。
出際《でぎわ》にまたしても地響をさせて通る汽車に驚いて、「よくお兄様は我慢なさるのね」といいますと、次兄は、「嫌だろうけど、外になかったから」と、割合に平気です。縁側から見ますと、向いの右手に御隠殿の急な坂の片端が見えるのでした。汽車は目の前を通り過ぎます。
御婚礼の日には、私は風を引いて出ませんかった。新婚のお二人は、家へ尋ねて下さいました。袿姿《うちかけすがた》の立派なお写真を見て、式に伺われなかったのを残念がりました。
その後風が癒《なお》ってお尋ねした時は、新しいお荷物が並んで、床の間には袋をかけたお琴や三味線もあり、老女と女中とがいて賑やかでしたが、お兄様も次兄もまだお帰りでなく、どこにも馴染《なじみ》の顔は見えません。お姉《ね》え様《さま》は優しく待遇して下さるけれど、何だか落ちつきませんかった。
そこへお客です。「榎本の叔母《おば》です」と仰しゃいます。老女に髪を結ってもらいに来たとのお話でした。品のよい太り気味のお方でした。
「買物もありますから」と、その日は急いでお暇しましたが、お兄様は間もなくその家をやめて、上野の山下にある赤松家の別邸へ移られました。あの汽車の音には、やはりお困りでしたろう。その家には前後二回伺っただけでした。
東照宮下から動物園の裏門の方へ曲って、花園町というのに今度のお家があります。山を右にして左側がお邸《やしき》です。もと上野山へ納める花を造っていたとのことですが、日当りはあまり好くないようですから、大した花は出来なかったでしょう。生垣《いけがき》の間の敷石を踏んで這入るのでした。右へ曲って突当りがお玄関で、千本格子の中は広い三和土《たたき》です。かなり間数があったようで、中廊下の果の二間がお部屋、そこから上った二階がお書斎でした。八畳位でしたろうか、折廻しの縁へ出て欄干に寄ると、目の下の中庭を越して、不忍池《しのばずのいけ》の片端が見えます。眺めがよいというのではありませんが、あの頻繁《ひんぱん》に目の前を汽車が往復した家とは比較になりません。ただ夜更《よふけ》には動物園の猛獣の唸声《うなりごえ》がすると、女中たちはこわがりました。
お部屋へは、よくお客が見えます。それが皆長座なさるのです。そこで始めて落合直文《おちあいなおぶみ》氏や市村※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]次郎《いちむらさんじろう》氏などにお目にかかりました。裏の窓から少し離れた二階家に、たしか大沼枕山《おおぬまちんざん》という方が患っていられました。体が御不自由の御様子で、附添《つきそい》の人の動作がよく見えます。戸が皆開け放されているので見通しです。いつもお出になる賀古《かこ》さんは顔を顰《しか》めて、「あんなになりたくないなあ」といわれましたが、後年お望どおり突然ともいうべき御容体で、御自分はお亡くなりになりました。
或時お兄《に》い様《さま》は風邪気《かぜけ》だといって寝ていらっしゃいました。下のお部屋です。そっと顔を出して、「いかがです」といいましたら、目くばせをなさるので、その方を見ますと、鳩が二羽来ています。こんな狭い庭にと思いましたが、清水堂からでも下りたのでしょう。じっと見ていらっしゃるので、手近にあった筆をとって、
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鳩ふたつあさりて遊ぶ落椿《おちつばき》
あかき点うつ夕ぐれの庭
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と懐紙に書つけて「ただこと歌でつまらないでしょう」といいましたら、「このお茶と同じだね」と仰しゃいました。そこにあったお茶はさめて、色も香もないのでしたから、思わず笑ってしまいました。
今度の家には弟も同居して、神田《かんだ》の学校へ通っていますし、赤松さんのお妹さんが二人、皆きれいな方でしたが、やはり来ていられます。大勢の家族ですから、部屋数はあっても、食事の時などなかなかの騒ぎです。下宿していた次兄も大抵来ていられて、夜など家人を集めて声色《こわいろ》をおつかいになります。団十郎《だんじゅうろう》がお得意でした。お兄様はお厭《いや》だろうと思いますのに、次兄はそれでも気軽にお兄様の御用をあちこちなさるので、「篤《とく》、篤」といって、御機嫌は悪くもありませんかった。
お妹の勝子さんと仰しゃるお嬢さんは元気な方で、後からお兄様に飛びついたりなさいます。私などは幼い時から、お兄様は大切の方と、ただ敬ってばかりいるのでしたから、心の中でまあと思いましたが、お母様など、「登志子さんもあんな気風だったら」など仰しゃるのにまた驚きました。
お客様でいつも夜が更けます。その頃西洋の詩を訳して『国民|之《の》友』へ寄せることになって、お兄様が文字と意味とをいって、それぞれにお頼みになります。中には意味だけいって、お自由にと仰しゃるのもありました。名のある方にまじって、私のような何も知らぬ者が片隅に首をかしげていた様子を思いますと、いくら昔のことでも背に汗が流れます。
知らぬ間に時が過ぎます。電話もない頃ですから、家から迎いの車が来ます。更けて寂しい道を車に揺られて、口の中で出来かけの訳詩を呟《つぶや》きながら帰るのでした。雨の日なども行って、転んで著物《きもの》を汚して、お姉え様のお召を拝借して帰ったことなどもありました。
そろそろ暑くなった頃の或土曜日に行きましたら、相変らずのお客です。「好いお茶碗《ちゃわん》はお人数に足らないし、お菓子もどうかと思う」と、お姉え様はおろおろしていらっしゃる。広小路まで出なければ何もないのでした。
そこへお母様が見えました。「そんなに心配なさらなくてもいいでしょう」と、傍に店を開いたばかりの氷屋で、大きい器に削り氷を山盛り買って来させて、別の器に三盆白《さんぼんじろ》を入れ、西瓜《すいか》の三日月に切ったのを大皿に並べさせて、「これだけ出して、後は捨ててお置きなさいまし。寒い頃なら好物の焼芋にするのだけれど、招待したお客ではなし、間に合えばいいでしょう」と、削り氷に三盆白をかけて、私どもにも下さいました。気を揉《も》んだ後なので、お姉え様もおいしそうに召上ります。
「赤松などではお客があっても、家内の者がお相伴《しょうばん》するのではありませんから。」
「それはお客に依り、時に依ります。どんなものでも皆で食べれば結構です。」
そんな話が交されました。
後になって賀古さんなどがお出になり、寒い日などでお酒が出ても、湯豆腐位でお済ませになるし、それで誰も不服らしくはありませんかった。
お祖母様が新嫁さんが見たいと仰しゃるのはお道理と、ちょうどその頃千住にお医者の会があって、お兄様に何かお話をといわれていたので、御一緒に車を並べてお出かけでした。お医者の方々はお兄様のお話を聞くために超満員だったといいました。その頃そんな折の会場はいつも郡役所でした。お姉え様は三味線をお持ちになったのです。長唄《ながうた》の何か一くさりを弾いてお聴かせになったのでしょう。後でお医者の方たちはお兄様のお話を喜び、お姉え様の長唄を聴いた者は、その音締《ねじめ》に感じ入ったのでした。お父様お母様の御満足が思いやられます。間もなく不運なことが起ろうなどとは、誰もが思いもかけませんかった。
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団子坂の家・曙町の家
昭和二十年三月二十日のことでした。かれこれ五十年近くも住み馴れた本郷曙町《ほんごうあけぼのちょう》の私の家へ、強制疎開の指令が来て、十日以内に引払えとのことです。どことて空襲の来ぬ処があるはずもなし、やっと目黒《めぐろ》辺で地方へ疎開した人の家を探して移ることにしましたが、さて荷物運搬の便がありません。曙町の通から吉祥寺《きっしょうじ》前まで、広く取払われて道路になるので、私どもの家並は皆取崩されるのですから、荷物を山と積上げたトラック、馬力《ばりき》で一杯です。自然|競《せ》りあげられて、一台千円などという法外な値となります。向側は何事もなくて、立派な家が並んでいます。