っかり神懸《かみがか》っているのですよ。
男6 (大層感心した様子で)さよう、……いや、あの気配《けはい》では、本当にもう心から神になり切っておりますな。身も心もすっかり神がのりうつっている頃なのでしょう。あのまま山へ入って行って魂ごいをすると、隠れた人達の魂が、あのように応《こた》えかえすのだそうです。
男8 (気味悪そうに)一体、どこの山へ行くのでしょうね?
男6 さあ、何でも衣笠山《きぬがさやま》あたりへ行って三日間ほど山籠りをするのだと云ってましたが、……
女2 あら。中御門《なかみかど》の方へ曲って行きますわ。皆さん、御一緒に後をつけて行ってみませんこと? (女3を誘う)ねえ、行ってみましょうよ。
女3 行ってみようかしら。
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数人の男女、右手奥へ退場。
験者達の呼ばい声、鈴の音はだんだんと遠のいて行く。……
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男9 (残っている人達に呼びかけるように)本当に、皆さん、お祭り騒ぎに油断をして、物忌《ものいみ》を怠らないように注意しないと、大変な目に遭《あ》いますよ。ことにあなた方お若い御婦人達は……
女5 あら、あたし達は大丈夫ですわ。みんなこうして、一人残らず、ちゃあんと葵の鬘《かずら》と蘰《かずら》をつけておりますもの。(仲間の女に同意を求め)ねえ?
男9 (笑って)いや、冗談です。冗談ですよ。……
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誰も気が付かぬ間に、左端にふと、石ノ上ノ文麻呂が現れた。
揉烏帽子《もみえぼし》を被《かぶ》り、いかにもみすぼらしい下人《しもびと》の装束《しょうぞく》で、立っている。
葵の物忌は、彼だけはつけていない。
遠のいて行く験者達の呼ばい声の方に何やら吸い寄せられるような眼差《まなざし》を向けて、立っている。

吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
…………………
…………………
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[#地付き](次第に遠く)
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灰色の上下幕が静かに下る。――
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     第二場(上下幕の前面にて)

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行者達の魂ごいの呼ばい声・鈴の音は遠く消え去り、取り残されたように神楽《かぐら》の笛の音が微《かす》かにしている。左手より清原《きよはら》ノ秀臣《ひでおみ》と小野《おの》ノ連《むらじ》、話し合いながら登場。中央まで来ると、立止って立話をはじめる。……
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小野 む。……それは僕もそう思った。石ノ上の奴、まるでもう、何と云うか、それこそ物《もの》の怪《け》にでも取《と》っ憑《つ》かれてしまったような有様《ありさま》だ。
清原 それだから、僕は困るんだよ。……ひとりで張切って大納言様の噂《うわさ》をああしてこそこそ都中にふれ廻ってさ、……あれで自分ではうまく行ってるものと思ってるらしいけど、僕あ、僕あ何だか少し恥しくなって来たよ。
小野 恥しい?……おい清原。恥しいと云うのはどう云うわけだい?……情無いことを云うじゃないか?……そりゃ僕はこの計画には局外者だし、親友の誼《よしみ》をもって、蔭ながら君達二人を援助して来ただけだが、……いくらなんでも恥しいとは何だね? それで君、なにかね、石ノ上に対して申訳が立つと思うのかね?
清原 (自棄《じき》的に)僕はもう嫌になっちゃったんだ! もう僕あ、こんな大それた計画からは手を引きたくなったんだ!……ねえ、そうだろうじゃないか、小野。こんなことをしてたら、今に僕達はどんな眼に遭《あ》うと思う?……例えばさ、僕達が石ノ上と一緒になってこんなことをしてるなんてことが大納言様のお怒りに触れて見たまえ。僕達までが石ノ上と同じように大学寮を追っぱらわれてしまうかもしれないんだぜ。……
小野 (じっと清原の顔を凝視《みつ》め)清原。……貴様、恋が醒《さ》めたな?
清原 恋は石ノ上の心にのりうつってしまった。恋の炎《ほむら》は今では石ノ上の心の中に燃えさかっている。僕の恋はしらじらと醒めきってしまった。……小野。僕あ白状する。……僕あなよたけが好きじゃなくなっちゃったんだ!……(顔を伏せる)
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間――
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小野 (妙に調子を変えて)……清原。……君があの烈しい恋の酩酊《めいてい》から醒めたからって、……別に俺が君に対して何を云うことが出来よう?……かしこ過ぎて、ここ現実《おつつ》の園に戻り来《きた》れば、何事もみなはかなき[#「はかなき」に傍点]一炊《いっすい》の夢だ。……俺は実は今まで心の中で君を軽蔑していたが、今度は石ノ上を軽蔑しよう。……俺は恋なぞと云う愚劣《ぐれつ》なものは全く信用しないからな。俺は大体、「夢想家」と云う奴は軽蔑するんだ。……しかし、清原。俺には分らん。……君は親友との盟約《めいやく》を裏切ってまでも、この計画から逃げ出したいって云うのか?
清原 (だんだん上《うわ》ずって来る)だから僕はなよたけをあいつにゆずると云ってるんだ。石ノ上は今ではなよたけに夢中なんだ。……僕には分る。なよたけも僕は嫌いだけど、あいつだけは好きらしいんだ。……それに、第一、今度のことはもともとあいつがひとりで勝手に決めてやり出したことなのさ。大納言様を失脚させようと云うあいつの利己主義がやり始めたことなんだ。……僕あ、あの頃はなよたけが好きだったから、誘われるままにひきずられて一緒にやり出したけれど、……だけど、あいつは今では僕の恋までも横取りしてしまったんだ。あいつは僕には黙って毎日夕方になるとなよたけとこっそり媾曳《あいびき》をしてるんだ。僕にはもう一緒にやる理由がなくなってしまった。……なよたけはあいつのものなんだ!……
小野 (鋭く)清原。……なかなかうまい理窟《りくつ》を云うじゃないか?……そりゃ、君が逃げ出したって、後指《うしろゆび》をさすものは世の中に俺と石ノ上の二人しかいないからな。だけど、俺は断言するぞ。貴様のはそりゃ弱音《よわね》だ。そんな理窟は貴様の弱音に過ぎん。……まあ、考えてもみろ。利己主義なのはむしろ貴様の方だ。自分に都合《つごう》のいい時だけは生死を共にするって云うような顔をして、自分に都合が悪くなって来ると、偉そうな言訳を並べたてて、……このざまだ。清原。そりゃ、俺達はまだ青二才《あおにさい》の学生さ。誰だって、自信なんか持っちゃいない。と云うよりは、むしろこの激しい世間の風当りが息苦しくってしようがないのだ。俺だってそうさ。石ノ上だってそうさ。……だがね。清原。そんな意気地のない弱腰な態度で、俺達は黙って世間の風当りを避けてばかりいていいもんだろうかね?……そりゃ、若い俺達のやることだ。失敗はあるだろう。しかし、失敗なんてものは物の数ではないよ。問題は実行すると云うことだ。俺達は敢然《かんぜん》と実行する資格だけは持ってるんだからな。あらゆる可能性をためしてみる資格だけは持ってるんだからな。そうじゃないかな、清原?
清原 (不貞腐《ふてくさ》れて聞いている)
小野 俺はもちろん、何度も云ったように、この計画には局外者だ。まあ気が楽だと言えば楽だが、とにかく、俺は君の態度だけは、黙って看過《みすご》すわけにはいかないね。……親友の一人として俺は忠告してるんだぞ。そりゃ、俺達のやることが何から何まで絶対的に正しいとは云わんさ。云わんけれどもだな、……問題は自分達で何かを始めるって云うことだ。自信をもって何かを始めるって云うことだ。俺はそれが一番大切なことだと思うんだ。今のそこらの若い学生達みたいに、無気力で、自意識|過剰《かじょう》で、あんな君、逃避的《とうひてき》な態度ばかり採《と》っていたら、力ある文化の芽は新鮮な若葉をも齎《もた》らさず、来るべき新時代の雄渾《ゆうこん》な精神の輝やかしき象徴たり得ずして、ついには遊惰《ゆうだ》の長雨に腐れ果ててしまうのだ。……なあ、そうではないか?……まあ、今度は俺は局外者だから、あまりこんなことは云いたくないが、……とにかく、なんだよ、貴様のは、それは単純なる弱気だ。卑怯《ひきょう》な尻込《しりご》みだ。……俺はそう思う。
清原 ………
小野 ただ、俺は[#「俺は」に傍点]そう思うんだ。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
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清原 (妙にしんみり[#「しんみり」に傍点]となって)……小野。僕は実は、今、自分の無分別な行動を、冷静に反省してみてるんだ。……ねえ、小野。君はこう云う「和歌《うた》」知ってるかい? 「嘆《なげ》きわび 身をば捨つとも 亡《な》き影《かげ》に 浮名《うきな》流さむ ことをこそ思え……」
小野 なんだ、紫式部《むらさきしきぶ》か?
清原 うん。僕あとても同感なんだ。なんだか、この気持、とても清いものに思うんだ。「嘆きわび 身をば捨つとも 亡き影に 浮名流さむ ことをこそ思え……」僕あ、この頃、この和歌《うた》の意味がつくづく分って来たような気がするよ。
小野 何だかやにしんみりしちゃったね? それがどうしたと云うんだい?
清原 (勢いを盛り返して)……小野。僕あ君にだけは分ってもらいたいんだ。君んとこの家は代々大学寮の重職にある文章博士《もんじょうはかせ》だ。僕の云いたいことは分ってくれると思う。……君だってやがてはお父さんの後を継いで文章博士になる身だ。君は「家名」と云うことを考えてみたことはないのかい? 僕は家の名誉ってことを考えてるんだ。……別に自慢するわけじゃないけど、僕の父上だってれっきとした三位の官人《つかさびと》だ。……そりゃ、今僕が止めてしまったら、石ノ上はがっかりするだろうけど、僕あそれ以上にこんなことをしてたら世間のひとがどう思うかと云うことを考えてるんだ。僕達のやったことが後の世までも謗《そしり》を受けるようなことになったら、僕達だけの恥じゃ済まされないんだぜ。家の恥なんだ! 父上の恥なんだ! 石ノ上は、貴様のように世間の思惑《おもわく》ばかり気にしていたら何にも出来やしないぞって、よく云うけど、……それにしてもあいつのやることは少し乱暴だ。正気の沙汰《さた》じゃない。あいつは何をするんでも、慎重な判断なしにやり始めてしまうんだ。まるでもう馬車馬だ! あいつは完全に気が触れてるんだ! 僕は気違いと一緒にこんなことをするのはまっぴら御免《ごめん》だ! お断りだ!
小野 気違い!……おい、おい、清原、いくらなんでもそりゃ少しひど過ぎるじゃないか?
清原 僕あこんなことは云いたくないさ。云いたくないけど、だけど、本当なんだから仕方がないよ。あいつは気が狂ってしまったんだ。……君は、第一、そう云う噂《うわさ》を耳にしたことはないのかい? 大学寮なんかでもみんなそう云ってるんだぜ。僕あ、御修法《みずほう》をやるお医者さんにも訊《き》いてみたんだ。もう、ああ云うふうに病気が進行しちゃったらおしまいだそうだ。いくらお祓《はら》いをしてみたところで、決して物《もの》の怪《け》は退散しないんだそうだ。
小野 清原!……(真剣な顔)貴様、……本当にあの男の発狂を信じてるのか?
清原 ………
小野 え! 清原!……貴様はそんな噂を本当に信じてるのかい!
清原 む、……信じてる。そりゃ僕だって初めはそんなこと信じられなかったさ。だけど、色んなことを綜合して考えてみると、まああいつには気の毒だけど、……僕もそう断定せざるを得ないんだ。第一、あんな恰好《かっこう》をして都中をほっつき歩いていることからして、訝《おか》しいとは思わないかい? いくら人目を避ける変装だからと云ったって、あれは少々極端だ。あいつは確かに気が変になってしまったんだよ。あの勉強家の秀才が勉強もそっちのけで、あんな妙な恰好をして、都中を一日中ほっつき廻ってさ、口に出すことと言ったら、なよた
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