けと大納言のことばかりだ。……そうかと思うとまるで、うわごとみたいにわけの分らないことばかり言っている。小野、君も知ってるだろ? あいつはこの頃、人の顔さえ見れば、あんなあな[#「あんなあな」に傍点]とか、かんなあな[#「かんなあな」に傍点]とか妙なことばかり言って、やたらに人にくってかかるけど、あれは一体何のことだか、君には分るのかい?
小野 いや、あれは俺も実はよく分らんのだ。……うーむ。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
清原 御修法《みずほう》の雲斎《うんさい》先生もそう云ってらした。気違いになるとわけの分らないことを云って、人には分ってもらったような気になるんだそうだ。……僕は、うるさいから、あいつの云うことは一々「そうだ、そうだ」って合槌《あいづち》を打ってやってはいるけど、実際この頃のあいつの云ってることはさっぱりわけが分らないんだ。第一|条理《すじみち》がたっていないよ。まるで、雲を掴《つか》むように漠然《ばくぜん》としている。そうかと思うと、突然、大声をはり上げて、「貴様はあんなあな[#「あんなあな」に傍点]だ!」って怒鳴《どな》りつけるんだ。あれはどうしたって狂人の衝動って奴さ。あたりに何人ひとがいようがお構いなしなんだ。全く僕あ穴があったら這入《はい》りたくなるような目に何度逢ったか分りゃしない。……理性と云うものを完全に喪失《そうしつ》してしまってるんだ。あの精密な論理の秩序は、跡方もなく破滅してしまった!
小野 (深刻に)……うーむ、……しかし、考えられぬことだな。あれほど明快な頭脳の持主がそんなに簡単に理性を喪《うしな》ってしまうもんだろうかね? 俺はやっぱりあいつが発狂してるとは思いたくないね。あるいは俺達のような凡人《ぼんじん》には考えも及ばないような深奥なる境地に到達してしまったのかもしれんぞ。いや、そうかもしれんのだ。
清原 そんなことはないよ。僕も初めはそうかなとも思ってみた。だけど、色々とあいつの精神状態を冷静に判断してみると、どうしたってあいつは健全な精神を喪失しちまってるんだ。例えば、この間、僕は思いきってあいつに、「君の云うそのあんなあな[#「あんなあな」に傍点]って云うのは一体何のことだい?」って訊《き》いてみたんだ。すると、どうだい? あいつは恐しい勢いで、「貴様にはまだ分らんのか!」って怒鳴りつけるんだ。そうかと思うと、やれおけらがどうの毛虫がどうのと、全くとんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]な返答をする。しかも論旨は支離滅裂《しりめつれつ》なのさ。もうまるで意味が分らないんだ。……
小野 しかし、それだけのことであいつを狂人扱いにしてしまうのは早計だ。そいつは少し残酷《ざんこく》だよ。
清原 まだまだ思い当る節《ふし》はたくさんあるさ。第一にあの眼だ。あの眼の異様な輝き工合はどうだ! 雲斎先生もそう云ってらしたが、狂人になるとまず第一に眼が異様に輝いて来るんだそうだ。精神を集中することが出来なくなるから、眼光は焦点を失って、いずこともつかぬ方向へ、不気味な輝きを発散するのだそうだ。小野、あいつに逢ったら、まず第一に眼をみてごらん! 僕はあいつの眼をみてると、気味が悪くなって来るんだ。じっと一点を凝視するってことがないんだ。行方《ゆくえ》も分かぬ、虚空《こくう》の彼方《かなた》にぎらぎらと放散しているんだ。定かならぬ浮雲のごとく天《あま》の原《はら》に浮游《ふゆう》しているんだ。天雲《あまぐも》の行きのまにまに、ただ飄々《ひょうひょう》とただよっている……
小野 (深刻に)……うーむ。
清原 その次に確実な症状は幻覚《げんかく》と云う奴なんだよ。雲斎先生もそう云ってらしたが、この症状が現れて来るようになったら、もう救い道はないんだそうだ。つまり、普通人には見えないものが見え、聞えないものが聞えて来ると云うのだ。……幻影《げんえい》とか幻聴《げんちょう》とか云う奴さ、……小野! 僕はもう全く疑う余地はないと思うんだ! 石ノ上ノ文麻呂は時々このあやしげな幻覚に悩まされているんだぜ! 昨日も昨日で、やにわに僕をつかまえて、こんなことを云うんだ! 「清原! 見ろ! 貴様にはこの鮮《あざや》かな宇宙の変革[#「宇宙の変革」に傍点]が分らんのか! 俺達を取巻いている七色の光彩の中から、無限に投射する白色光《びゃくしょくこう》の世界が浮び上って来るのだ! 日輪が俺達に語っているあの言葉が貴様には聞えないのか!……ああ、貴様は凡人だ! 世の中の人間はみんな馬鹿だ!」こうなのさ。それも例の調子でやるんなら話は分るが、こんなことを君、血走った眼をして、大真面目《おおまじめ》に云うんだぜ。そうかと思うと今度は急に温和《おとな》しくなって、まるで眼の前になよたけが現れたかのように、話し出すんだ。「ああ、なよたけ! お前だけなんだ! 真実の魂を持っているのはお前だけなんだ! 僕はお前のお蔭で、初めて生れ変ったような気がする! お前はまるで天の使だ!」僕はそれを見ていて、何だか全身がぞっとして、総毛《そうけ》立《だ》って来たよ。あれは恋などと云う生《なま》やさしいものではない。あれはもはや狂気だ! 恐るべき精神の錯乱《さくらん》なんだ! そうかと思うと今度は、また行方《ゆくえ》も分かぬ虚空の彼方《かなた》に眼をやって……
小野 (突然、右手を見)あ、やって来た!……しーッ。
清原 (右手を見、急に狼狽《ろうばい》し始める)……小野、僕は失敬する! 頼む! あいつにそう云ってくれ! あいつは何をしでかすか分りゃしない! あんな奴と行動を共にするのはまっぴら御断りだ! 僕あもう今日限りこんな大それたことは本当に止めた! 僕はあいつとは、もう手を切った!
[#ここから2字下げ]
左方へ逃込み、退場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
小野 おい! 待て! 待て! 清原! 待てと云うのに!……行ってしまやがった。……
[#ここから2字下げ]
石ノ上ノ文麻呂が右手に現れた。
先ほどの粗末《そまつ》な下人の装束《しょうぞく》で、何やら抑《おさ》え難《がた》い血気が身内にみなぎっている様子《ようす》である。舞台の右方に立ち、遠くから小野《おの》ノ連《むらじ》をきっと凝視《みつ》める。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
文麻呂 おう。小野ノ連ではないか!
小野 俺だ!
文麻呂 何だ。君も来ていてくれたのか?……小野! いよいよ待ちに待った今日のこの日だ!
小野 おめでとう!
文麻呂 用意|万端《ばんたん》は既《すで》にととのった!
小野 成功を祈るよ!
文麻呂 とうとう、ここまで漕《こ》ぎつけたよ! 後は清原がやって来るのを待つだけだ……
小野 それはよかった!……まあ、そんな所に立っていないで、こっちへ来いよ。
文麻呂 うむ。
[#ここから2字下げ]
文麻呂、中央にやって来る。
小野ノ連、詮索《せんさく》するように文麻呂の眼付、挙動をじろじろ眺めている。文麻呂は得体《えたい》の知れぬ興奮に、その眼は異様に輝き、なるほど、天空に向って浮游《ふゆう》しているかのようだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
小野 なかなか大した装束《いでたち》ではないか?
文麻呂 (両手を拡げて)これか? あははは。虚飾《きょしょく》をはぎとったのだ。本然の姿に戻ったのだ。剣刀《つるぎたち》身に佩《は》き副《そ》うる丈夫《ますらお》のいでたちとはこれだ! あはははは。どうだ!
小野 (気味悪そうに)大したものだよ。……ところで君はこれから何をしようと云うのだ?
文麻呂 なんだって!
小野 いやつまりだね、具体的に云って、どう云うふうにことを運ぶつもりか、と聞いているんだ。
文麻呂 分りきっているじゃないか!……なよたけは車にのせられて、間もなくここへやって来るのだ!……俺と清原はここで待ち伏せをして、大納言の魔手《ましゅ》から彼女を救い出すと云う段取りさ。……具体的も糞《くそ》もあるもんか! 問題は、なよたけを大納言の手から救い出せばそれでいいんだ。
小野 それがいけないんだよ。
文麻呂 なんだ?
