分の本心をかくしていた。僕にはあんなあな[#「あんなあな」に傍点]が取憑《とりつ》いていたんだ。……(次第に慟哭《どうこく》するもののごとく)……なよたけ! 許しておくれ! 僕が悪かったんだ!……なよたけ! 許しておくれ!
なよたけ (何かその眼は次第に神々しい光に輝き始める)いいのよ。いいのよ。……ああ、あたしって何て悪い子でしょう。こんなことを云って、またあんたの心を苦しめようとするのね。いいのよ。いいのよ。あんたはいい人なんだわ。あんたはいい人なんだわ。
文麻呂 なよたけ! (烈しく抱きすくめる)今日からだって僕達は決して遅くはないんだよ! 決して遅くはないんだ! 心の正しい僕達二人をお天道様が許して下さらないなんて、どうしてそんなことが考えられよう! 何もかも今日からなんだ! 僕達の新しい生活は今日から始まるんだ! さあ、元気を出して、一緒に行こう!
なよたけ 文麻呂! 本当にそう思う! 本当にそう思う! (切《せつ》な気《げ》に文麻呂の胸にすがりつき)……ああ、文麻呂! 文麻呂! あたしを棄てちゃ嫌《いや》! あたしを棄てちゃ嫌!
文麻呂 何を云うんだ!……お前を棄てるなんて……
なよたけ (突然、烈しい不安に襲われたごとく、表情は硬直《こうちょく》した)文麻呂! あたしをしっかり守ってて! あたしをしっかり守ってて! あたしをお月様の所へなんか行かしては嫌よ!
文麻呂 (凝然《ぎょうぜん》として)お月様!
なよたけ (心は次第に天界の彼方《かなた》に放たれて行く)文麻呂! ほら! お月様からあたしを迎えに来るんだわ! お月様からお迎えの人達が雲に乗って下りて来るんだわ! 遠くの方から、あの人達の話し声が聞えて来るわ! ほら! 文麻呂! 聞えるでしょう! 聞えるでしょう! あれは空を飛ぶ月の車の音なの!
文麻呂 (呆然《ぼうぜん》と)僕には聞えない……
なよたけ ほら! あの天の頂きの辺がだんだん明るくなって来たわ! あれは、月の国の使いが雲に乗ってあたしを迎えにやって来るの! ……文麻呂! 文麻呂! あたしをあの人達の手に渡しては嫌よ! あたしを離しては嫌よ!
文麻呂 なよたけ、僕には何も見えない……
なよたけ ああ、あたしは死にたくないの! あんたと一緒にいつまでもいつまでも生きていたいの! あたしをしっかり抑《おさ》えてて! あたしをしっかり抑えてて!……あたしがあの人達の手に渡されてしまったら、もう何もかもみんなお終《しま》いなのよ! あの人達は天の羽衣《はごろも》を持って来るの! あたしに着せようと思って天の羽衣を持って来るの! それを着せられてしまったら、あたしはもう、あんたのことも、何もかも、この世のことはみんな忘れてしまわなければならないんだわ! いくら思い出そうとしたって、もう駄目なんだわ! あたしは記憶を失ってしまうの! あたしは人間ではなくなってしまうの! あたしはこの世の人ではなくなってしまうの!
文麻呂 なよたけ! お前は何を云ってるんだ!……お月様からお迎えが来るなんてそんなことがあるもんか! みんな、心の迷いなんだ。お前は疲れてるんだよ。疲れのために心が乱れてるんだよ。……さあ、あそこの草の上に腰《こし》を下ろして、しばらく身体をおやすめ。……お前はしばらく、じっと静かにしていなくてはいけない……(いたわるように彼女を抱えて、連れて行こうとする)
なよたけ ああ、文麻呂! 文麻呂!……(発作《ほっさ》的に衣裳《いしょう》の襟《えり》に手をやって、苦しそうに)この重っ苦しい着物を脱《ぬ》がして!……この着物がいけないんだわ!……苦しい、……息がつまりそう。……苦しい、……文麻呂! 脱がして! 脱がして!……(気を失ったように、よろよろと彼の胸に倒れかかる。片手から竹の枝がはらりと地面に落ちる)……
文麻呂 なよたけ! どうしたの! しっかりおし! なよたけ! (彼女を抱きかかえたまま、前面に連れて来て、丘の傾斜面にそっと横たえる。突然、驚愕《きょうがく》の色)なよたけ! 死んじゃいけない! しっかりおし! しっかりおし! (衣裳の襟を押し開いてやろうとする)なよたけ! なよたけ!……僕が分るかい! え! 僕の声が聞えるかい!
なよたけ (かすかに頷《うなず》き、落した竹の枝の方に弱々しく手を差しのべて)竹!……文麻呂!……竹! 竹!……
[#ここから2字下げ]
文麻呂、その差しのべられた手の行方《ゆくえ》に竹の枝が落ちているのに気がつく。
はっとして、急いで駆《か》けより、それを手に、再び戻って来る。なよたけはもうぐんなりとしている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
文麻呂 さ、しっかりとお掴《つか》み! しっかりとお掴み!……お前のいのちよりも大切な……(なよたけは死んでいる)なよたけ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
[#ここから2字下げ]
文麻呂は呆然として、なよたけの死顔を凝視《みつ》める。……
背後の天空にいつの間にやら大きな満月がぽっかりと浮び上った。白色光の神秘な光芒《こうぼう》があたりに耀《かがよ》いはじめた。……そして、どこからともなく、「雅楽」のような不思議な楽音がかすかに聞えて来る。やがて、文麻呂は魂を失ったもののごとく、茫然として立上る。……彼の手から、なよたけの美しい衣裳の上に竹の枝がはらりと落ちかかった。……「合唱」が低く低く、聞えて来る。

 合唱

かくばかり 憂《う》けく辛《から》けく なよ竹の
かくばかり 憂けく辛けく なよ竹の
花も常無き 現《うつ》そ身や
珠《たま》の緒《お》の惜しき盛りに 立つ霧《きり》の
失《う》せぬるごとく 消《け》ぬるごとく
おとめごは いま みまかりぬ
おとめごは いま みまかりぬ

なよたけは今や忘れられたもののごとく、文麻呂の姿のみ神秘な白色光の光芒に包まれて行く。文麻呂は、魔に憑《つ》かれたように、天空の彼方《かなた》を打ち眺める。……
月は白銀に輝く棚雲《たなぐも》の上、異様に冴《さ》え渡って行く。

現し世の 旅にまどいて
甲斐《かい》なくも 散るべきものを
いつの世の契《ちぎ》りなりけむ。
今はただ、彼の岸の光に充《み》ちて
我はなお、君に恋うらむ
みまかりし 君に恋うらむ
          恋路なれば
今はただ 彼の岸の 光に充ちて
我はなお、君に恋うらむ
みまかりし 君に恋うらむ
          恋路なれば

不可思議な楽音、高調し、白色光の光芒はあたりに異様に充ち溢れて……
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]静かに幕――

  第五幕(終幕)

[#ここから2字下げ]
東国のある丘陵《きゅうりょう》地帯にある石《いそ》ノ上《かみ》ノ綾麻呂《あやまろ》の任地。約二ヶ月後の七月初旬。
幕が上ると、場面は緑の丘陵が遠々と拡がっている、例えば相模《さがみ》ノ国のある風景。
舞台左手は小高い丘。右手にかけて、なだらかな傾斜が続いている。
丘の頂上には、雑木の丸太で作った粗末な掛台がひとつ。石ノ上ノ綾麻呂がその上に腰を掛けて、前方右手の方を遠く放心したように眺めている。雨雲が晴れる前の、何やら落着かぬ雲行である。
丘の向う側より、瓜生《うりゅう》ノ衛門《えもん》現れ、舞台右手に立つ。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
衛門 旦那《だんな》様。お独《ひと》りで何をしていらっしゃるのです。
綾麻呂 おう。衛門か?………む、待っているのだ。……長いこと、鬱陶《うっとう》しく蔽《おお》いかぶさっていたこの梅雨雲《つゆぐも》が今日こそは晴れるのではないかと思ってな。……待っているのだ。
衛門 晴れそうでございますか?
綾麻呂 晴れそうだ。昨日から雨も止んでしまったし、この分ではもう梅雨は終りだ。もうすぐ晴れるのではないかと思う。……(雲行を見ている)
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
衛門 (丘の上に上って行きながら)それにしても、駿河《するが》の国にあると云う山が、ここからそんなにはっきりと見えるものでしょうか?
綾麻呂 見えるとも! 晴れた日なら、百里も離れた所からでも見えるだろう。……いや、もう、何と云うか、……実に見事なのだ。実に高いのだ。実に美しいのだ。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
衛門 (指さして)あの辺でございますか?
綾麻呂 (前方右を指し)いや、……あの辺だ。
衛門 何でも話に聞くと、摺鉢《すりばち》を伏せたような山だそうではありませんか?
綾麻呂 情無いことを云う奴だな。……摺鉢とは情無いことを云う奴だ。そんなのは凡人の言草だ。……せいぜい、下手糞《へたくそ》な絵でも見た奴が考え出した形容だろう。……実物を見れば、それこそ物も云えなくなってしまうのだ。……何と云うかな?……何とも云いようがない。「天雲のそきえのきわみ……」とでも読み出さなければ、とても後が続かない。
衛門 今時分でも頂上には雪が積っているのだそうですね?
綾麻呂 積っている。……儂《わし》がここへ赴任して来た当時は半分から上は純白の雪に蔽《おお》われていた。……この長雨で、あるいは幾らか溶けてしまったかもしれんが、……ま、いずれ雲が晴れてみれば分る。……玲瓏《れいろう》と云うか崇厳と云うか、とにかく、あれは日《ひ》の本《もと》の秋津島《あきつしま》の魂の象徴だ。……儂はもう文麻呂の奴に早くみせてやりたくてな。
衛門 手前だって早く見とうござります。
綾麻呂 いや何も別にお前には見せないと云うわけではない。ただあの不甲斐《ふがい》ない息子が一時も早く迷いの夢から覚めてくれれば、と思っているのだ。あの崇厳な不尽《ふじ》ヶ|嶺《ね》の姿をみれば、少しは気持が落着いてくれるだろう。……全く、あいつは不甲斐のない男になってしまったものだ。
衛門 まあ、旦那様。そっとしておいておやりなさいまし。……お若い方の気持はもう私どもには分りませぬ。
綾麻呂 衛門。……お前は文麻呂のことになると何だか妙に偉そうに肩を持つようだが、あれのことについて何かもっと他《ほか》に儂にかくしているようなことはないのかい? ただ、親しい友達と仲違《なかたが》いをした位であんなになってしまうとは儂にはとても考えられんのだよ。あれは以前はもっと陽気な奴じゃった。口泡を飛ばして儂などとも盛んに議論をしたりしたものだ。……それが、どうしたわけか、あんな無口の偏屈者になって儂の所にやって来よった。お前は、なに神経衰弱です、などと簡単に片附けるが、儂はそんな生やさしいものではないように思う。儂はどうも心配でならんのだよ。あのままでは、到底、この東の国の厳しい生活には耐えて行けん、……先が思いやられる。あれでは本当に困るのだ。
衛門 旦那様。御心配なさいますな。まあ、しばらくの間、あのままそっとしておいておやりなさいまし。あの方の過去については決して御詮索《ごせんさく》なさいますな。……たとえ何か過《あやま》ちがございましたにしても、若い時代の過ちは許して上げなければいけませぬ。若い頃には人間は誰にも必ずひとつやふたつの過ちはあるもんではございませんかな?……手前にもございました。旦那様にもそう云う過ちがなかったとはおっしゃいますまい?
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
綾麻呂 (はたと思い当り)女子《おなご》か?
衛門 ………
綾麻呂 衛門!……女子のことを云うとるのだな?
衛門 ………
綾麻呂 そうなのだな? え? 衛門!
衛門 言い当てられました。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
綾麻呂 む。……そうだったのか。
衛門 旦那様。しかし、さようなことで文麻呂様を決して非難なされてはいけませぬぞ
前へ 次へ
全21ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 道夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング