神々《こうごう》しさだぞ! こんな荘厳な不尽を見るのは儂《わし》も初めてだ! 見ろ! あの白銀《しろがね》に燦《きら》めく頂《いただ》きの美しさを!……おう! 後光だ! あれはまるで神の後光だ!
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いつの間にか、文麻呂が向う側から丘の中腹に姿を現わして、輝やかしい瞳《ひとみ》でじっと不尽山をみつめながら、立っている。丘の上の二人は気が付かない。舞台右手奥の方にも遠い連山が見え始める。
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綾麻呂 衛門! 長い旅路を遥々《はるばる》ここまでやって来た甲斐《かい》があったろう? ん?
衛門 (恍惚《こうこつ》として見ている)はい。
綾麻呂 都の奴等がいくら偉そうにわめき立てたところで、この素晴しい不尽ヶ嶺の偉容を仰いだものは一人もおらんのだ。……どうだ! あの天の果までとどくばかりの噴煙を見ろ!……なあ、衛門。あの山の頂きは日本中で一番天に近いのだぞ。それから、あの雪だ。あれは、千古の昔から消えたことのない不滅の雪だ。これからも永久に消えることのない不滅の雪だ。
衛門 (ふと、吾《われ》に返って)旦那様! 手前、これからちょっと婆さんの所に知らせに行ってやろうと存じます。実は、手前ども、今朝は暗いうちから起きて、あちらの雑木林に瓜畠を作っておったのでございます。今日は天気もよくなりましたし、ひとつ、婆さんと一緒に不尽山を眺めながら、瓜の種を蒔《ま》いてやろうと思っています。瓜生の里から遥々持って参じましたあの少しばかりの瓜の種が、不尽山の御加護によって、この東国の地にうまく実を結んでくれますれば、手前もう何ひとつ思い残すこともなく、喜んで死ねるのでございますがな。
綾麻呂 む。やってみなさい。それは、早速やってみなさい。
衛門 (剽軽《ひょうきん》に改まって)旦那様!……後の世の人達が、もしこの東国の地でたらふく瓜を食うことが出来るとしたら、それは外ならぬこの瓜生ノ衛門のお陰でござりますぞ!
綾麻呂 (笑って)うむ、そうとも、衛門。それはそうだ。
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衛門、妙に若やいで、剽軽に笑いながら、丘を駆け下りて行くと、文麻呂が立っているので、びっくりしたように、……
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衛門 おや! 文麻呂様!……旦那様! 文麻呂様が来ていらっしゃいますよ!
綾麻呂 (丘の上から)おう、文麻呂か!……なんだ、お前も来ていたのか?
文麻呂 ええ。
綾麻呂 どうだ! 見えるか! あの素晴しい不尽の山が見えるか!
文麻呂 ええ。さっきから見ていたんです。……
綾麻呂 うむ、……それはちょうどよかった。今しがた、雲が晴れたばかりの所なのだ。見ろ! 今日の不尽は、まるで後光がさしているような神々しさだぞ!
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間――
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文麻呂 (不尽を凝視《みつ》めながら、静かに)……僕が夢に画《えが》いていた通りでした。長いこと夢に画いていた通りでした。……お父さん、僕はたった今「物語」をひとつ書き上げて来たんです。それはまだ見ぬ不尽の煙が天雲の彼方《かなた》へたちのぼる場面で終ったのです。……不尽は、今朝からもう僕の頭の中にはっきりこの通りの姿で浮び上っていました。この通りの姿で僕の中に生き始めていました。……(瞳を輝かして)……この通りでした。
衛門 文麻呂様!……貴方は今日はまるで人が変ったように晴々とした顔付をなすっていらっしゃいます。
文麻呂 衛門、……それはきっと僕の心の隅々《すみずみ》まですっかり晴れ渡った証拠なのだよ。……僕がまた新しい僕自身を取戻した証拠なのだよ。……僕はこの日のためにすべてに耐《た》えて来た。とうとう恵まれた日がやって来たのだよ。新しい僕のいのちが蘇《よみがえ》って来たのだよ。
綾麻呂 文麻呂!……お前、ちょっと、ここへ上って来んかな?……お父さんは今日はお前としばらく話がしたいんじゃ。
文麻呂 ええ。
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文麻呂、無言で丘の上に上って行く。
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衛門 (文麻呂の言葉に触れて、何やら理由の分らぬ爽朗《そうろう》の気が身内に溢れて来た。……)旦那様!……それでは手前は失礼致して……
綾麻呂 ああ、行っておいで!……まあ、ひとつ精を出して、立派な瓜畠を作ってくれるのだな!
衛門 (剽軽に)かしこまりましてございます!
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衛門、右手奥へ退場。綾麻呂は笑いながらその後姿を見送っている。
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綾麻呂 なあ、文麻呂。……衛門の奴はこの東路《あずまじ》の果《はて》に来てまでも、瓜を作る積りなのだそうじゃ。この東国が瓜で一杯になるまでふやしてみせますぞと、いやもう大した意気込なのだ。……面白い奴だよ。……この年になっては家内を貰《もら》っても子供の出来る見込みがないから、その代りに瓜を嫌になるほど育ててみせる積りですじゃと、そう儂《わし》に云うとった。
文麻呂 (これも明るい微笑で、丘の上から衛門の後姿を見送っている)
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間――
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綾麻呂 文麻呂。……まあ、ここへ、ひとつ、坐らんか?
文麻呂 ええ。
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二人、並んで掛台に腰を下ろす。父は何やら気まずい。
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綾麻呂 どうだ、相模《さがみ》の国は気に入ったか?
文麻呂 ええ。
綾麻呂 お父さんはな、……お前がここへやって来たことを、とても喜んでいる。
文麻呂 そうですか。
綾麻呂 お父さんだって、実を云えば、お前をたったひとり都へ残しておきたくはなかったのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前がどうして都を離れる気になったか、そんなことは儂は決して詮索《せんさく》する気持はない。……だが、いったん、この東国に来た以上はもう絶対に都の生活なぞに未練を感ずるようなことがあってはいけないよ。この東国は厳しい試煉の土地だ。……都の人間達のようなあんな惰弱《だじゃく》な気持ではとても生きては行けないのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前にも追々分って来るだろうと思うが、ここでは人間はのらりくらりと遊び暮して行くわけにはゆかない。飯を食おうと思えば、畠へ出て血の汗を流して米を作らなければならないし、烈しい雨風とも戦わねばならない。あるいは、憎むべき不逞《ふてい》の賊《やから》どもがいついかなる場合に我々に刃向って来るかも分らないのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前はこれからはこの厳しい生活に耐《た》える強い人間にならなければいけないんだぞ。
文麻呂 (黙って頷《うなず》く)
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間――
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綾麻呂 (しんみりと)儂《わし》は前からお前は本当に可哀想な奴だと思っていた。……幼いうちから、お母さんにも死別れて、儂のような無骨《ぶこつ》な父親の手ひとつに育てられて来た。……しかし、もうお前は立派に一人前の男のはずだ。儂がいつ死んでも立派にひとりで生き抜いて行ける一人前の男になっていると思っている。……儂はな、文麻呂。人間の運命と云う奴は、実に不思議なものだと思うのだよ。儂が都からここへ左遷《させん》されると聞いた時には、まるで島流しにでもされるような気になってずいぶん心細い嫌な思いをしたものだが、どうだ、ここへ来てみると、もうあんな不愉快な都へなんぞ二度と足を踏み入れる気がしなくなってしまった。ここへ来て、儂はまるで死場所を得たような気持がするよ。こうして、遥かな東国へ来てみると、あんなごみごみした、愚劣な人間達の寄り集っている狭っくるしい都の中で、なんでまあ、あのように浅間《あさま》しく名声なぞと云うものにこせこせ執着していたのだろうと思ってなあ。まるで、夢のような気がするよ。やれ、位が一つ上ったと云っては鬼《おに》の首をとったように大騒ぎをして喜んでみたり、やれ、大伴の大納言は一生の敵《かたき》だなんぞとむきになって憎んだりしていたあの頃の自分がまるで嘘のように馬鹿馬鹿しく思われて来るのだよ。本当に儂はもう一生あんな馬鹿げた所へは帰りたくなくなった。……この広大無辺の大自然の中に溶け込んでいると、何だかもう、このまま儂はいつ死んでもいいような気がする。今では、あの崇厳な不尽の山を眼《ま》のあたりに眺めながら死ぬと云うことがこの儂の理想なのだよ。儂は、この頃つくづくそう云うことを考えるようになった。……全く人間と云う奴は可笑《おか》しなものさ。……文麻呂! この頃儂はな、都の奴等のことなどをふと思い出すと、腹を抱えて大声で笑い出したくなるのだ。
文麻呂 (静かに)お父さん、……あれはみんな前の世の夢なのですね。僕には何だかそんな気がします。もう自分には何の縁《ゆかり》もなくなった遠い前世の夢が、悔《くい》もなく、ただ遥かな想い出のように蘇《よみがえ》って来るのです。
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間――
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綾麻呂 まあ、……お互いに都のことなぞもういっさい考えぬことにしようではないか。……こんな広々とした自然の懐に抱かれているんだ。お前ももっとのびのびした気持にならなければいけない。歌や物語を作るのもいいが、お前のように一日中狭っくるしい部屋の中に閉じこもっていたって、決していいものは出来ないと思うな。第一、あれでは身体に障《さわ》るよ。儂はそれが一番心配なのだよ。……ああ、そうそう! 文麻呂! お前、覚えているだろう? 儂がこっちへ赴任する日に、お前が儂に記念にくれた小さな歌の本があったね?
文麻呂 万葉集ですか?
綾麻呂 うむ。……あれはいい本だな。あれはお父さんも感心した。どの歌もどの歌もみんな偽《いつわ》りのない魂がこもっている。歌よみ根性がないから、読む者の心を打つのだ。心の底から詠《うた》いきっているから、こっちの心の底にもひびいて来るのだ。歌を作るならああでなくてはお父さんはいけないと思う。……文麻呂! あの中でな、お父さんの大好きな歌がひとつあるのだ。……
文麻呂 何て云う歌です。
綾麻呂 (遠く不尽を望みながら、朗々と朗誦《ろうしょう》し始める)……
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天地《あめつち》の 分れし時ゆ 神《かん》さびて
高く貴き 駿河《するが》なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を
天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば 渡る日の
影も隠ろい 照る月の 光も見えず
白雲も い行き憚《はばか》り 時じくぞ
雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
不尽の高嶺は……
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文麻呂 (不尽を仰ぎながら)あの時代には国中の人達が美しい調和の中に生きていたのですね。……お父さん! 僕はしあわせです。(うっとりとして)万葉を生んだ国土。うつくしい国土。僕はこの国に生れたことを心の底からしあわせに思っています。
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右手、遠くの方から、瓜生ノ衛門夫婦の唄う「瓜作りの歌」が聞えて来る。
笹山《ささやま》の 山坂越えて
山城の 瓜生の里に
我は 瓜作る 瓜作り
ナヨヤ ライシナヤ サイシナヤ
我は 瓜作る 瓜作り 瓜作り ハレ。
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綾麻呂 文麻呂!……ほら、聞いてみろ! 衛門がお内儀《かみ》さんと一緒に唄をうとうとる……。
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空は紺碧《こんぺき》に晴れ渡っている。どこかで山蝉《やまぜみ》が鳴きはじめた。
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