るようになるでしょうし、あの男だって、まさかそういつまでも……
男4 ま、私もそう思っていればこそ、別に事も荒らだてないで、こうして黙っているんですがね。
男5 その方が勝ですよ。負けるは勝ちですよ。(右へ退場)
学生1 (本を手に、暗誦《あんしょう》しながら、右より登場)
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如[#(クンバ)][#レ]此[#(ノ)]則[#(チ)]捨[#(テテ)][#二]衆人[#(ヲ)][#一]而従[#(ハン)][#二]君子[#(ニ)][#一]
君子[#(ハ)]博学[#(ニシテ)]而多[#(シ)][#レ]聞矣。
然[#(レドモ)]其[#(ノ)]伝不[#(ル)][#レ]能[#(ハ)][#レ]無[#(キ)][#レ]失[#(フコト)]也。君子之説[#(ハ)]………
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あゝあ。せっかくの葵祭だってのに、こんな碌《ろく》でもない試験勉強なんて馬鹿馬鹿しいにも程があらあ。……
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学生2 欧陽修《おうようしゅう》なんて出やしないよ。
学生1 五月蠅《うるさ》いな。……君は君で勝手にやまを掛ければいいじゃないか。
学生2 (見栄をきる)『春秋論』なんて、第一、あんなのやさし過ぎら。
学生1 あれ? じゃ、どこが出るって云うんだい?
学生2 柳宗元《りゅうそうげん》さ。
学生1 え?
学生2 柳宗元の『封建論』さ。これが絶対やまだよ。
学生1 おい。そんなのあったかい? どれだ、どれだ。
学生2 (自分の本をめくってみせる)これさ。……(読む)
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天地果[#(シテ)]無[#(キ)][#レ]初乎吾不[#(ル)][#二]得[#(テ)]而知[#(ラ)][#一レ]之[#(ヲ)]也
生人果[#(シテ)]有[#(ル)][#レ]初乎吾不[#(ル)][#二]得[#(テ)]而知[#(ラ)][#一レ]之[#(ヲ)]也
然[#(ラバ)]則[#(チ)]敦[#(レカ)]為[#(ス)][#レ]近[#(シト)]曰[#(ク)]有[#(ルヲ)][#レ]初為[#(ス)][#レ]近[#(シト)]……………
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学生1 むずかしそうだな、こりゃ。
学生2 むずかしいね。……やって行かなかったら、まず、零点《れいてん》だな。
学生1 (当惑して、自分の本をぺらぺらめくる)弱ったな。……柳宗元はちっともやってないんだ。
学生2 (慰《なぐさ》めるように)第一、橘《たちばな》先生がいけないんだよ。……いくらなんでも葵祭の翌日に試験をするなんて、あんまり非常識すぎるよ。
学生1 (絶望的にぺたんと本を閉じ、左へ歩きながら)あゝあ。せっかく、楽しみにしてたのに。……今年の葵祭はおじゃんだ。……家へ帰って、また暗誦だ、暗誦だ。……お社《やしろ》のお神楽《かぐら》も諦《あきら》めた。
学生2 僕あ行くよ。……(左へ退場)
女4 (右より)そういうお噂《うわさ》なんですって。
女5 まあ、……大納言様が?
女4 もっぱらよ。
女5 でも、まあ、奥の方のお可愛想なこと!
女4 それに、今度の御相手は、なんでも、竹籠《たけかご》作りのお爺さんとかの娘で、それもまだ十七、八のとんだ賤《いや》しい田舎娘《いなかむすめ》なんですって!
女5 まあ、呆れ果てた!……ね、どなたからお聞きになったの?
女4 ……さる御方からね。
女5 ねえ、どなたなのよ。
女4 さるやんごとない御方。……ふふ。……それは秘密。
女5 まあ、憎らしい。(左へ退場)
男6 (左より。ひどく教訓的に)一番大切なのは心です。心ばせです。「心こそ心をはかる心なれ心の仇《あだ》は心なりけり」です。分りますか?
青年 (気弱そうである)はあ。……
男6 その次に大切なのは「ざえ」です。「ざえ」かしこく世にすぐれていなければ、問題になりません。「なお才《ざえ》をもととしてこそ、大和魂《やまとだましい》の世に用いらるるかたも強う侍《はべ》らめ」です。分りますか?
青年 はあ………(右へ退場)
男7 (左より。恐々《こわごわ》探りを入れるように)で、あなたの方へは何とか御返事があったのでしょうか?……いや、実を云えば、私も以前に一度歌を送って、ちょっとほのめかしてみたことがあるにはあるんですが、……何だか妙《みょう》な工合《ぐあい》になってしまいましてねえ。……そんなわけで私の方は何と云うこともなくそれっきりになってしまったようなわけなんです。
男8 (白っぱくれて)さあ、返事が来たかどうでしたかな? 何しろ、別にそう気にもかけていないものですから。
男7 あの三鈴と云う女《ひと》はあのようになかなか美しい女ではあるのですが、あれでどうしてどうして、決して風になびかぬ木の下草だと云うもっぱらの噂なのですよ。
男8 (心の動揺を抑え、半ば独白)そう云う女《ひと》なのですか?……ああ、そうだったのですか……(右へ退場)
女6 (右より。気味が悪いと云うふうに)また二三日前に「ふそう雲」が西の空にあらわれたのですって。……せっかくのお祭だと云うのに。本当に嫌なことを聞かされますわ。
女7 ああ、いや。それでも、中務省《なかつかさしょう》の陰陽寮《おんようりょう》から出たお話だとすれば、きっとまた何か悪いことが起るに違いないわ。物忌《ものいみ》を怠《おこた》れば、皐月《さつき》と云う月にはきまってわざわいが現れるのですもの。全く、うかうかとお祭騒ぎもしていられませんわ。
女8 あれも確か去年の葵祭の時だったんじゃございません? ほら、あの大原野の社《やしろ》の斎女《いつきめ》になられるはずの、何とか云われたお年若な娘御が、昼の日中に突然、神隠しに遭《あ》ったじゃありませんか?
女7 そう、そう。私もよく覚えていますわ。
女8 今年も、この分だと、またどなたか今日あたり、神隠しに遭うのではないかしら? おお、こわ。(左へ退場)
女5 (左より)それが、あなた、驚くじゃありませんか。今度の御相手はまだほんの十七、八のとんだ賤《いや》しい田舎娘《いなかむすめ》なんですって!
女9 まああ!
女10[#「10」は縦中横] なんだ、そんなお噂なら、もうとうの昔に知ってるわ。……では、その大納言様の恋路を妨げる若いお方がひとりいらっしゃるってことは御存知?
女9 あら! 恋仇《こいがたき》?……ねえ、教えて。……それは一体、どなた?
女10[#「10」は縦中横] ふふ。……(云わない)
女5 そう勿体《もったい》振《ぶ》らないで、おっしゃい。
女9 ねえ。……おっしゃいよ。
女10[#「10」は縦中横] ……これは秘密よ。どなたにも饒舌《しゃべ》っては駄目よ。(三人、顔を寄せ、右へ退場)
男9 (右より)何かと云っては、物忌《ものいみ》物忌と口先ばかりはやかましく云っているようだが、こう云うものは、元来、いくら口うるさく云ってみたところで、それに心が伴わなければ何にもならない。まあ、我々のつけているこの葵《あおい》の鬘《かずら》や蘰《かずら》にしてもだ、近頃ではまるで形式的になってしまって、みんな、何のことはない、祭りの飾り[#「飾り」に傍点]の一種だ位にしか考えていないようではないか。それでは何にもならない。……元来、この葵と云う花は、必ず太陽の方に向って咲く、云わば陽の花だ。それだからこそして、悪いやまいや怨霊《おんりょう》を払う不思議な力があるのだ。それをみんな弁《わきま》えないで、ただもう、あたり前の習慣だ位の気持でくっつけているから、その弱みにつけ込んで、わざわいがふりかかって来るのだ。だから、やれ、西の空に「ふそう雲」が現れたと云ってはうろたえ、「ほこ星」が光り始めたと云っては、恐ろしがる。それでは、この当世に生きる者として、誠に不甲斐《ふがい》のない話ではないか。云わば我々|陰陽《おんよう》の道にたずさわる者は、そう云う迷《まど》える魂を、現《おつつ》の正道に引戻してやろうと云うわけなのだ。
男10[#「10」は縦中横] (突然、立止って耳を澄まし)先生!……あの声は、あれは一体何でございましょう?
