なよたけ
加藤道夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)楯《たて》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今後|是非《ぜひ》とも

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(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]

 [#…]:返り点
 (例)過[#(ギシ)][#二]近江[#(ノ)]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)独[#(リ)]坐[#(ス)]
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『竹取物語』はこうして生れた。
世の中のどんなに偉い学者達が、どんなに精密な考証を楯《たて》にこの説を一笑に付そうとしても、作者はただもう執拗《しつよう》に主張し続けるだけなのです。
「いえ、竹取物語はこうして生れたのです。そしてその作者は石《いそ》ノ上《かみ》ノ文麻呂《ふみまろ》と云《い》う人です。……」
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 人物
石《いそ》ノ上《かみ》ノ綾麻呂《あやまろ》
石ノ上ノ文麻呂《ふみまろ》
瓜生《うりゅう》ノ衛門《えもん》
清原《きよはら》ノ秀臣《ひでおみ》
小野《おの》ノ連《むらじ》
大伴《おおとも》ノ御行《みゆき》
讃岐《さぬき》ノ造麻呂《みやつこまろ》(竹取《たけとり》ノ翁《おきな》)
なよたけ
雨彦
こがねまる
蝗麻呂《いなごまろ》
けらお
胡蝶《こちょう》
みのり
衛門の妻(声のみ)
陰陽師《おんようじ》
侍臣《じしん》
その他平安人の老若男女大勢

合唱隊
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(舞台裏にて、低い吟詠《ぎんえい》調にて『合唱』を詠《うた》う。人数は少くとも三十人以上であること)
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 時
今は昔、例えば平安朝の中葉


  第一幕

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例えば平安京の東南部。小高い丘《おか》の上。丘の向う側には広大な竹林が遠々と連なっているらしい。前面は緩《ゆる》い傾斜《けいしゃ》になっている。
ある春の夕暮近く――
舞台溶明すると、中央丘の上に、旅姿の石ノ上ノ綾麻呂と、その息子文麻呂。
遠く、近く、寺々の鐘が鳴り始める。
夕暮の色がこよなく美しい。
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綾麻呂 さあ、文麻呂。時間だ。
文麻呂 なぜです、お父さん。まだです。
綾麻呂 ――聞いてごらん。(鐘の音)……あれは寺々が夕方の勤行《ごんぎょう》の始まりをしらせる鐘の音だ。御覧《ごらん》。太陽が西に傾いた。黄昏《たそがれ》が平安の都大路《みやこおおじ》に立籠《たちこ》め始めた。都を落ちて行くものに、これほど都合《つごう》のよい時刻はあるまい。このひととき、家々からは夕餉《ゆうげ》の煙が立上り、人々は都大路から姿をひそめる。その名もまさに平安の、静けき沈黙《ちんもく》が街々の上を蔽《おお》うている……
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沈黙。あちこちから静かに鐘の音。
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人目をはばかる落人《おちうど》にとっては、これこそまたとない機会だ。うっかりしていると、すぐ夜の帳《とばり》が落ちかかるからな。暗くならない内に、私は国境いを越して、出来ることなら、今夜のうちに滋賀《しが》の国のあの湖辺《みずうみべ》の町までは何とかして辿《たど》りついてやろうと思っている。おや! あそこの善仁寺ではもう勤行を始めたらしい。……文麻呂、やっぱり時間だよ。
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文麻呂 大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、お父さん。まだ大丈夫です。第一、この頃の坊主《ぼうず》達のやることなんて何が当てになるもんですか? 勤行の時間なんて出鱈目《でたらめ》ですよ、お父さん。どこか一ヶ所でいい加減にやり出すと、あっちの寺でもこっちの寺でもみんな思い出したように、ただ無定見《むていけん》に真似《まね》をして鐘を鳴らし始めるだけです。正確の観念なんかこれっぽっちだって持合わせてはいないんですからね。お父さんとの大切な別離の時間が坊主の鐘の音で決められるなんて、そんなことって……僕ぁ、……僕ぁ悲しいな。(鐘の音)……でも、もうそんな時間なのかしら、一体? (間)ねえ、お父さん。もう少しぐらいいいじゃありませんか? これっきり、もう何年も逢えないんだと思うと、やはり僕は名残《なご》り惜しくてしかたがありません。もう少しお話しましょうよ。ねえ、お父さん、もう少し居て下さい。せめて鴉《からす》が鳴くまでならいいでしょう? 鴉なら本当に正確な時間を伝えてくれます。あれは自然そのものですから、全く偽《いつわ》りと云うものを知りません。僕は自然と云うものだけには信頼を置くんです。ねえ、あの切株《きりかぶ》に腰《こし》を下して、もう少し色々なことを饒舌《しゃべ》り合いましょうよ。鴉が鳴くまでです。出発はそれからでも充分間に合いますよ。本当に保証します。……さあ、お父さん、お願いです。鴉が鳴くまで、せめて鴉が鳴くまでです。
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塒《ねぐら》へ帰る鴉が二三羽、大声で鳴きながら二人の頭上を飛んで行く。長い沈黙。
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文麻呂 (低い声)やっぱり、お別れですね。
綾麻呂 (しんみりと)ま、いずれは別れねばならない運命だったのさ。
文麻呂 任地にお着きになっても、身体だけは充分に気を付けて、御病気にならないように注意して下さい。
綾麻呂 む。
文麻呂 お父さんはお酒を召し上らない代りに、甘いものとなると眼がないから、ちょっと油断をして食べ過ぎをなさるとすぐお腹《なか》をこわします。
綾麻呂 有難《ありがと》う。充分に気をつける。お前も充分健康に留意して、無理をしない程度に、「文章《もんじょう》の道」を一生懸命に研鑚《けんさん》するんですよ。一日も早く偉くなって、お父さんを安心させておくれ。お前はお役所に勤めるのはどうも以前からあまり気がすすまなかったらしいが、いや、それならそれでもいい。お父さんは決して反対はしない。まあ、立派な学者になって、「文章博士《もんじょうはかせ》」の肩書でも貰《もら》ってくれれば、お父さんはそれだけでも大手を振って自慢が出来るからな。そうなれば、お父さんの受けた恥《はじ》も立派に雪《そそ》ぐことが出来るというものだ……しかしね、文麻呂。お前はどうも、この頃清原の息子《むすこ》や小野の息子達と一緒《いっしょ》になって、やれ「和歌」を作ってみたり、「恋物語」を書いてみたりしているらしいけれど、あれだけはお父さんどうしても気に掛ってしかたがないな。第一、外聞《がいぶん》が悪いよ。ああ云うものは当世の情事好《いろごとごの》みのすることで武人の血を引く石ノ上ノ綾麻呂の息子ともあろうものが、あんなものにかぶれるなどと云うことは大体、体裁《ていさい》がよくないからな。ことに学問の道に励《はげ》むものにはああ云うものは何の益もない代物《しろもの》だ。「芸術」と云うものか何と云うものか儂《わし》にはよく分らんが、お父さんに云わせればあんなものは不潔だ。ああ云う「遊びごと」だけは今後|是非《ぜひ》とも止めて欲しいもんだな。
