《や》せたのが高いといいます。」これを聞いた私は、「まあ」と呆《あき》れました。哀れに見える方がお金が貰《もら》えるのでしょう。
 もうそろそろ外れという処に植木屋がありました。小さな草花の鉢が並んでいるかと思いますと、根に土を附けたまま薦《こも》で包んで、丈の一間くらいもある杉とか、檜とかいう常磐木《ときわぎ》も廻りに立ててあります。如露《じょうろ》で水を沢山にかけるので、カンテラの光が映ってきらきら光ります。
 そこの正面がお堂なので、定がお参りする間待っていますと、植木を買おうとしている人もありますが、始めは法外なことをいうらしく、買手の方でもむやみに値切ります。それでは売られぬという、買われぬという、さんざん押問答の末に立去ろうとしますと、急に、「負けます、負けます」と呼止めて、やっと話が纏《まとま》ります。初めからお互に相当の値をいったらと思いました。でもそれが縁日の景気になるのでしょうか。
 裏門を出ると狭い土手です。定がいいました。
「ここからずっと行くと私の家の方です。」
「西新井《にしあらい》といったね。」
「ええ、お大師様のある処で、大きな植木市が立ちますよ。そら、すぐそこが軽焼屋のお店です。」
 毎日学校で席を並べていても、お家などは知らなかったのです。後に上野広小路にお店が出来て、帳場に坐っていた丸髷《まるまげ》のおかみさんがその人でした。
 小橋の方へ帰りますと一杯の人だかりで、高い声が聞え、三味線の音がしています。
「ああデロレンですね」と、定はいいました。どこか近くに奉公していたと見えて、何でもよく知っています。
 細い流のある辺に高い台を拵えて、男が頻りに語っているのは、宮本武蔵《みやもとむさし》の試合か何かのようでした。傍の女の三味線は、そのつなぎに弾くだけで、折々|疳走《かんばし》った懸声《かけごえ》をします。集った人たちが笑ったりするのは、何かおかしなことでもいうのでしょう。
 遅くなるから、大抵にして帰りましたが、目を円くしてその話をしましたら、ちょうど土曜日で、本郷から来ていたお兄さんが笑って、「五十稲荷《ごとおいなり》の縁日へでも連れて行ったら、目を廻すよ」といわれました。けれどもその名高い縁日は見ませんでした。五日と十日とがその日だったのでしょう。
 或日玄関に人が来て、書生さんといつまでも、話をしています。気短かな書生さんは、だんだん声高になり、無愛想にもなります。その人は、「どうかお薬をいただかして」と繰返しているようです、お母様が呼んで聞きましたら、「いえ、お宅に家伝のお薬があるでしょうといいます。そんなものはないといっても聞きません。それはあなたが知らないのです。年寄がそういいます。遠方からわざわざ来たのですから、先生のお帰りを待って戴《いただ》いて行くというのです。田舎の人は実に強情《ごうじょう》で困ります」と、さも不平らしくつぶやきます。
「まあそう一概にいわないで、気の済むようにして上げたいものですね」とお母様のおっしゃるのに、傍からお祖母様が、「それは『ろくじん散』をいうのではないかえ」といわれます。
「ほんとにそうかも知れません。聞いて見ましょう」と、その人に逢って聞きますと、やはりそうなのでした。
「よく聞伝えて来て下さいました。お年寄のおっしゃるのは御尤《ごもっと》もです、お国にいた時には随分出たお薬ですから。」
 書生さんはそっちのけです。まだ座敷の隅にある百味箪笥《ひゃくみだんす》――今は薬ばかりでなく、いろいろの品の入れてあるその箪笥から、古い袋を取出して、もう薬研《やげん》にかけて調合はしてあるのですから、ただ量だけを計って、幾包かを渡しますと、「さぞ年寄が喜びましょう」と、にこにこして帰りました。
 後で聞きましたら、それは何代目かの人の発明で、鹿の頭の黒焼を基にしたのだそうです。胃腸の薬で、持薬にするとのことでした。一藩中どこの家にも備えてあって、家伝の妙薬といわれ、あまりに需要が多いので、幾ら山国でもなかなか原料が間に合いません。山蔭に竈《かまど》を据えて、炭を焼くようにして、始終見廻るのでした。頼んだ人夫《にんぷ》に心懸けのよくないのがあって、そっと牛の頭を混ぜて持って来て、そのためにひどく面倒になったことがあるそうです。今もチャーコールなどというのがありますから、きっと効《き》き目があったのでしょう。
 車小屋が出来る時、板が間に合わないので、少しの間|葭簀《よしず》を引いて置きましたが、やがてそれを捲《ま》いたのが、片隅に寄せてありました。茶の間の前の軒に雀《すずめ》が巣をかけて、一日幾度となく、親雀が餌《えさ》を運びます。早く夕御飯をしまった私は、少しの米粒を小皿に取って、右の葭簀の一本を抜いて来て、その先に附けて巣のある辺へ出しましたら、すぐに銜《くわ》えて這入りました。それが面白いので、毎日|極《き》まって遣りますと、時刻が来ると親雀の方で、軒先にいて私を待つようになりました。それが幾日も続きました。
 或日|軒端《のきば》にけたたましい音がするので、何事かと思って見上げましたら、親雀が気が狂ったかのように羽ばたきして、くるくる廻ります。ただ事ではないと思って、書生さんを呼びました。「きっと蛇です」といいます。「いつ来たのでしょう」「どこにいるの」「早く追って」などといいますと、書生さんは田舎から来て、蛇などには馴れていると見えて、短い棒を手にして梯子《はしご》を登って行って、樋《とい》の中にすっかり嵌《は》まって巣を狙《ねら》って、逃げようともしない蛇を、やっと追立ててくれました。蛇が動き出して、客間の軒へ移りましたので、棒を入れて撥《は》ねましたら、ばたりと庭へ落ちました。それは一間足らずの青大将だったのです。
「殺しましょうか」と書生さんがいいます。
「田圃の方へでもお逃しなさい」と、蛇の大嫌いなお母様は、もう奥へお這入りです。
 蛇は庭を横切って裏の方へ行きますから、裏門を開けて見ていました。蛇がずるずるとそこの溝川《どぶがわ》へ這入ったかと思うと、今まではそれほどいようと思わなかった蛙が一度にがあがあ鳴出して、潜《もぐ》るのもあれば、足を伸して泳ぐのもあり、道へ飛上るのもあって、大騒ぎです。蛇は勢よく鎌首《かまくび》を立て、赤い舌を吐いてあちこちします。その気味の悪いこと。その辺の子供たちや、通りがかりの人が立止って見ています。蛇は蛙を追い追い水を伝わって遠退《とおの》きます。大勢の人たちもそれに連れてぞろぞろ行ってしまいました。
 明治天皇の東北御巡幸の時は、千住方面から御出発でした。広くもない往来は、朝の内から厳重な警戒です。千住まで皇后陛下の御見送りがありました。それで学校はお休みだったのでしょう、私は通りへ出て、橘井堂医院の大きな招牌《かんばん》の蔭から覗《のぞ》いて見ました。そこらの人たちが並んでいます。赤筋の這入った服の騎兵が、鎗《やり》を立てて御馬車の前後を警固して行きます。騎兵の人々に遮《さえぎ》られて、よく拝されません。やがて皇后陛下の御馬車が近づきました。折よく辺りに人もいませんかったので、御馬車の中も幾分見えました。御《お》すべらかしのお髪《ぐし》、白衿《しろえり》にお襠《うちかけ》、それらがちらと目の前を過ぎました。御陪乗の人はよく見えません。続くお馬車に、やはり御すべらかしが二人乗っていられました。それからまだ次々と御供が続きます。御小休所は三丁目の中田屋という、北組第一の妓楼の本宅で、店とはすっかり別になっていて、大層立派な建築のように聞きました。
 お父様は平生《へいぜい》決して妓楼へはいらっしゃらないのですが、その折は前以て病気の人でもあってはと、お出になったかに聞きました。
「外に場所はないのかねえ」「何だか勿体《もったい》ないような気がする」などと話合いましたが、土地がらだけに、何かある時に勢力があって、指折られるのは妓楼なので、致方《いたしかた》なかったのでしょう。
 その頃お兄様は陸軍に出ていられました。極った時間にお帰りなのに、それが後れて、少し薄暗くなって来ますと、私はもうじっとしていられません。通りまで出て、招牌の蔭から往来を見詰めています。そこの角は河合という土蔵造りの立派な酒屋で、突当りが帳場で、土間《どま》の両側には薦被《こもかぶ》りの酒樽《さかだる》の飲口《のみぐち》を附けたのが、ずらりと並んでいました。主人は太って品のいい人でした。後に河合の白酒というのが出来た時に、そこの家かとも思いましたが、聞いても見ませんでした。
 その隣りは天麩羅屋《てんぷらや》でした。廻りは皆普通の店ですのに、そこだけが一軒目立っていました。註文《ちゅうもん》でもあるのか、盛《さかん》に揚げて、金網の上に順よく並べているのを遠くから見ていますと、そこへ一人の男が来て、いきなりそれを一つ撮《つま》んで、隣の酒屋へ入りました。店の人は心得たもので、伏せてあるコップをゆすぎ、一つの樽の飲口から小さな桝《ます》に酒を受けて、コップに移して渡します。立った男は天麩羅を一口食べては酒を一口飲み、見る間に明けて、さっさと出て行きます。私はただ呆れて見ていました。
 往来の遥《はる》か彼方《かなた》から、菊の葉の定紋《じょうもん》の附いた提灯《ちょうちん》がちらと見えますと、私はすぐ家へ向って走ります。けれども車夫は足が早いのですから、とても駈抜《かけぬ》けられないと思った時は、途中にある横道の河合の蔵の蔭に這入って遣り過します。狭い道ですから、人力車が通る時は、傍の垣根にぴったり附いていないでは危いくらいです。門灯の下で車夫は汗を拭《ふ》き拭き笑っています。お兄様は、玄関の太い黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》に倚《よ》りかかって、肋骨の附いた軍服のまま、奥へも行かずに立っていられます。
「詰らないことをするものではない。危いではないか。暗くなってから通りへ一人で出てはいけないよ」と、むつかしい顔をしておっしゃるので、それからは家で待つことにしました。
 その頃毎朝御出勤前に牛乳をお飲みになるのでしたが、時間までになかなか間に合いません。それにあまりお好《すき》でもないと見えて、追っかけて玄関へ持って来ても、よく手を附けずにお出かけです。その頃ですからコーヒーはないのでしょう。どうかしてお飲ませしようと、いろいろのものや葡萄酒なども入れたりしたらしいのですが、お見送りして引返すと、大黒柱の許《もと》に、お盆に乗せた薄紅色の牛乳があったことなどを思出します。
 私どもが他へ移った後には、その敷地に河合の土蔵が建ったように聞きました。
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   花園町の家

 私のような年になると、もはや未来はないと同じですから、思出すのはただ過去のことばかりです。
 兄が亡くなられて三十余年になりますから、その壮年の頃といえば六十余年前になるでしょう。最初に兄が一家を構えたのは根岸|最寄《もより》で上野|御隠殿下《ごいんでんした》の線路のすぐそばの新築の家でした。上野の坂下の方から曲り曲って這入《はい》るのです。あたりは広々としていますし、間取も日当りも好いので、探し当てた次兄はお得意でしたが、すぐ傍を通る汽車をそれほどにも思わなかったのでしょう。
 私が始めて尋ねた時には、千住からお母様が職人を連れて来ていられました。間もなく輿入《こしい》れなさる新嫁さんのお荷物は、持って来てもらわぬようにとはいってはありますけれど、あちらはお家柄だから幾分の心構えはしなければというのでした。
「千住の家も気になるから」と、まだお兄様のお引けにならぬ夕方早くにお帰りです。「では私もそろそろお暇《いとま》にしましょう」といいますと、次兄は、「何かおいしそうなものをこしらえて置いてお帰り」といわれます。脇田という書生と臨時雇の馴《な》れぬ女との作ったものでは満足出来ないでしょう。お母様が千住からお持ちになったものはあるのですけれど、有合せの材料で何か作って、暮れぬ中にと急ぎます。乗物は人力車しかないのですから
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