の玉子煎餅も名代《なだい》で、いつも買ってありました。
そこから広小路《ひろこうじ》へ出るところに、十三屋という櫛屋《くしや》があって、往来|端《ばた》に櫛の絵を画いた、低くて四角な行灯《あんどん》が出してありました。祖母が切髪を撫附《なでつ》けるのに、鼠歯《ねずみば》という、ごく歯の細かい櫛を使うので、それがあるかと聞きましたが、ありませんかった。黄楊《つげ》の木で造った品ばかりを商う、暗くて古風な店でした。
広小路へ出て右へ曲った右側に、千住の軽焼屋の店が出来たので、ついでに見に行きました。店にいた女の人は、同級生のお友達によく似ていましたから、姉さんか、それでなければおばさんだったでしょう。軽焼種というのを売るのです。それは牛皮のようなものですが、焼けば大きく脹《ふく》れるといいます。けれどもいつもそのままで食べました。珍しく大きな軽焼を白雪といいました。握り拳《こぶし》くらいあります。それもおいしいですけれど、本郷には大きな缶がないので、湿るからといって、人数だけ買って帰りました。
大学の構内を通り抜けて、赤門《あかもん》を出て左へ曲って、本郷の通りへ行きますと、三丁目の角に兼康《かねやす》という小間物《こまもの》の老舗《しにせ》があります。美しい髪飾のいろいろ並べてあるのを、客は代る代る取出させて見たりしています。そうした様子を、右手の横から、神農《しんのう》の薬草を持った招牌《かんばん》が見詰めているようです。その神農の白髪と、白髪の長いのとがお父様に似ているといったら、祖母に笑われました。
すぐ傍に岡野という菓子屋があります。これも老舗で、店の正面の神棚に、いつも灯明《とうみょう》がきらきらしています。その下の格子
前へ
次へ
全30ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング