帰って行く所もないわ。あんただけなの。あたしを幸せにしてくれる人は世の中に、文麻呂、あんたひとりしかいないのよ!
文麻呂 なよたけ! お前は信じてくれるだろ?……お前の清らかな魂を信じているのは世の中に僕ひとりだけだってこと。……お前のためならばこそ僕は喜んで都を棄てた。光栄も捨てた。……償《つぐな》いも捨てた。……僕は世捨人《よすてびと》だ。僕はたったひとりだ。僕は世間の者達からは気違いとして葬られた。都では、ただ一人の正しいものをこう呼んでいる。……真実の愛を求めるものをこう呼んでいる。……なよたけ! どうして僕にお前を手離すことが出来たろう! 世間の者から何と云われたって、僕はただ、お前を愛さずにはいられなかったんだ!
なよたけ 文麻呂! でも、もういいの! もういいんだわ! 何もかももういいんだわ!(彼女の眼に露が光っている)……
文麻呂 なよたけ。……お前も泣いているね? (彼女の肩に両手を掛けて)もう何も心配することはないんだ。僕はこうしてお前の所へやって来た。これからは何もかも皆望み通りに行くんだ。僕達はもう一生離れることなんかないんだよ。いつまでもいつまでも二人は決して離れることなんかないんだよ。……御覧! なよたけ! 僕達はこんなに素晴しい大空の下にいるんだ。僕達は忘れていた、長い間、この広々とした限りない星空を仰ぐのを忘れていた。……
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二人は肩を寄せ合ったまま、深遠なる星の夜空を仰ぎ見る。
[#ここで字下げ終わり]
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文麻呂 僕達は自由だ。……なよたけ! もう、僕達の幸福を邪魔《じゃま》するものは何ひとつありはしないんだよ。
なよたけ 文麻呂! あたしをしっかり抱いて! 文麻呂! あたしをもっとしっかり抱いて頂戴《ちょうだい》!
文麻呂 どうしたの? なよたけ……
なよたけ 文麻呂! あたし達はしっかり抱き合っていないと、この大空の中にすべり落ちてしまうわ。……どこまでもどこまでも限りなく遠い大空の果まで落ちて行ってしまいそうな気がするの。
文麻呂 (彼女を胸の中に抱き寄せて)何を云ってるんだ、お前は。……
なよたけ (抱かれたまま)……あたし、急にそんな気がしたの。……ねえ、文麻呂、あたし達はきっと小さな星なんだわ。あの空に一杯輝いている数知れぬ星と同じような……そうよ! あたし達はきっと小さな星なんだわ。
文麻呂 なよたけ!……幸いの星だ。僕達は大空の中にたったひとつの幸いの星だ。
なよたけ こんなことって、あたし、今までちっとも考えたことないの。だけど、きっとそうだわ。……あの数知れないたくさんの星と一緒にあたし達の星も、この広々とした大空の中をあてどもなくめぐりめぐっているんだわ。そして、とても綺麗《きれい》な星に違いないわ。きっと、一番美しくきらきら輝いているんだわ。……ねえ、文麻呂。そんな気がしない? あたし達はいつの間にか大空の真只中《まっただなか》に出てしまったの。もう、どうすることも出来ないんだわ。ただ、しっかり抱き合っているだけ。いつまでもいつまでも離れないようにしっかり抱き合っているだけ。……文麻呂! 文麻呂! あたしをしっかり抱いて頂戴!
文麻呂 抱いている。こんなに強くお前を抱いている。……
なよたけ ……ああ、嬉《うれ》しいわ。この広い大空の中で、あたし達はたった二人だけなのね。たった二人だけ。……あたし達だけが生きている。……あたし達だけが本当に生きている。……こうしている時だけが、本当にいのちと云うことなのね。あたし達の背後《うしろ》には何にもない。あたし達の前には何にもない。……ただ、このしあわせな時の間《ま》だけがすべてなんだわ。……ねえ、文麻呂! どうすればいいの! このしあわせな時の間がいつまでもいつまでも果しなく続くようにするには、どうすればいいの!
文麻呂 生きて行くんだ。お互いの愛を信じ合いながら、強く生きて行くんだ。なよたけ! 僕達はまず、家を作ろう。……同じ屋根の下で僕達は一緒に暮すんだ。どこか人里離れた静かな山の中に、綺麗な家を一軒建てよう。軒には品のいい半蔀《はじとみ》を釣るんだ。……家の周《まわ》りには檜垣《ひがき》をめぐらしてもいい。それから、小ざっぱりした中庭を作ろう。切懸《きりかけ》のような板囲いで仕切って、そいつには青々とした蔓草《つるくさ》を這《は》わせるんだ。中庭には、あちこちに夕顔の花が一杯咲く、……ねえ、なよたけ! 僕は夕顔がとても好きなんだぜ!
なよたけ 文麻呂、……そうすれば、あたし達は幸せになれるの? 今よりも、もっともっと幸せになれるって云うの?