文麻呂 (烈《はげ》しく)遊びごとではありません!
綾麻呂 (びっくりする)
文麻呂 (涙さえ含んで)お父さん、少くとも僕にとっちゃあれは決して「遊びごと」ではないつもりです。僕達の「詩《うた》」があんな巷《ちまた》で流行しているような下らない「恋歌」のやりとりと一緒くたにされては、僕は……情無くなって、涙が出て来ます。お父さん。僕はきっと立派な学者になってみせますよ。お望みなら「文章博士」にだってなります。ただ、詩《うた》だけは作らせて下さい。「文章博士」が経書の文句の暗誦《あんしょう》をするだけなら、あんなもの誰《だれ》だってなれます。だけど、そんな知識を振翳《ふりかざ》したって何になるでしょう。そんな学問はただの装飾です。いくら紅《くれない》の綾《あや》の単襲《ひとえがさね》をきらびやかに着込んだって、魂《たましい》の無い人間は空蝉《うつせみ》の抜殻《ぬけがら》です。僕達はこの時代の軟弱な風潮に反抗するんです。そして雄渾《ゆうこん》な本当の日本の「こころ」を取戻《とりもど》そうと思うんです。僕達があんな下らない「恋歌」や「恋愛心理」にうつつをぬかしているとお思いになるんでしたら、それこそそれは大変な誤解です。今、僕達の心を一番|捉《とら》えているのは、例えばそれはお父さん、……これなのです。(懐《ふところ》から一冊の本を取り出す)
綾麻呂 よろずはのあつめ……
文麻呂 万葉集って読むんです。
綾麻呂 奈良朝のものだな?
文麻呂 お父さん。これこそ僕達の求めてやまぬ心の歌なのです。
綾麻呂 巧《うま》い歌があるのかな? (黙って頁を繰《く》っている)
文麻呂 読んでごらんなさい。どこでもいいから、お父さん、ひとつ読んでごらんなさい。
綾麻呂 (何気なく開いたところを読み始める。夕日が赤々と輝き始める)玉だすき 畝火《うねび》の山の 橿原《かしはら》の 日知《ひじ》りの御代《みよ》ゆ あれましし 神のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天《あめ》の下 知ろしめししを そらみつ やまとをおきて 青によし 平山《ならやま》越えて いかさまに 思ほしけめか 天《あま》さかる 夷《ひな》にはあれど 石走《いわばし》る 淡海《おうみ》の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ すめろぎの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここといえども 霞《かすみ》立つ 春日《はるひ》かきれる 夏草香《なつくさか》 繁《しげ》くなりぬる ももしきの大宮処《おおみやどころ》 見ればかなしも。
文麻呂 (厳《おごそ》かに)柿本《かきのもと》ノ朝臣人麻呂《あそんひとまろ》。過[#(ギシ)][#二]近江[#(ノ)]荒都[#(ヲ)][#一]時作[#(レル)]歌。…………
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間――
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綾麻呂 む。………
文麻呂 お父さん。そりゃ、僕だって三史や五経の教訓の立派なことくらいようく分っています。「李太白《りたいはく》」だって僕には涙の出るほど有難い書物です。だけど、あの教義をただ断片的に暗誦《あんしょう》して博識ぶったり、あの唐風《からふう》の詩から小手先の技巧を模倣《もほう》してみたりしたところで何になるでしょう? 要するに僕は、………自覚がなければ問題にならないと思うのです。
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間――
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綾麻呂 文麻呂。………お父さんはあるいは誤解しておったかもしれん。この本は、残念ながらまだお父さん読んだことがないからよく分らんけれど、お前のやろうとしてることはどうやら間違ってはおらぬようだ。いや、そう云う心構えさえあるのならば、歌は遠慮なく作りなさい。けれども、真の儒教精神もこれまた大切なものだから、経書の勉強も決して怠《おこた》ってはいけません。いかにそれを日本的に生かすかがお前達の仕事なのだからな。………うむ、それはそうかもしれん。奈良朝時代の人達は、少くとも私達よりはもっとずっと純粋で、日本の心を知っておったかもしれんよ。いや、お前のやり方については、もうつべこべ云わぬ方がよさそうだ。自分の正しいと思ったことは、躊躇《ちゅうちょ》せずに思い切って最後までやり通すようにしなさい。
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突然、夕闇が迫《せま》り、舞台薄暗くなる。
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おや! 急に日が暮れてしまった! うっかりしていたら、夕日が朝日ヶ峰にかくれてしまった! こりゃ、ぐずぐずしてはおられない。少し長話しをし過ぎてしまったようだ。さ! 文麻呂! いよいよお父さんは行くぞ!
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