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文麻呂 (厳然たる姿勢をとる)御機嫌《ごきげん》よろしく、お父さん!
綾麻呂 臣、石ノ上ノ綾麻呂、今、無実無根の讒言《ざんげん》を蒙《こうむ》って、平安の都を退下《たいげ》し、国司となって東国に左遷《させん》されんとす。………文麻呂いいか? もう一度、返答だ!
文麻呂 はいッ!
綾麻呂 勲《いさお》高き武人《もののふ》の家系、臣、石ノ上ノ綾麻呂から五位の位を奪いとった我等が仇敵《きゅうてき》は?
文麻呂 (凜《りん》たる声)大納言《だいなごん》、大伴《おおとも》ノ宿禰御行《すくねみゆき》!
綾麻呂 巧みなる贈賄《ぞうわい》行為で人々を手馴《てな》ずけ、無実の中傷で蔵人所《くろうどどころ》の官を奪い、あまつさえその復讐《ふくしゅう》をおそれて、臣、石ノ上を東国の果《はて》に追いやった我等が仇敵は?
文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!
綾麻呂 あるいはまた、その一人息子、文麻呂の出世を妨げんとて、大学寮内よりこれを追放し、より条件の悪い別曹《べっそう》、修学院などへと転校せしとめたる我等が仇敵は?
文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!
綾麻呂 よし!……くれぐれも我々の受けたあの侮辱《ぶじょく》だけは忘れないようにしなさいよ。不潔な血を流すことはたやすいことだが、我々はそんな他愛もない復讐はいさぎよしとしないのだ。お前は平安の都に残って、孜々《しし》として勉学にはげみ、立派な学者となる。私は東国の任地に赴《おもむ》き、武を練り、人格を磨いて、立派な武人となる。そうして、いつの日にか二人がまたこの地で相まみえる時があるとすれば、その時こそ、大伴ノ御行は必ずや地下人《じげびと》かさもなければ、それ以下の庶民《しもびと》にまで失墜《しっつい》するであろう。………(中央を向き、感慨深く)ああ、平安の都もどうやらこれでしばらくは見納めなのだな。………さて、いつまでぐずぐずしていてもきりがない。では、文麻呂、儂《わし》は出掛ける!
文麻呂 じゃ、お父さん! お気をつけて!
綾麻呂 お母さんのお墓参りだけは決して欠かさないようにしなさいよ! じゃ、元気で勉強しなさい! それから、瓜生《うりゅう》ノ衛門《えもん》だが、あれはもうだいぶ年をとってしまったから、あまり役には立たんだろうが、ま、よく面倒をみておやりなさい。あれだけはいつも変らぬ我々の忠実な従僕《しもべ》だ。ああ、忘れていた。これ。万葉集………
文麻呂 いえ、それはお父さんに差上げます。僕はもう一冊持っていますから。東国の任地などでしみじみとお読みになるにはこれほどよい書物はありません。
綾麻呂 そうか。それでは記念にひとつ貰《もら》っておこう。これはなかなかよさそうな本だから、お父さんもじっくり読んでみることにしよう。それから東国へ下る人があったら、必ず手紙をくれるんですよ。ああ、だいぶ遅くなってしまった。山科《やましな》の里では供奉《ぐぶ》の者達がさぞや待ちかねていることだろう。では、文麻呂。さらばじゃ!
文麻呂 さようなら! お父さん!
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石ノ上ノ綾麻呂、左方へ下りて行く。退場。
文麻呂。独り中央丘の上に残る。
あたりには夕闇が立ち籠《こ》めている。………
文麻呂は傍の木の切株に腰を下ろして、冥想《めいそう》に耽《ふけ》り始める。………
遠近《おちこち》の広大な竹林の竹の葉のざわめく音が無気味に響き渡りはじめる。………
文麻呂ぎょっとして後をふりみる。
風。………そして、時折、山鴿《やまばと》の物淋《ものさび》しげな鳴声がし始める。
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文麻呂 (独白)風か!………
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文麻呂は何やら急に耐え難い孤独感に襲われるのであった。懐《ふところ》より横笛を取り出して、親しい「曲」を奏し始める。澄んだ笛の妙音、風に伝わって、余韻嫋々《よいんじょうじょう》………舞台、しばらくは横笛を奏する文麻呂。
文麻呂、突然、何か不思議な予感に襲われたもののように唇《くちびる》からふと横笛を離す。耳を澄ます。――どこからともなく、こだまのように同じ曲が響いて、………消える。
文麻呂、不思議な笛の反響を解《げ》せぬ態度で、もうひとしきり吹いて、再び突然、唇から笛を離してみる。耳を澄ます。
――やはり、どこからともなく、同じ曲が響いて、………消える。文麻呂、もう一度今度は思い切り強く吹いてみる。――やはり、どこからともなく同じ音が反響する………
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文麻呂 (不気味な気持に襲われて、すっく[#「すっく」に傍点]と立上り)誰《だれ》だ!………
声 誰だ!………
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清原ノ秀臣《ひでおみ》、同じように横笛を片手に、丘の向側からつと[#「つと」に傍点]文麻呂の背後に現れた。
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清原 石ノ上ノ文麻呂ではないか?
文麻呂 (びくんとして振向き)なんだ、清原。………君だったのか?
清原 大学寮学生、清原ノ秀臣。………僕だ。
文麻呂 一ヶ月前だったらこの僕も同じ「名乗り」を堂々と名乗り返せたのになあ。……残念ながら、今では、別曹《べっそう》、修学院学生、石ノ上ノ文麻呂……か。
清原 おい、石ノ上。そのことだけはいつまでもそうくよくよ気に掛けるのは止めてもらおうじゃないか。学校がどうのこうのと云ったって、正しい文《ふみ》の道はただ一つさ。小野ノ連《むらじ》にしろ、この僕にしろ、君とは一生を誓い合った同志じゃないか。その繰言《くりごと》だけはもういい加減に止めたまえ。………ところで石ノ上。お父様は? もう発《た》たれたの?
文麻呂 ああ、いまさっき。………ここで別れたところなんだ。何だか、今夜中に三井寺《みいでら》を過ぎて、滋賀《しが》の里までは是《ぜ》が非《ひ》でも辿《たど》り着くんだなんて、とても張り切ってたよ。
清原 そりゃ大変だな。殊《こと》に夜道になると逢坂山《おうさかやま》を越えるのは一苦労だぜ。……でも、何だってよりによって夕方なぞにお発ちになろうなんてお考えになったのかな。
文麻呂 人目を忍ぶ旅衣《たびごろも》と云う奴さ。でも、親父《おやじ》、あれで内心東国にはとても抱負があるらしいんだ。まあ、別れる時は割合に二人共さっぱりしてて、気が楽だったよ。山科《やましな》の里まで行けば、供奉《ぐぶ》の者がたくさん待っているそうだから……
清原 そうか。それなら安心だ。……いや、実は、妙《みょう》な所で君に逢ったんで、びっくりしちゃってね。
文麻呂 僕もびっくりした。こんな処《ところ》にまさか君が来ようとは思わなかったからな。僕は君をこだまと間違えてしまった。………
清原 え?
文麻呂 こだまさ。例えば、そら、向うの竹山から春風に乗って反響して来るこだまと間違えたのだよ。竹の精と間違えてしまったのさ。
清原 竹の精?
文麻呂 うん。ま、竹の精とでも云うんだろうな。何だか、そんなものがこの辺なら現れそうな気持がしたんだ。この丘へ登ってみたのは、実は僕は今日が初めてなんだがね。とにかく、すっかり気に入ってしまったよ。……平安京もこの通り一目で見渡せるし、それに、どうだい、こっち側の、この夕風にざわめいている素晴らしい竹林の遠々たる連なりは! 僕はさっき、親父と話しながらここまで登って来た時には、何だかまるで、突然夢の国に来たんじゃないかと眼を疑ってしまった。平安の都で世迷《よま》い事《ごと》に身をやつしている連中の中で、この丘のこっち側の世界の素晴しさに気の付いてる奴は、一体何人いるだろうかね? それにほら、見たまえ。すぐあすこにまであんなに深い竹林が続いて来てるなんて、実際、今まで僕は夢にも想像していなかった。全く、この丘から向うは別世界だ! あの堕落した平安人の巷《ちまた》からものの半道も離れていないこの丘の上には、まだ汚《けが》れない自然が、美しいそのままの姿で脈打っているような気がする。そんな気がするんだ。……清原。聞いてごらん。……山鴿《やまばと》だ。
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竹林の方から山鴿の鳴声、ひとしきり。二人共、しばらく沈黙。
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清原 (静かに)石ノ上、……君は今竹の精って云ったね? 君は竹の精の存在を信じるか?
文麻呂 どうしてだい、そりゃまた?
清原 (真剣な顔)石ノ上、僕は、……僕はその竹の精を見たのだ!
文麻呂 見た?
清原 見た。この眼ではっきりと見てしまったのだ。自然そのままの汚《けが》れのない清純な女性の形象《かたち》をとってこの現世《おつつよ》に存在している、いわばそれは若竹の精霊だ。微塵《みじん》の悪徳もなく、美《うる》わしい天然の姿のままで。それはあの竹林の中に生きている。
文麻呂 (じっ[#「じっ」に傍点]と友の顔を凝視《みつ》め、ややあって)「恋」だな? 清原………
清原 人の世の言挙《ことあげ》がそう名付けるならば、それもよかろう。……石ノ上、僕は白状する。……僕は、……僕はその恋を知りはじめたのだ。
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間――
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文麻呂 (そっと友の肩《かた》に手を掛けて)よかろう、清原。僕は決して咎《とが》め立てはしないぜ。いやむしろ君のその碧空《あおぞら》のごとく清浄無垢《せいじょうむく》なる心を捉《とら》えた女性の顔が一目|拝《おが》みたい位だよ。………恋とは夢だ。……「夢」とは全《まった》き放心だ。その正しい極限では一切が虚無となる。一切が存在しなくなる。それは未来|永劫《えいごう》を一瞬に定着する詩人の凝視を形成する場所だ。真実の詩《うた》とはそこに生れるのだ。その虚無の場を不安と観ずるべからず、法悦《ほうえつ》の境と信ずべし、だ。そこに生ずる悲哀よりも歓喜よりも、何よりもそこに存する真実の詩《うた》をこそ尊ぶべきだ、と僕は思う。……清原、恋をしたまえ。一切を捨てて恋に酔《よ》いたまえ。
清原 有難う。
文麻呂 敷島《しきしま》の日本《やまと》の国に人二人ありとし念《も》わば何か嘆かむ、だ。……………知ってるかい、清原。
清原 む。……万葉、巻十三、相聞《そうもん》の反歌だ。
文麻呂 恋とはああ云うものだよ。僕はそう信ずる。恋とはただ一つの魂を烈《はげ》しくもひそかに呼び合うことだ。僕はそう信ずる。あの巷《ちまた》にあれすさんでいる火遊びの嵐はどうだ。あんなものは何が恋だ。あんなものは不潔な野合《やごう》だ。……汚らわしい惰遊《だゆう》だ。
清原 石ノ上、……僕の場合に限って、あんな汚れた気持は微塵もないって云うこと、……君、信じてくれるだろうね?
文麻呂 うん。信じる。信じよう。信じないではいられないのだ。君が本当のものと嘘《うそ》のものとを識別《みわ》ける眼を持っていることだけは、僕は心から信じているんだからな。
清原 (次第に涙を催《もよお》すような感傷的な気持になって行く)………石ノ上、僕は、そのうちに君にもあの女《ひと》に一度逢ってもらおうと思ってる。
文麻呂 何て云うの? 名前は。
清原 ……なよたけ。
文麻呂 え?
清原 なよたけ。(舞台左手奥の竹林の方を指し)あすこの竹林の向うに住んでいる………
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二人共、そっちの方を眺めている。
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文麻呂 田舎娘《いなかむすめ》なのかい?
清原 竹籠《たけかご》作りの娘なんだ。年取った父親と二人暮しの貧しい少女さ。……まだ、まるで少女なんだ。汚れ多い浮世の風には一度だって触れたことのないような。……何て云うのかなあ、こう、まるで、……………
文麻呂 いくつ?
清原 え?
文麻呂 年さ。いくつ?
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間――
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