お邸内に住むはずですし、また手頃な家もないではありませんでしたが、その頃のお手当はいかにも僅《わず》かなので、お兄様の学費のこともあり、私どもも出て来ますと暮しがむつかしかろうからと、わざと近い邸外に住むことにしたので、患者も少しは来ますし、往診もちょいちょいありました。近所の婆さんが、煮焚《にたき》の世話をしてくれていたそうです。
私どもが著《つ》いた明くる朝、お父様がお出かけになるのをじっと見ていた私は、お母様の耳に口を寄せて、「あのおじさんが、何か持って行くよ」といいました。
「まあ、この子は。お父様ではありませんか。」
皆に笑われて、真赤になってお母様の蔭に隠れました。ゆうべはごたごたしていてよく分らず、一、二年の間にすっかり見忘れたのも道理です、お写真などもなかったのですから。袋戸棚から紙入を出して、懐《ふところ》にお入れになったのを私は見たのです。
今まで広いところで育ったのに、庭というほどのものもなく、往来に向いた竹格子《たけごうし》の窓から、いつも外ばかり眺《なが》めていました。目に触れる何もかも珍しくて、飽きるということがありません。毎日通る人の顔も、いつか見覚
前へ
次へ
全292ページ中109ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング