《のこ》せし人民が[#「人民が」は底本では「人民か」]時としては人肉を食《くら》ひし事有りしを証するものと考ふ。此想像《このそうぞう》にして誤り無《な》からんか、コロボツクルは我々日本人は勿論《もちろん》アイヌも恐《おそ》れ嫌《きら》ふ可き食人の習慣《しふくわん》を有せし人民にして、其|性質《せいしつ》日本人及ひアイヌとは大に異りたるものと云ふ可きなり。人肉《じんにく》にして若し他の肉類《にくるゐ》と等《ひと》しく食用に供されしものならは其|調理法《てうりはう》に於ても亦|同樣《どうやう》なりしならん。
     ●飮食法
遺跡《ゐせき》より發見《はつけん》せし土噐の中には椀形《わんがた》のもの有り、皿形《さらがた》のもの有り、鉢形のもの有り、諸種《しよしゆ》の飮食物を盛《も》るに適《てき》す。是等の他に食器として用《もち》ゐるに足る小籠抔《こかごなぞ》も有りしならん。土噐の形状中には籠《かご》の形《かた》を摸《も》せしものも有れは此考へは一概に空想《くうそう》なりとは云ふ可からす。匙《さじ》としては貝殼に柄《え》を付《つ》けたるもの用ゐられ、肉差しとしては獸骨を割《わ》りて磨《す》り尖《とが》らしたるもの用ゐられしならん。肉差しの如き骨器は常陸椎塚の貝塚より數個出でたり
[#地から3字上げ](續出)
[#改段]

      ○コロボックル風俗考 第五回(挿圖參看)
[#地から1字上げ]理學士 坪井正五郎
    ●住居
人類の住居《ぢうきよ》には樣々《さま/″\》の種類有るものにて、我々《われ/\》日本人《にほんじん》は現今地盤上に建《た》てたる家にのみ住《すま》へど、古今を通じて何人種《なにじんしゆ》も同樣と云ふ譯にはあらず。ニウジイランド及びアフリカの一地方には立ち木の上《うへ》に小屋を作りて住居とする者《もの》有り。ニラジイランド[#「ニラジイランド」はママ]、ヴェネジュラ、マレイ諸地方《しよちはう》には海底、川底、湖底抔に杭《くひ》を打ち込み水面上《すゐめんじやう》數尺《すうしやく》の所に床を張り屋根《やね》を設けて住居とする者有り。カナリイ、チュニス、スペインのグラナダ、支那の陜西省諸地方には住居《ぢうきよ》として穿《うが》ちたる横穴有り。千島《ちしま》カラフト、カムチャツカ、アラスカ、グリーンランド、朝鮮には住居《ぢうきよ》として堀りたる竪穴有り。是等《これら》は皆現今用ゐらるるものの例なれど、古代に在ても地方《ちはう》に由り人種に由つては種々樣々《しゆ/″\さま/″\》なる住居《ぢうきよ》有りし事疑ふべからず。コロボックルは如何なる種類《しゆるゐ》の住居を有《いう》せしや。之をアイヌ間に存する口碑に徴《ちやう》するに、コロボックルは土を堀り窪めて低所《ていしよ》を作り、木の幹《みき》枝《えだ》を以て屋根の骨とし、之を草木《さうもく》の葉にて覆ひて住居とせしものの如し。
アイヌが指《さ》してコロボックルの遺跡《ゐせき》なりとするものは何れも竪穴にして、其廣《そのひろ》さは疊二枚敷より五十|枚敷位《まいじきぐらゐ》に至り、深さは通例五六尺位なり多《おほ》くの年月を經《へ》て斯《か》かる有樣と成りしもの故其始めは更に廣《ひろ》く更に深《ふか》かりしならん。是等の竪穴《じゆけつ》がコロボックルのものたる事、即ち石噐時代人民《せききじだいじんみん》のものたる事は口碑《こうひ》のみに由つて推測《すゐそく》するに非ず、土中の發見物《はつけんぶつ》に由つて確知するを得《う》るなり、北海道諸地方現存の竪穴よりは石器時代土器石器の破片出づ。此事は余自らも釧路《くしろ》に於て實見《じつけん》せり。
農學士石川貞治氏の調査《てうさ》に從へば北海道本島中竪穴の存する地方は次の如し。後志[#「後志」に傍点]國余市郡余市村、同郡河村、同國|忍路《オシヨロ》郡忍路村、同國高島郡手宮、石狩[#「石狩」に傍点]國札幌郡札幌、同郡圓山村、同琴仙村、天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70−下−3][#「天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70−下−3]」に傍点]國|留萠《ルルモツベ》郡留萠、同郡オビラシベツ、同國苫前郡オンネシヨサンベツ、同郡風連別、同國天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70−下−4]郡天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70−下−4]村、北見[#「北見」に傍点]國枝幸郡枝幸村、紋別郡|雄武《オオム》川筋、同郡サルマ湖南岸、同國|常呂《トコロ》郡常呂村、同國網走郡能登呂山道、同郡網走市中及四近、根室[#「根室」に傍点]國野付村|標津《シヘツ》西別間、花咲郡半田牛、釧路[#「釧路」に傍点]國釧路郡釧路、同郡釧路白糠間、セチリ河筋ピラカプト、同フシコタン、釧路郡トウロ、同國川上郡トウベツ川口、十勝[#「十勝」に傍点]國白糠郡尺別村、十勝河河口、同國當勝郡勇洞村、洞村、同郡トンケシ、同國廣尾郡茂寄村、日高[#「日高」に傍点]國幌泉郡油駒村、同國靜内郡有良村マブタ山、同國沙流郡上ピラトリ、膽振[#「膽振」に傍点]國勇拂郡鵡川川筋カイカウン、同國白老郡苫小牧村、同國千歳郡|漁《イサリ》村、同國室蘭郡室蘭。以上所に由りては數十或は數百、群を成して存在するもの故、竪穴の總數は甚だ多きものと知るべし。是等悉皆同性質のものなりや否や斷言《だんげん》し難《がた》しと雖も、石器時代に屬するもの夥多《かた》なるべきは疑ひを容れず。([#ここから割り注]余が知れるものにして石川氏の表に漏れたる地名は日高國靜内郡|下下方《シモゲハウ》、釧路國仙鳳阯及び厚岸邊[#ここで割り注終わり])余は緒言(本誌第九十號に在り)に於て、コロボックルなる名稱《めいせう》は、アイヌが其先住者に與へたる綽名《あだな》の一にして、此他にも種々の異名有りとの趣を述べしが、此所に其一二を説明して住居考《ぢうきよかう》の材料《ざいれう》とせん。或る地方のアイヌはコロボックルの事をバトイチセコッコロカモイと云ひ或る地方のアイヌは之をトイチセクルと云ふ。前者は「土の家を持つ神」の義、後者は「土の家の人」の義、共に土中に住居する者の謂ひなり。アイヌは竪穴を指して先住者の遺跡《ゐせき》とし、又此の如き名稱を彼等に與ふ。北海道に於けるコロボックルの住居の竪穴たりし事は確信《かくしん》して可なり。
日本本州に於けるコロボックルの住居《ぢうきよ》は如何。口碑《こうひ》遺跡《ゐせき》共に存せず、固より明言《めいげん》するの限にあらざれど、常陸風土記所載《ひたちふうどきしよさい》の一項は稍|推考《すいこう》の手掛《てが》かりとするを得ん。同書那珂郡の條下に曰く「平津驛家、西一二里有岡、名曰大櫛、上古有人、體極長大、身居丘壟之上、採蜃食之、其所食具、積聚成岡、時人取大※[#「木+(夸−大)」、第3水準1−85−49]之義、今曰大櫛岡、其大人踐跡、長卅餘歩、廣廿餘歩、尿穴跡可廿餘許、」
大櫛今又大串と改稱《かいせう》して東茨城郡に屬せり。地勢《ちせい》に由つて考ふるも「其所食具、積聚成岡」と云ふ文に由つて考ふるも、此地に貝塚有りしは事疑ふべき理由《りゆう》無し。八木奬三郎氏の實見談《じつけんだん》に據れば此岡の麓には今尚ほ貝殼《かひがら》點々散布《てん/\さんぷ》して、曾て一大貝塚有りし證跡《せうせき》を留むと云ふ。此地海岸を距《さ》る事凡一里。風土記の成りし頃は海水《かいすい》の入《い》り込《こ》み方今日よりは深かりしなるべきも、岡の下迄は達せざりしならん。鹹水《かんすい》貝塚は元來《ぐわんらい》海邊《かいへん》に在るべきものなれど年月の經《た》つに從ひ土地隆起《とちりうき》の爲、海水退きて其位置|比較的《ひかくてき》内地に移る事有り。此理《このり》を知らざる者は海を距《さ》る事遠き所に於て鹹水貝殼の積聚《せきしう》するを見れば頗る奇異《きゐ》の思ひを作すべし。大人云々の説有る盖し此に基因《きいん》するならん。果して然らは所謂「大人踐跡」とは何者を指すか。余は之を以て極めて大なる足跡《そくせき》の如きもの即ち竪穴に類したるものとなす。余は釧路貝塚の近傍に於て實に大人の歩《ある》きたる跡とも形容《けいよう》すべき數列の竪穴を見たり。常陸風土記所載の「大人踐跡」なるもの或は同種類の竪穴の群ならんか。「尿穴跡」と云ふものも亦一の竪穴ならん。北海道現存の竪穴中には長徑十間に達するもの無きに非ず、二十歩三十歩等の數|敢《あへ》て怪《あや》しむに足らざるなり。以上の考へにして誤り無くんば、常陸地方に棲息《せいそく》せし石器時代人民も北海道に於ける者と等しく竪穴を以て住居とせし者と思惟《しゐ》すべきなり。
余は全國の石器時代人民が悉皆竪穴に住居せしや否や明言する能はざれど、彼等の住居《ぢうきよ》として余が今日迄に知るを得たるは竪穴に關する事實のみなるが故に、コロボックルの住居は如何なるものかとの問に對しては、少くとも或る地方に於ては竪穴なりしなりと答へんとす。
    ●竪穴
北海道現存の竪穴は、前にも述べし如く、二疊敷より五十疊敷位の大さにて深《ふか》きは人の丈位《たけぐらひ》なるが、周壁の上端は地面よりも高く盛《も》り上《あ》がりて堤《つつみ》の形を成し居るもの故、摺《す》り鉢《ばち》を土中に埋《うづ》めて其縁《そのふち》の部を少し高く地上に露《あらは》し置けば竪穴の雛形《ひながた》と成るなり。土壁の部の深さを六尺位にせしとする者は、先づ地面を四尺計り堀《ほ》り下《さ》げ、堀り出したる土を以て高さ二尺計りの堤を築き廻らせしならん。堤の一部分には切り開きたる所有り。出入口なるべし。竪穴の形は方形、長方形、圓形、橢圓形、瓢形等にて一つの穴の大さは八疊より十五疊迄を常とす。竪穴の中よりは古器物《こきぶつ》の他に、灰及び燒け木の出づる事有り。是等の中には煮焚《にた》きの爲、温暖《おんだん》を取らん爲、又は屋内《おくない》を照さん爲、故意に焚き火せし跡も有るべけれど、火災《くわさい》の爲屋根の燃《も》え落《お》ちたる跡も有らん。屋根の事は次項に記すべし。
竪穴は風雨の作用|塵埃《ぢんあい》の堆積《たいせき》の爲、自然に埋まる事も有るべく、開墾《かいこん》及び諸種の土木工事の爲、人爲を以て埋《うづ》むる事も有るべきものなり。石器時代竪穴現存の例、北海道のみに多くして、他地方に於ては更に見聞《けんもん》無《な》きも、必竟《ひつけう》、北海道の地は比較的近き頃迄石器時代人民の棲息地《せいそくち》なりしと、開拓《かいたく》未だ行き渡り居らさるとに由る事大ならん。
    ●屋根
或る地方のアイヌは北海道先住者は住居の屋根《やね》を葺《ふ》くに蕗《ふき》の葉《は》を以てせりと言ひ傳ふ。是コロボックルの名有る所以なり、(第九十號緒言を見よ)。或る地方にてはクッロポックグルの名行はる。クッヲロとは蔦蔓《つたづる》の類を指すと云ふ。此名を直譯すれば蔦蔓の下の人となる。恐くは屋根を造る材料として多くの蔦蔓を用ゐたるを云ふならん。思ふに竪穴の中央に數本の柱を建て是に棟梁を結び付け、周圍《しうゐ》より多くの木材《もくざい》を寄せ掛け、其上を種々のもの、殊に蕗《ふき》の葉《は》にて覆ひ、蔦蔓《つたづる》の類にて綴《つづ》り合はせて住居を作り上けたるならん。葉の大なる蕗は北方にのみ生ずるもの故右の説明《せつめい》は固より全國に通ずべきに非ず。他地方に在つては主として獸皮、木皮、席類等を以て屋根を葺きしならん。
    ●住居の工事
野蠻未開《やばんみかい》の社會に於ては分業盛に行はれず、大工、土方の如き固り獨立《どくりつ》して存す可き職業《しよくぎやう》にあらず。此故に住居新築《じうきよしんちく》の擧有れば隣人《りんじん》相《あひ》補《たす》けて土木の事に從《したか》ふを常とす。コロボックルも亦然りしならん。住居《ぢうきよ》の位置《いち》は、第一に飮用水《いんようすい》を汲《く》むべき泉、川、或は湖より程遠《ほどとほ》からぬ所にして、次に食物《しよくもつ》の獲易《えやす》き塲所、次に日當り好《よ》き地を撰《ゑら》びしなるべし。三つの條件《じ
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