《さんすけ》に知らせます。流しを頼んだ人には、三助が普通の小桶《こおけ》ではない、大きな小判形《こばんがた》の桶に湯を汲《く》んで出します。暇な人は流しを取って、ゆっくりと時を過すのでした。
 女たちも子供連れなどは昼間に行きます。よく芸者などが客や朋輩《ほうばい》の噂《うわさ》をしていました。夜は仕事をしまった男たちが寄って来て、歌うやら騒ぐやら、夜更《よふけ》まで賑《にぎ》やかなことでした。
 御家老の清水さんの奥さんのお藤さんといいますのは、大きくなってから聞いたのですが、もと殿様のお部屋様《へやさま》でした。藩主は早く夫人が亡くなられて、お子様もなくてお独りでした。お手廻りのお世話をさせるために、江戸でお召抱えになったのがそのお藤さんで、当時はそんな邸向の奉公人ばかりを口入《くちいれ》する請宿《うけやど》があったのだそうです。どんな家の生れか知りませんが、年も若く、美しくて利発な人で、請宿では隠れた処にも痣《あざ》や黒子《ほくろ》のないように、裸体にして調べたとかいいました。女芸一通りは出来たので、お国に落ちついてからは、召仕《めしつかい》に習字のお手本を書いて渡したとか聞きました。
 お国のお山の上に社《やしろ》があって、何をお祀《まつ》りしてありましたか、家中の信仰も厚く、皆お参りをするのでした。それで心願の人たちが上げた額なども多い中に、松の木に藤の咲きかかった大きな額がありました。いつ誰が上げたのか、何の願だろうかと噂をしましたが、これは清水さんがお藤さんを慕って奉納せられたので、維新の騒がしさが静まって、殿様始め重《おも》な家来たちが東京住いになりました頃、御殿を下《さが》ったお藤さんは清水さんの奥さんにおなりになったものですから、これはきっと神様の御利益《ごりやく》だったろうといわれました。それまで清水さんは、久しくやもめでいられたのです。
 その後お邸では、年二回位家中の家族を呼んで饗応《きょうおう》せられるので、向島中の芸者が接待に出ました。そんな時など、家老の奥さんだというので、溜《たま》りの間《ま》に集って控えている女たちに、「皆さん、今日は御苦労様です」と、裾《すそ》を引いてずっと通りすぎる様子などは、さすがにそれだけの品が備《そなわ》っているといわれました。私などが幾らか人の顔立《かおだち》なども分るようになってから、ちらちら話を聞いていましたのに、背こそすらりとしていますが、色白というのでもたく、顔立もよいとは思われぬものですから、「まあ、あの方がお若い時はそんなに美しかったの」と、呆《あき》れたようにいいますと、お父様は笑って、「若い時の美人は猿になるというからなあ」とおっしゃいました。
 清水さんは御子息さんにお嫁さんもあり、お孫さんもおありでした。お父様の病家で、よくいらっしゃいます。御殿の話などが出ますと、「私が御殿におりました時には」などと、お藤さんは平気で話されるとのことでした。お藤さんはずっと後まで御丈夫で、お心易《こころやす》くしていました。お兄様の誕生日などに、団子坂の家へお出のことなどもありました。

 東京へ来ましても、学校へ通うのにはまだ間がありますし、そこらを見て歩きたいのですが、狭い家へ荷物が著いたり、それを片附けたりするので、なかなかどこへも連れて行ってもらわれません。それでも亀井家のお墓所|弘福寺《こうふくじ》が近くにあるので、まずそこへだけはと、お祖母様とお母様とに連れられて、お参りに行きました。
 家を出て土手の方へ向って行きますと、左手は前に書いたお湯屋で、右手の広い空地《あきち》に傘屋がありました。住いは奥まっていて、広場が傘の干場でした。そこはきっと大きな家を壊した跡なのでしょう。地面に杭《くい》が一面に立ててあって、蛇《じゃ》の目《め》、奴《やっこ》、その他いろいろの傘が干し並べてありました。大きな字のあるのは商家からの頼みでしょう。小僧さんが二人、目くら縞《じま》の前掛を首からかけて、油だらけになって油引きをしていました。日が強く当るので、油の匂いがぷんぷんします。それだけにまた雨の日は、打って変って寂しいのでした。
 少し行きますと、左側は松平《まつだいら》という華族の邸でした。やはり黒板塀の門ですが、あまり大きくはありません。亀井家が四万三千石でしたから、それよりも石高《こくだか》が少かったのでしょう。でも御内福だという噂でした。松平という家は多いのですから、どこの大名なのか存じませんが、ここもお父様の病家でした。小さいお子さんを乳母《うば》が背負って、よく薬取りに来ました。そのお乳母さんが話好きで、お子さんもお父様に髯《ひげ》のあるのを怖《こわ》がらず、お菓子があると、「これはバンコ(犬)に遣ろうか、森さんに上げようか」などとおっしゃるのでした。その松平家へ往診なさいますと、奉書の紙に大きなカステラが三切れとか、立派なお菓子が五つとか出ます。ですから松平家へ往診と聞くと、お兄さんや私はそのおみやげをあてにして喜んだものです。お兄様のことは覚えません。多分もう寄宿舎でしたろう。
 松平家の正面が弘福寺です。門前に小さな花屋があって、本堂までずっと長い石畳の道でした。黄檗宗《おうばくしゅう》のお寺ですから、下にずっと瓦《かわら》を敷き詰めて、三方腰掛になっているのは支那風なのでしょう。御墓所は本堂の右手裏にありました。江戸で亡くなった方ばかりですから多くはありませんし、存外質素なのでした。お参りしてから、お祖母様とお母様とがおっしゃいました。

「もう国へ帰ることはあるまいから、内の墓所もここにしましょう。」
「百里もある遠方では御先祖のお墓参りも出来ないから、お寺へ頼んで見ましょうね。」
「静男に異存のあるはずもないのだから。」
 帰って相談した上、お寺へも頼み、お国の墓所の土を少し取寄せて、小さな標の石を建てました。私が小学へ通うようになってからは、お祖母様が散歩がてら送り迎えなどして下さる時、いつもお参りになりました。お祖父様《じいさま》は江戸からお国へお帰りの途中、近江《おうみ》の土山《つちやま》の宿でお亡くなりになって、その地へお埋めしたのですから、お国のはもっと古い仏様ばかりです。大震災後にお寺の墓地が移転することになって、亀井家のは全部掘上げてお国へ送られ、森家のは同じ宗旨のお寺をと探した末に、やっと三鷹村《みたかむら》の源林寺と極《き》まり、それまでに亡くなったお父様、お兄さん、お兄様のお骨を移しましたが、昔の小さな標がまだ源林寺の墓地の隅にあります。お祖母様、お母様のは御遺言で土山に埋めました。

 弘福寺のすぐ傍に牛の御前があります。ほんとの名前は牛島神社です。石の鳥居をくぐって社殿までの右側に、お神楽殿《かぐらでん》があって、見上げる欄間《らんま》には三十六歌仙の額が上げてあったかと思います。左側の石の手洗鉢《ちょうずばち》にはいつも綺麗な水が溢《あふ》れていて、奉納の手拭《てぬぐい》の沢山下がっているのには、芸者の名が多く見えました。それに並んで、実物よりもよほど大きいかと思われる黒い石の牛が蹲《うずくま》っていて、大きな涎掛《よだれか》けが掛けてあり、角もいろいろ結びつけてありました。境内からは、塀のすぐ上に堤の桜がよく見えます。社殿は古びた清素な建築で、賽銭箱《さいせんばこ》の上に吊《つる》した大きな鈴も黒ずんでいました。下った五色の布を引いて拝します。その後側の裏門を出ると、桜餅で有名な長命寺《ちょうめいじ》の門前で、狭い斜めの道を土手に上ると言問《こととい》です。
 牛の御前の向い側にしもた家《や》らしいのが二、三軒、その並びに芸者屋が一軒ありました。千本格子の入口に大きな提灯《ちょうちん》が下って、〆八《しめはち》という名が書いてあり、下地《したじ》ッ子《こ》とでもいうのでしょう、髪だけ綺麗に結った女の子が、襷掛《たすきが》けで格子を丁寧に拭《ふ》いていました。いつかお母様とその前を通りかけた時、人と立話していた芸者が、「お出掛けですか?」といって、寄って来ました。お邸へ来るので知っているのです。「お嬢さんですか?」と、しゃがんで私の両手を取ります。びっくりして、手を引込めようとしましたが離しません。「お遊びにいらっしゃいな」といい、「お学校への道ですからいいでしょう」といいます。私が土手下の小学校へ通い始めた頃でした。やっと別れた帰り路に、「〆八は愛嬌《あいきょう》があって、評判がいいのだよ」とお母様はおっしゃいましたが、私は何だか嫌《いや》でした。
 それから朝学校への道でよく逢います。あの人たちは朝は遅いかのように聞きましたのに、きっと牛の御前に朝詣《あさまいり》をするのでしょう。私を見かけると、大きな手を広げて通せん坊をします。道の片端を走抜けようとしますと、また寄って来ます。嫌がるのが面白いのでしょう。私は顔を真赤にして逃出すので、夢中ですから引掻《ひっか》いたかも知れません。すぐ傍の料理屋らしい家の長い板塀に附いて、学校への道を左へ曲りますと、大きな声で笑うのが後に聞えました。帰りは友達と一緒ですし、逢ったことはありません。あまり嫌ですから、水戸邸の方から行ったこともありましたが、道のりが倍もあって寂しく、それに時間もかかりますので、仕方なしに駈抜《かけぬ》けるのでした。
 その頃の私の学校通いの姿は変なものでした。手織縞《ておりじま》の著物《きもの》はよいとして、小さな藁草履《わらぞうり》は出入の人が作ってくれたので、しっかり編んで丈夫だからと、お国から持って来たのでした。鼻緒はお祖母様が赤い切《きれ》で絎《く》けて下さるのです。日の照りつける時は、傘を持たせると忘れたり破ったりするからと、托鉢《たくはつ》のお坊さんの被《かぶ》るような、竹で編んだ大きな深い笠《かさ》を冠《かぶ》ります。その頃お兄様は絵をお書きになったので、その笠には墨で蘭が画いてありました。赤い切で縫った太い紐《ひも》が附いていて、顎《あご》で結ぶのでした。荷物を斜めに背負って、ちょこちょこ出かけますと、茸《きのこ》が歩いて行くといって笑われますが、一向平気なものでした。その荷物は、読本と縦四寸横六寸位の小さな石盤《せきばん》とで、木の枠に石盤拭きが糸で下げてあります。遣いつけたら離されません。学校へ置いて来たらといわれても、いつも往《ゆ》き返りに背負っていました。石筆《せきひつ》に堅いのと柔かなのとあって、堅いのを細く削って書くのでした。
 学校は大きな料理屋の跡らしく、三囲《みめぐり》神社の少し手前でした。立木が繁って、大きな池があり、池には飛石が並んでいました。子供たちが面白がって渡っては、よく落ちたものでした。運動場はかなり広い砂地で、細い道を隔てて田圃でした。その隅に丸太が立っていて、牛島小学校と染めた旗が附けてありました。
 冬になりますと、男の子たちは柵《さく》から抜出して、田圃の稲株の間に張った厚氷を、石で割って持って来ます。お辞儀をしてそれを分けてもらってはしゃぶりました。よく中《あた》らなかったことと思います。
 教室の数はかなりあったようです。お兄さんは上の級にいられて、成績はいいがいたずらだといわれていました。今も覚えているのは読方の時間です。先生が一くぎりずつ読まれますと、二、三十人いる男女の生徒が、一緒に続いて読むのですが、妙に節を附けて読む先生の癖をまねて、その賑かなこと、学校の傍を通る人が立止るほどでした。

 少しして小梅村へ引移りました。二百余坪の地所に、三十坪ばかりの風雅な藁屋根の家でした。それまでは何しろ往来に近い手狭《てぜま》な家で、患者が来ますと困るからです。今度の家は大角とかいった質屋の隠居所で、庭道楽だったそうで、立派な木や石が這入《はい》っていました。人の話を聞いてお父様がお出かけになって、一度御覧になったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟《ひきふね》の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから、私の学校へも遠くなるし、来る病人も困るだ
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