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右手奥の方から、多勢の行者達の魂《たま》ごいの行《ぎょう》の呼ばい声が不気味に聞えて来る。
たくさんの鈴の音が、ちゃりんちゃりんとそれに調子を合わせて、何やら幻妙な響きを遠くから伝えて来る。だんだん明瞭《めいりょう》に聞えて来る。
吐菩加美《とほかみ》 ほッ 依身多女《えみため》 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
[#ここで字下げ終わり]
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男9 おう。……あれは魂《たま》ごいの験者《げんじゃ》どもが、どこぞの山へ、山籠《やまごも》りの行に出掛けて行くのだ。誰やら神隠しにでも遭《お》うた人々のあくがれ迷う魂を尋ねて、山へ呼ばいに行くところなのだ。
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左手から右手へ、都の子童《こわくらべ》が二三人「験者だ! 験者だ! 山籠りの験者がたくさん行くぞ!」などと呼びながら、駆けって行く。左手から右手へ急ぎ足で見物に行く人達がだんだん多くなる。
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男10[#「10」は縦中横] ああ、そう云えば、大原野の巫女《みこ》になるはずだったと云う娘が、去年の賀茂《かも》の祭の日に突然神隠しに遭ってからと云うものは、あっちにひとり、こっちにひとりと都の童児《わくらべ》どもが、五人も六人も行方《ゆくえ》わからずになって、それっきり一向帰って来ないと云うことを聞いています。あれは大方、それの神よばいなのでしょう。
男9 うむ。……今年も、物忌を怠って、誰ぞまた神隠しにかからなければよいがな。現に西の空の雲気は確かにわざわいのきざしをあらわしているのだ。
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人々ががやがやと集って来て、そこら辺に立ち呆《ほう》けて、右手奥の方を眺めている。験者達の呼ばい声、鈴の音は、次第次第に熱ばんで来る調子。
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
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男10[#「10」は縦中横] あの大原野の巫女の嬢子《じょうし》については、誰もつまびらかに顔さえ見たことが無いと云うのに、まあ、縁起のよくない噂話が色々とつきまとっていましたようで、何でも、その家は宇佐《うさ》の神人《じんにん》の亡び残りだったそうでございます。その嬢子の親御で何とか云う老人がまだ生きていた時分は、もう人の顔さえ見れば、愚にもつかぬ夢物語を真《まこと》しやかにふりまいていたと云うので、世間からはまるで物狂《ものぐる》い扱いにされておりました。その人の物語を終《しま》いまで聞いたものは立ちどころに神隠しにかかってしまうなどと云う噂もあって、都の人達は顔さえ見るのも恐しがっていたようでした。
男3 (男10[#「10」は縦中横]の話につり込まれて、質問する)あの、神隠しの子供達は、その後どこぞで見付かりましたのですか?
男10[#「10」は縦中横] いいえ。あのまま、一向行方わからずなんだそうです。
女1 恐しいことでございますわね、今日も、また何か縁起の悪い啓示《しるし》が空にあらわれたと云っていますから、充分に気を付けないと、いつどんなことが起るかも分りませんわ。
女3 本当にねえ、せっかくの賀茂《かも》の祭だと云うのに、お社《やしろ》にも詣《もう》でないうちから、まあまあ、気味の悪い声を聞くこと。
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吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
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女2 何だかあの声はだんだんとこの世のものとも思われぬ調子になって行くではありませんか。……あの調子ではきっともうす
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