そこの人たちはそれぞれ地方などへ疎開して、空家《あきや》に留守番だけがいるのでした。そこでそのお家へ、大切な品はよく梱《くく》って幾つか預け、手廻《てまわり》の品だけ持って引移りましたが、どんな些細《ささい》な物にも名残が惜しまれるのでした。少し落ちついたら運んでくれるという約束でしたから、毎日のように電話をかけたり、見廻りに人を遣っていましたが、やっと都合が附いて、明日はという前日、四月十三日の夜の大空襲で、白山《はくさん》から巣鴨《すがも》まで、残らず焼野原となってしまいました。長年心懸けて貯えた書物や、貴重品などが皆灰になりましたが、ただ幸《さいわい》だったのは、主人が遺した沢山な蔵書を、この不安な世の中でも、ここで焼いては済まぬからと、全部大学に寄附することにしてありましたのを、やはり車が思うようにならず、幾度かに分けてようよう運び終ったことでした。それも焼ければそれまでとあきらめていましたが、大学は幸に無事でした。
私たちがこの曙町に住むようになったのは、兄が団子坂上に移ってからなのです。兄は洋行から帰った当座は、池《いけ》の端《はた》の花園町におりました。そこで「舞姫」や『国民之友』の夏期附録となった『於母影《おもかげ》』などが出来たのです。ちょうど動物園の裏門前の邸で、奥まっていましたから、裏二階から不忍池は見えませんでした。夜が更けると猛獣の声が気味悪く聞えます。電車のない頃ですから、遅くなった時など、宅から迎いの車が来たことなどもあります。徹夜などは一向平気でいられました。まだ若かった私は、兄と知名の方たちとのお話を、いつも片隅で耳を聳《そばだ》てて、飽く時なく聞いていたのでした。
兄は間もなく、俗に太田の原という処に移りましたが、そこは暫くの仮住いでした。後に夏目漱石《なつめそうせき》氏の住まわれた家なのです。それから団子坂に移りました。それまで千住で郡医などをしていた父は年も老いたので、兄と一緒に住むためにと、父母連れ立って地所を探して歩いた時、団子坂の崖上《がけうえ》の地所が目に止ったのです。団子坂はその頃流行の菊人形で、秋一しきりは盛んな人出でしたので、父も人に誘われて見に来たこともありましたし、近くに「ばら新」という、有名な植木屋のあるのも知っていたのです。その地所には板葺《いたぶき》の小屋が建っていました。そこに立ちますと、団子坂から、蛍の名所であった蛍沢や、水田などを隔てて、遥《はる》かに上野|谷中《やなか》の森が見渡され、右手には茫々《ぼうぼう》とした人家の海のあなた雲煙の果に、品川《しながわ》の海も見えるのでした。その眺望に引きつけられて、幾度も来て見るごとにいよいよ気に入ったので、近い平坦《へいたん》な太田の原から、兄を連れて来て取極《とりき》めたのでした。細長い地所でしたが、持主に懸けあって、裏隣の地所もいつか譲受《ゆずりう》ける下約束もしたのです。そこは小家ながら茶がかった室もあり、古びてもしっかりした土蔵が附いていました。質屋の隠居の住いだったのです。後に修繕して、そこに兄の蔵書が納められました。
建増《たてまし》をするために、今まで住んだ千住から大工を連れて来たり、売買の仲介をした坂下の千樹園というのに、狭い庭の設計などをさせました。それは母が引受けたのです。兄も暇の時には、引入れた臥牛《ねうし》のような石に腰を掛けたり、位置を考えて据えつけた蹲《つくば》いの水をかえたりなどなさるのでした。少し落ちついてから、私は子供を連れて、父の部屋にした四畳半の茶室に行って見ましたら、松の鉢植や、鳥籠などを置いて、薄茶を立てていられました。連れて行った子が指《ゆびさ》すのを見ますと、蜀山人《しょくさんじん》の小さな戯画の額で、福禄寿《ふくろくじゅ》の長い頭の頂へ梯子《はしご》をかけて、「富貴天にありとしいへば大空へ梯子をかけて取らむとぞ思ふ」としてありました。主人の小金井は額は嫌いなので、子供は見附けないのでした。
「あれはどういうのですか。」
「前の人が置いて行ったのだ。
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