小野 それがいけないと云うのだよ!……君は何をやるんでも、慎重な計画を立てずに、衝動的にやってしまう。何のことはない、向う見ずの馬車馬だ。盲滅法《めくらめっぽう》と云う奴だ。それでは必ずことを仕損《しそん》じるよ。物事はまずはっきりと条理《すじみち》を立ててから……
文麻呂 よけいなお世話だ! 貴様なぞには分るものか! 俺はただ、天の呼び声に応《こた》えて、正しいと確信する道を進むだけさ! なよたけを救い出すのは、俺が天から受けた命令だ! 道を開いてくれるのは天だ! 天は正しきものに味方するんだ!
小野 まあまあ、何もそう大声を立てなくってもいいではないか! もう少し冷静になってくれ。……もう少し現実的に物を考えてみてくれんか? 例えばだ、なあ石ノ上、天の命令はいいが、君の行動が社会にどう云う影響を及ぼすか、と云うことを考えてみたことはないか? あるいはまた他人の眼にどう映るか、と云うことを考えてみたことはないかい? 君のやろうとしていることは、考えようによっては実に大変な一大事なんだぜ。俺に云わせれば君一人のために平安の都全体が鳴動するかもしれぬほどの大事《おおごと》を孕《はら》んでいる。……それほどの一大事が、今、刻々と近付いて来つつある。何だか俺にはそんな気さえして来た。いいかい? 石ノ上。俺は何も今更、君の行動を阻止《そし》しようとか、妨害しようとか、そんな気持は微塵《みじん》もないんだぜ。これは親友としての俺の最後の忠告だ。いいかい? 慎重に反省して、事を運んでくれよ。千載《せんざい》に恥をさらすような真似は絶対にしてくれるなよ。うっかりすると、君の一生は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になってしまうからな。やり損《そこな》ったら最後、君はどんな眼に遭《あ》うか分らんのだ。全く、危険|極《きわ》まる仕事なのだ。
文麻呂 あははははは。
小野 何が可笑《おか》しいのだ?
文麻呂 いや、別に可笑しいわけではないが、貴様もやはり哀れむべき凡人の仲間の一人であったか、と思ってね。御多分に洩《も》れず、貴様もあんなあな[#「あんなあな」に傍点]に操《あやつ》られている組だ……。
小野 (いよいよ不気味そうに石ノ上の眼差《まなざし》を詮索《せんさく》して)石ノ上!……どう云うことなんだね、一体、君の云うその「あんなあな」とか云うのは?
文麻呂 君はまだ分らんのか? 教えてやろう。そいつは、頼みもしないのに、俺達を唆《そその》かして、おけらの足に糸をつけ、玩具《おもちゃ》の車を引張らせる奴さ。帆立貝《ほたてがい》の中に俺達を閉じ込めて、宇宙《うちゅう》の真底を見せてくれない奴さ。……まあ、俺達の過去をふりかえってもみろ! 何と云うこせこせしたくだらぬ風俗だ! 何と云う汚らわしい些細《ささい》な熱狂に時を忘れていたことだ! 俺達はおけらの足に糸をつけて、玩具の車を引張らしていたに過ぎないのだ!……なんだ? なんでそう俺の顔をしげしげとみつめるのだ!
小野 石ノ上。……君は少し疲れているようだ。疲労のために心が乱れているようだ。……何かこう特別に工合が悪いと云うようなところはないのか? 例えば、頭が痛むとか、夜眠れないとか?
文麻呂 眠れないのではない。眠らないのだ。なよたけのことを思うと、夜なぞ安閑《あんかん》と眠っておられんからな。
小野 いや、それがいけないんだよ。……そう云う不摂生《ふせっせい》をやるから、君は正常な心の均衡《きんこう》を失ってしまうのだ。……石ノ上。それではこう云うようなことはないかい? 例えば、ふだん見たこともないようなものが見えて来るとか、聞いたこともないようなものが聞えて来るとか。
文麻呂 (自信をもって)あるね!
[#ここから
前へ
次へ
全21ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 道夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング