たくは》ふるに在らず、時としては手箱の用《よう》をも辨《べん》じたるなるべし。現に石鏃の入りたる儘の土器、小砂利の入りたる儘の土器、繪具《ゑのぐ》を入れたる痕《あと》有る土器等の發見されたる事有るなり。
圖版中左の上に畫《ゑが》きたるは沈紋《ちんもん》の數例なり、形状の圖と共に其據は總て理科大學人類學教室所藏品に在り。[#地から2字上げ](續出)
[#改段]
●コロボックル風俗考 第八回(※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]圖參看)
[#地から1字上げ]理學士 坪井正五郎
●土製裝飾品
身体裝飾《しんたいそうしよく》として用ゐられしならんと思《おも》はるる土製品《どせいひん》は極めて稀《まれ》にして、好例《こうれい》として示すべき物は余の手近《てぢか》には唯一個有るのみなり。(圖中《づちう》、下段《げだん》右の端《はし》を見よ)此品は大森貝塚《おほもりかいづか》より發見されたり。全体《ぜんたい》に樣々の沈紋《ちんもん》有り。他の土器《どき》と等しく火に掛《か》けたる物にして、色は黒《くろ》し。長さの向《む》きに孔《あな》有りて恰も軸《ぢく》を拔《ぬ》き取りたる紡錘の[#「紡錘の」は底本では「紡錐の」]如し。思ふに此|孔《あな》に糸を貫《つらぬ》きて身に帶《お》ぶるに便にせしならん。
●土偶
既に身体裝飾《しんたいそうしよく》衣服《いふく》等の事を述《の》べし折に言ひしが如く、本邦石噐時代の諸遺跡《しよいせき》よりは燒《や》き物の人形《にんぎよう》屡ば發見《はつけん》さるるなり。大さは種々なれど今日迄に知《し》れたる事實《じじつ》に由れば最も大なるは陸奧龜ヶ岡|發見《はつけん》加藤某氏|所藏《しよぞう》(第三回圖中に頭部《とうぶ》のみを畫《ゑが》き置きしもの、佐藤蔀氏藏せしは誤なり)全長一尺二寸|計《ばかり》、最も小なるは武藏下沼|發見《はつけん》理科大學|人類學教室所藏《じんるいがくけふしつしよぞう》の物にして全長二寸五分、製作《せいさく》に付きては内部の充實《じうじつ》したる物と空虚《くうきよ》なる物との二種有り形式《けいしき》に付きては全体《ぜんたい》に太《ふと》りたる物と前後より押《お》し平めたるが如き物との二種有り。其用は信仰上《しんこうじやう》關係を有するか、單《たん》に玩弄品《ぐわんろうひん》たるか未だ詳《つまびらか》ならずと雖も、間々|製作《せいさく》の巧妙《こうめう》精緻《せいち》なる物有るを以て見れば甲の考《かんが》への方實に近からんと思《おも》はる。物質《ぶつしつ》の異同は有れど、小偶像《せうぐうぞう》を作りて禮拜《れいはい》の目的物《もくてきぶつ》とし又は身の護《まも》りとする事|野蠻未開人民《やばんみかいじんみん》中其例少しとせず。貝塚《かいづか》即ち石器《せきき》時代人民の掃《は》き溜《だ》めより宗教上《しうけふじやう》の物を發見《はつけん》すとは如何にも誠しからず聞こゆべしと雖も、一定《いつてい》の時日を經《へ》たる後、或は一定の祭祀《さいし》を終りたる後は、偶像《ぐうぞう》の利益|功力《こうりよく》を失ふと云ふが如き考《かんが》へは存し得べき事にして、尊崇《そんすう》すべき物品が食餘《しよくよ》の汚物《おぶつ》と共に同一所に捨てられしとするも敢て怪《あやし》むべきには非ざるなり。土偶《どぐう》の頭部《たうぶ》或は手足部《しゆそくぶ》の欠損《けつそん》せる事常なること、恐くは一種《いつしゆ》の妄信《もうしん》の爲、故意に破壞《はくわい》せるに由るならん。土偶《どぐう》の用は信仰上《しんこうじやう》に關係《くわんけい》有りと假定するも、尚ほ實在《じつざい》の人の形を現《あらは》したる物か、想像上《そうぞうじやう》の神の形を示したる物かとの疑問《ぎもん》有らん。此事に付きては後段《こうだん》別《べつ》に述ぶる所有るべけれど、土偶の形状《けいじやう》はコロボツクル日常の有樣《ありさま》を基《もと》として作りしものならんとの事丈《ことだけ》は此所《ここ》に記し置くべし。土偶中には裸体《らたい》の物有り、着服《ちやくふく》の物有り、素面《すめん》の物有り、覆面《ふくめん》の物有り、冠《かむ》り物の在る有り、無《な》き有り、穿《は》き物の在る有り、無《な》き有り、上衣《うわぎ》と股引《ももひき》とには赤色《あかいろ》の彩色《さいしき》を施したるも有るなり、圖中|下段《げだん》右より二つ目に畫《ゑが》きたるものは裸体土偶《らたいどぐう》の一例にして出所は常陸椎塚貝塚、所藏主《しよぞうぬし》は理科大學|人類學《じんるいがく》教室なり。左に土偶|發見《はつけん》國名表を掲《かか》ぐ。
渡島、陸奧、羽後、磐城、岩代、下總、常陸、武藏、信濃、就中《なかんづく》多く出でたるは陸奧龜ヶ岡なり。
●土版
土版には長方形《ちやうはうけい》のものと小判形《こばんがた》のものとの二種有り。用法《ようはう》詳ならずと雖も、恐《おそ》くは[#「恐《おそ》くは」はママ]身の護《まも》り又は咒《まじな》ひの具|抔《など》ならん。中には前述の土偶《どぐう》との中間物の如きものも有り。從來《じうらい》發見《はつけん》されたる土版の出所は左の如し。圖《づ》に示《しめ》す所は武藏北足立郡貝塚村より出でしものなり。
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武藏荏原郡大森貝塚
同 郡上沼部貝塚
同北豊島郡小豆澤貝塚
同 郡西ヶ原貝塚
同北足立郡貝塚村
同 郡小室村
同南埼玉郡[#「南埼玉郡」は底本では「南崎玉郡」]黒谷村
常陸河内郡椎塚貝塚
下總東葛飾郡國分寺村貝塚
陸奧南津輕郡浪岡村
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●貝殼器
はまぐりの如き貝殼《かいがら》は自然に皿形《さらがた》を成し、且つ相對《あひたい》する者二枚を合する時|葢《ふた》と身との部さへ具《そな》はるが故に物を貯《たく》ふる器とするに適《てき》したり。我々は是に膏藥《こうやく》の類を入るる事有れどコロボツクルは之を以て繪《ゑ》の具《ぐ》入れとせしなり。赤色《あかいろ》の繪《ゑ》の具《ぐ》を入れたる儘《まま》のはまぐり貝は大森|貝塚《かいづか》より數個|發見《はつけん》されたり。
はまぐり貝は又物を掻《か》き取るに適《てき》したり。魚鱗《ぎよりん》の充《み》ちたる儘《まま》のもの貝塚《かいづか》より出づる事有り。
貝塚《かいづか》發見《はつけん》物中に猪の牙を細《ほそ》く研《と》ぎ※[#「冫+咸」、87−下−14]《へ》らしたるが如き形のもの有り。其用は未だ詳ならざれど、明かに貝殼《かいがら》の一つなり。最も細《ほそ》く作られたるものは其|原料《げんれう》甚だ見分《みわ》け難けれど稍《やや》太《ふと》きもの及び未成《みせい》のものを列《つら》ね考ふれば、あかがひの縁《へり》の部分《ぶぶん》なる事を知るを得。發見地《はつけんち》は常陸椎塚、武藏上沼部、箕輪及び東京谷中延命院|脇《わき》の貝塚《かいづか》なり。
●植物質器具
植物質《ちよくぶつしつ》のものにして今日迄に石器時代遺跡《せききじだいいせき》より發見されたるは菱《ひし》の實《み》、胡桃の實《み》、及び一種の水草《すいさう》の類にして、是等は唯《ただ》有りの儘《まま》の形にて存在《そんざい》したるのみ。植物質《ちよくぶつしつ》の器具《きぐ》に至つては未だ一品も出でたる事無し。木にもせよ、竹にもせよ、草《くさ》にもせよ、植物質の原料《げんれう》にて作りたるものは腐敗《ふはい》し易き事|勿論《もちろん》なれば、其今日に遺存《いぞん》せざるの故を以て曾て存在《そんざい》せざりし證とは爲すべからず。現《げん》に土器《どき》底面中《ていめんちう》には網代形《あじろかた》の痕《あと》有るもの有り、土器形状|模様《もよう》中には明かに籠の形を摸《も》したるもの有り、コロボックルが籠の類《るい》を有せし事は推知《すいち》し得べきなり。
アイヌ間に存《そん》する口碑《こうひ》に由ればコロボックルは又|木製《もくせい》の皿をも有《いう》せしが如し。
