にも五、六年|住馴《すみな》れて、今さら変った土地、それも宿場跡などへ行くのは誰も彼も気が進まず、たとえ辺鄙《へんぴ》でも不自由でも、向島に名残《なごり》が惜しまれるのでした。
千住の家は町からずっと引込んでいて、かなり手広く、板敷の間が多いので、住みにくいからと畳を入れたり、薬局を建出したり、狭い車小屋を造ったりしました。ちょうどその辺に大きな棗《なつめ》の木と柚《ゆず》の木とがあったので、両方の根を痛めないようにと頼んだのでした。向島での病人は、みんな居廻《いまわ》りでしたが、ここでは近在から来る人が多いので、車を置く場所を拵《こしら》えたのです。代診二人、薬局生一人、それに勝手を働く女中と、車夫とが来ました。今までは家内だけで暮していたのに人が殖えて、お嬢さんといわれるのはよいのですが、「書生さんに笑われますよ」とか、「女中が見ていますよ」とかいわれるのが窮屈でした。
庭を正面にした広い室に大きな卓があって、その上には、いつも何かしら盆栽が置いてあります。片隅には診察用の寝台、その傍の卓にはいろいろの医療器械や電気治療具などもありました。痺《しび》れる病人に使うのでしょう。皆ざっとした物でしょうけれど、幼い私には目新しくて驚かれました。
薬局は二方|硝子《ガラス》の室で、幾段かの棚があり、大小さまざまの瓶が並んでいました。小さな戸棚が取附けてあって、そこには劇薬が並べてあるので、錠が懸けてありました。丸薬、膏薬《こうやく》などの製剤具もありました。
丸薬では向島時代が思出されます。いつも夜なべ仕事に拵えるので、お父様がお薬を調合してお出しになると、大きな乳鉢《にゅうばち》でつなぎになる薬を入れ――ヒヨスもはいったようでした――乳鉢で煉《ね》り合せ、お団子くらいのよいほどの固さになった時、手に少し油を附けて、両手で揉《も》んで、右の親指の外四本の指先に少しずつ附けて、左の掌《てのひら》で丸めるのです。かなり熟練が入るのですが、お母様はお上手《じょうず》でした。私などが手を出して見ましても、とかく不揃《ふぞろい》になるので嫌われます。八畳の間の吊《つり》ランプの下でするのですが、その片隅に敷いた床の中で、ばらばらという幽《かす》かな音を聞きながら、いつしか私は睡《ねむ》るのでした。翌日はそれを拡《ひろ》げて蔭干《かげぼし》にし、硝子の大きな瓶に一杯にして置いて、量を計っては患者に渡します。
千住の家では、凸凹《でこぼこ》の金属の板を張ったのに、細長くした材料を横に入れ、同じような板の両端に把手《とって》の附いたので押して、前後に動かしますと、二、三十粒の丸薬が一度に出来ます。大変重宝のようですが、手製の方がしっかり出来るということでした。しかし今は薬局生が拵えますから構いません。
きょうは膏薬の原料を拵えるというと、外へ火を持出して、鍋《なべ》に白蝋《はくろう》を入れて煮立てます。外にも何か這入《はい》るのかも知れません。十分に溶けた時に鍋を下して、さめてから器に入れて置きます。単膏という札が貼《は》ってあります。水銀とか、芫菁《げんせい》とか、それぞれ薬を入れて煉るのです。よく膏薬|篦《べら》といいますが、なかなかしっかり出来ていて、それでよくしないます。まあ今のナイフのようです。
或時書生さんがお勝手まで駈《か》けて来て、真赤な顔をして、頻《しき》りに嚔《くさめ》をして苦しそうなので、「どうなすったの」と聞きましたら、「今薬局で芫菁を磨《す》っているのですが、どんなに我慢をしても、あれには叶《かな》いません」とのことで、それから暫《しばら》く外へ出て休んでいました。
夜お父様にお話したら、「それはその人の体質だよ。知らずに芫菁のいる木の下に休んでも、すっかり負ける人もある」とおっしゃいました。芫菁は発泡に使うのです。その書生さんは山本|鼎《かなえ》さんのお父さんで、修業中に手伝いをしていられたのでした。
庭には立木が多いのですが、その間の何もない処を選んで、高い台の上に備前焼らしい水瓶が据えてあります。平常は栓《せん》がしてありますが、雨が降って来ますと、亜鉛の漏斗《じょうご》の大きなのを挿入れます。夕立の激しく降る時にはひどい音がしますし、霰《あられ》などは撥返《はねかえ》って、見ているのが面白いのでした。雨が止みますと取下して、硝子の瓶に相当の漏斗をさし、濾紙《こしがみ》を敷いて静かに濾《こ》すと、それはそれは綺麗な水が出ます。真水でいけない時に、蒸溜水の代りにそれを使うのでした。
移転後|暫《しばら》くするにつれて、患者が来るようになりました。午後の往診も度々あって、代診の人たちもなかなか忙しく、自然収入も多くなるのでしょう。そんなことが続くと、お父様は、「きょうは奢《おご》ろう」と、皆を連れてお出かけです。私も一度だけ連れて行かれました。その時は浅草でした。私はお父様と一緒に家の車に乗り、書生さんたちはそこらで拾って乗ります。男ばかりだからと、黄八丈《きはちじょう》の著物《きもの》に繻子《しゅす》の袴《はかま》でした。お母様たちと出る時は、友禅のお被布《ひふ》などを著せられます。その日はまず江崎へ寄って写真を撮りました。それからそこらの料理屋へ這入って、皆にお飲ませになります。お父様は一猪口《ひとちょく》くらいしか召上らないので、私が口取《くちと》りを食べている傍で、皆の様子を機嫌よく見ていられます。車夫もその日は優待です。お母様のおみやげは折詰でした。
「当分はまた働いてくれるよ」と、後でお父様はおっしゃいました。出来て来た写真を見ますと、皆まじめな顔をして、袴をはいて並んでおり、私はおかっぱ頭を少しかしげて、お父様にくっついています。車夫は背が非常に高いので、端に立っているのが、鎗《やり》を立てたようだと、皆で笑いました。その写真は近年まで持っていましたが、今あったらさぞ面白いでしょう。
私の通う小学校までは、一町ばかりです。二階建の校舎がまだ新しくて、さっぱりしていました。最上級でしたが、来る人は少くて、男生徒が五、六人、女は私を入れて僅《わず》か三人でした。一人は同じ町の外科病院の娘さんで内田さんといい、一人は千住《せんじゅ》名物|軽焼屋《かるやきや》の娘さんで牧野さんといいました。二人とも銀杏返《いちょうがえ》しに結っています。私一人は長く伸したおかっぱでした。
その頃初めて縁日を見ました。学校の近くにある薬師様で、八日の縁日には賑わうのでした。近在から来ている女中の定が、目が少し赤いから、お薬師様へお参りしたいといいましたら、お母様は、「山本さんにお頼みして、お薬を拵えておもらいよ。だが、そこらが片附いたら、お参りはしてお出《いで》。賑かだろうから」とおっしゃったので、私も附いて行きました。
夜は外へは出ませんでしたから、灯の一杯にともったのが綺麗でした。薬師は左の方なのですが、ひどく明るい右の方へ行きますと、道の右左ともに二階建の大きな家が並んでいます。それは貸座敷なのです。表二、三間は細い格子《こうし》になっており、中は広い座敷で、後は金箔を押した襖《ふすま》で、ちょうど盛粧をした女たちが次々と出て並ぶところでした。近寄らなくても、往来からよく見えます。どれも大きな髷《まげ》に結って、綺麗な簪《かんざし》をさし、緋の長襦袢《ながじゅばん》に広くない帯、緋繻子の広い衿《えり》を附けた掛《かけ》という姿です。すっかり順に並びますと、その前へ蒔絵《まきえ》の煙草盆と長い煙管《キセル》とを置きます。これを張見世《はりみせ》というのでしょう。右の出入口は広い板敷で、上には大きなランプが幾つか吊してあり、若い男が角の大きな下足札《げそくふだ》に長い紐《ひも》を附けたのを二、三十本も右の手に持って、頻りに板敷を叩《たた》きます。終りに板の間の上をうねうねと揺すぶって、鼠鳴《ねずみなき》をするのです。それから外へ出て、格子を叩いています。入口には三所ほどに、高く盛塩《もりじお》がしてありました。縁起を祝うのだそうです。内田病院の前まで行きましたが、あっちでもこっちでも下足札の音がします。遅くなるからと引返して、左の道を急ぎました。
それから程なく、往来から家の中の見えるのはよくないからと、格子の前に白い日覆《ひおおい》のような物を掛けるようになりました。
それらの二階建の家に混って、大きな仕出屋《しだしや》がありました。大勢の男女が働いています。これは貸座敷ばかりへ食物を入れるので、ここらでは台屋《だいや》といいました。食物は足附きの大きな台に幾つでも並べて、被《おお》いなどはしないで、それを男が頭の上に乗せ、柄の長い提灯で足許《あしもと》を照しながら、さっさと歩きます。古い絵などにあるのと全く同じで、珍しく思いました。その食物を台の物というのです。
薬師様が近くなると、ぞろぞろと人が続いて、あたりにはカンテラの油煙《ゆえん》が立昇ります。雨も降らないのに、恐ろしく大きな傘を拡げて、その下で飴屋《あめや》さんが向鉢巻《むこうはちまき》で、大声でいい立てながら売っています。「飴の中から金太《きんた》さんが飛んで出る。さあ買ったり買ったり。」
白い飴の棒を刃物でとんとんと切りますと、おどけた顔が切口に出るのを面白く見ていました。
傍に金魚屋がいます。大きな小判形の桶《おけ》を幾つか並べた中に、金魚が沢山泳いでいます。中でも丸々と太って、尾が体の倍ぐらいもあるのはリュウキンというのでしょう。品があって見事ですが、そんなのは幾つもいません。「立派だねえ」と、見とれていました。小ぶりなのが一杯いるのも綺麗ですし、鮒尾とかいって、尾の小さいのが、はしっこく元気に動きます。金魚屋は硝子の薄い丸い玉を、細い赤い糸で編んだ目の荒い網に入れ、水を少し入れて渡します。私も金魚を買うことにしました。小さな叉手《さしゅ》を出して「どれでも欲しいのをおすくいなさい」というのですが、なかなか思うようにすくえません。とうとう金魚屋さんに頼みました。落したら大変と、大事に提げて帰ります。お座敷の卓の上の鉢植と並べて、飾りましょうと思いながら。
美しいのは簪屋さんでした。横四、五尺、両側は三尺足らずの屋台で、障子のような囲いをして、黍殻《きびがら》のようなものを横に渡したのに、簪が一杯刺し並べてあります。外に小さな箱に入れて、立てかけたのもありますし、小さな硝子の簪などは、幾本かを一緒に筒に立ててあります。大きな撮細工《つまみざいく》の薬玉《くすだま》に、いろいろの絹糸の房を下げたのが綺麗です。赤や黒塗の櫛《くし》に金蒔絵したのや、珊瑚《さんご》とも見える玉の根掛《ねがけ》もあります。上から下っているのは、金銀紅の丈長《たけなが》や、いろいろの色のすが糸です。この店には、小さな吊しランプが二つも下げてありました。売る人はその前に腰を掛けて、煙草を吸っています。立止って動かないのは女ばかりです。
それから地面に直ぐに筵《むしろ》を敷いて、玩具《おもちゃ》類を盛上げているのもあります。
また面白いのは虫売で、やはり小屋掛けですが、その障子は市松《いちまつ》模様に貼《は》ってあり、小さな籠《かご》が幾つともなく括《くく》りつけてありました。さまざまの虫が声を揃《そろ》えて鳴いています。野原や庭で鳴いているのは、近くへ寄っても鳴きやめるのに、雑沓《ざっとう》の中でよく鳴いていることと思います。その店にはなお、大きな籠に黒絽《くろろ》を張って、絵の具で模様を画いたのに、蛍が一杯這入っていて、その光が附いたり消えたり、瞬《またた》きするようで綺麗でした。やはり黒絽で張った小さいのが、まだ幾つも下げてありました。
人の大勢たかっている処は見ないで行きましたが、道の傍の土の上に筵を敷いたのに小さな子を寝かして、傍に親らしいのが坐って、お辞儀をしているのがあります。子供は眠っているのか、じっとしています。「可哀そうね」といいましたら、定は笑って、「子供はどこからか借りて来たのだそうで。肥えた子は安くて、痩
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