既に服飾《ふくしよく》の部に於ても述《の》べしが如く、土器《どき》表面《ひやうめん》の押紋《おしもん》を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]すれば、コロボツクルが種々《しゆ/″\》の編《あ》み物、織り物、及び紐《ひも》の類を有せし事《こと》明《あきら》かにして、從つて袋《ふくろ》を製《せい》する事抔も有りしならんと想像《そうざう》せらる。
以上《いじよう》諸種《しよしゆ》の植物質器具は食物其他の物品《ぶつぴん》を容るるに用ゐられしならん。
●日常生活
前々《ぜん/\》より述べ來《きた》りしが如き衣服《いふく》を着《き》、飮食《いんしよく》を採り、竪穴に住ひ、噐具を用ゐたる人民《じんみん》、即ちコロボックル、の日常生活《にちじようせいくわつ》[#ルビの「にちじようせいくわつ」は底本では「につじようせいくわつ」]は如何なりしか、固《もと》より明言《めいげん》するを得る限《かぎ》りには非ざれど試《こころ》みに想像《そうぞう》を畫きて他日精査を爲すの端緒《たんちよ》とせん。
余《よ》は曾てコロボックルは人肉《じんにく》を食《くら》ひしならんとの事を云ひしが、此風習《このふうしふ》は必しも粗暴猛惡《そぼうまうあく》の民《たみ》の間にのみ行はるるには非ず、且つ人肉は决して彼等《かれら》の平常《へいじよう》の食料《しよくれう》には非ざりし事、貝塚の實地|調査《てうさ》に由りて知るを得べければ、此一事《このいちじ》はコロボックルの日常の有樣《ありさま》を考ふに付きて深き據とは爲すべからず
土器《どき》の形状《けいじよう》の爲に種々の意匠《いせう》を廻らし、土器の紋樣の爲に幾多《いくた》の圖案を工夫《くふう》せしが如《ごと》きは土器|製造者《せいざうしや》の心中餘裕有りしを知るに足るべく、土器|使用者《しやうしや》の性質|寧《むしろ》沈着《ちんちやく》なりしを察するに足るべし。余はコロボックルは温和《おんわ》なる生活《せいくわつ》を爲せし者と考ふ
彼等《かれら》は朝《あさ》起《を》きて先づ火焚き塲の火を熾《さかん》にし、食物調理《しよくもつてうり》を爲し、飮食《いんしよく》を終りたる後は、或は食物|原料採集《げんれうさいしう》に出掛け、或は器具製造に從事《じうじ》し、日中の時《とき》を費《つひや》したる後、各※[#二の字点、1−2−22]又我が火焚き塲の傍に集《あつま》り座して且つ談《だん》じ且つ食《くら》ひ、飽《あ》けば即ち横臥《わうぐわ》して漁獵の夢抔を結《むし》びしならん。
男の仕事《しごと》は鳥獸魚《ちようじゆうぎよ》の捕獲《ほくわく》、住居《じうきよ》の建築《けんちく》、石器《せきき》の製造《せいざう》、舟の製造、發火等を主《しゆ》とし、女《をんな》の仕事は植物性《しよくもつせい》食物原料及び貝類の採集、編《あ》み物、織り物《もの》、紐類、土噐の製造、調理《てうり》、小兒|保育等《ほいくとう》を主とせしなり
●漁業
遺跡よりは角製の釣《つ》り針《はり》の出でし事あり(第七回參照)。土器押紋中には慥《たしか》に網の痕《あと》有るもの有り。切り目有る扁平石噐中には網の錘《おも》りと思はるるもの有り。貝塚より魚骨魚鱗の出づる傍《かたは》ら是等遺物の存在《そんざい》するは實にコロボックル漁業《ぎよげふ》の法を明示するものと云ふべきなり。釣り竿の有無《ゆうむ》は考へ難《かた》けれど、網《あみ》は恐《おそ》らく曳《ひ》き網《あみ》なりしならんと思はる。是等の他にも大魚を捕ふる法有りしなり。此事は常陸椎塚より發見《はつけん》されたる大鯛《おほだい》の頭骨に骨器の刺《さ》さり在りし事に由つて知られたり。骨器、牙噐、石噐中には其形状如何にも銛《もり》の如くに見ゆるもの有《あ》る上に、斯かる證據物さへ出でたる事なれば大魚《たいぎよ》を漁《れう》する爲に銛《もり》の用ゐられし事何の疑か有らん。銛は鋭《するど》き尖端《
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