文麻呂 なれるとも! きっとなれるとも! もう大空と僕達の間をさえぎるものは何もないんだ。天の恵みに充《み》ち溢《あふ》れたこの上もない幸福《しあわせ》な生活なんだ。
なよたけ 文麻呂。……あたし達にはもう何も起らないんだわ。……もう。これから先、あたし達には何にも起らないんだわ。
文麻呂 僕もそう思う。……もう、僕達の幸福の邪魔をするようなことは、何も起らないんだ。
なよたけ そうじゃないの、文麻呂。あたしは、もうこれで何もかもが一度にみんな起ってしまったんじゃないかと思うの。何だかそんな気がするの。こんな幸福が一時《いちどき》にあたしを訪れて来るなんて!……あたし、何だかまるで、一生の幸福が一ぺんに来てしまったような気がするの。ねえ、文麻呂。あたしがこの世に生れて来たのは、ただ、あんたを愛するためだけだったんだわ。……
文麻呂 僕だってそうだ。なよたけ! 僕だってお前を愛するためにこの現《うつ》し世《よ》に生れて来たんだ。お前は僕のいのちだ! たったひとつのかけがいのない僕のいのちだ!
なよたけ (何やら不安に襲われたように)ねえ、文麻呂! あたしの一生はもしかしたらこのまま終ってしまうんじゃないかしら?……あたし、さっきから変な胸騒ぎがするの。何か分らない不吉な胸騒ぎがするの。……文麻呂! あたしはもうこの世に生きるつとめをすっかり果してしまったんじゃないかしら?
文麻呂 何を云ってるんだ? そんなことがあるもんか! 僕達が愛し合うのはこれからなんだ!……お前は清らかな若竹の中に太陽に導かれながら、すくすくと育って来た。人の世の汚れも知らずに、清浄ないのちを生きて来た。お前はもう竹の里から離れたって立派にひとりだちが出来るんだよ、……なよたけ! お前はこれからは僕と一緒に強く生きて行くんだ。僕達の行手を遮《さえぎ》るものはもう何もありゃしない。この大空のように果しない愛の世界があるだけなんだ。僕達はこれからもっともっと愛し合って行くんだ。この上もない愛のしあわせを僕達だけの力で作り上げて行くんだ……
なよたけ (切ない疑惑をもって)文麻呂!……あたし達にこれ以上愛し合うことなんて出来るの? 今よりももっともっと愛し合うことなんて出来るの?……あたしには考えられないわ。これ以上の愛のしあわせがあるなんて、……あたしにはとても考えられないわ。
文麻呂 なよたけ! お前は何も知らないんだ。僕達が本当に愛し合うのはこれからなんだぜ。人間はもっともっと烈《はげ》しく愛し合うことが出来るんだ。もっともっと幸福《しあわせ》になることが出来るんだ。
なよたけ あたしには信じられない。……文麻呂、あたしには、そんなこと、とても信じられないわ。
文麻呂 なよたけ、……そうだ、僕達はこれからすぐに旅に出よう! 黙って僕についておいで! 僕達は旅に出るんだ!
なよたけ 旅?……どこへ行くの、文麻呂?
文麻呂 東の国だ。そこにはこの上もない僕達の幸福が待っている。
なよたけ 遠い国?……
文麻呂 (遠く思いを致す)……はるかな旅路だ。……だけどね、なよたけ、そこには僕達の新しい故郷《ふるさと》が待っている。……そこには懐しいお父上が僕達の来るのを待っていて下さるんだよ。
なよたけ 文麻呂!……あんたのお父様?
文麻呂 うん、……そしてお前の優しいお父様だ。……お父上はきっとお前を喜んで迎えて下さるに違いない。きっとお前をこの上もなく可愛がって下さるよ。
なよたけ でも、文麻呂。……あたしの顔を見て。あたしにそんな遠い所まで旅をする元気があるかしら?……ああ、あたしはなぜだかだんだん身も心も疲れきって行くわ。どうしてかしら? 何だかこうして立っていることさえ耐《た》えられないほど苦しいの。……
文麻呂 (不吉な予感を打ち消すように)なよたけ! 何でもないんだ! しっかりおし! お前はただ疲れているんだよ。……ねえ、なよたけ。それじゃ、お前がまた元気な体になるまでどこかで待っていてもいい。ここからそんなに遠くない瓜生《うりゅう》の山里に、衛門《えもん》と云う僕の忠実な爺やが瓜を作りながら暮しているんだ。僕達はこれからそこへ行こう! しばらくその家に厄介《やっかい》になって、お前がすっかり元気になってから改めて東国へ旅立つことにしよう!……ね? いいだろ?……さあ、なよたけ! とにかく、この丘を下りよう! (促すように、舞台奥を指し)あんな広々とした天地が僕達を呼んでるんだ!
なよたけ 待って、文麻呂! あたしは駄目! あたしはやっぱり駄目なんだわ! あたしはこの竹の林の外へ出てはいけなかったんだわ!
文麻呂 (ぎょっとしたようになよたけの蒼白《そうはく》な顔をのぞきこむ……)
なよたけ (空《うつ》けて行くように)……文麻呂!……誰《だれ》かがあたしを呼んでいるの。声のない言葉で、……何かほの白い寒気のするようなものがあたしを呼んでいるの。……文麻呂! あたしには、何かしら逃れられない前の世からの契《ちぎ》りがあったんだわ。それが今、蘇《よみがえ》って来るの。眼に見えない雲のように、遠い前の世の物思いがだんだん蘇って来るの。あたしは、いつの頃か、この竹の林の中に生れた。世の中の事は何も知らずにこの竹の林の中で幸せに育って来た。……あたしはきっと竹の中でしか幸せになれなかったんだわ。竹の中でしか生きて行けない人間だったんだわ。この竹の林を見棄ててしまえばあたしは何だかもう生きて行くことさえ出来ないような気がするの。
文麻呂 (烈しく)なよたけ! 信じてはいけないよ! 僕以外の誰の言葉も信じてはいけないよ!
なよたけ (だんだんと独白ふうになって行く)あたし、初めてあんたに逢った時から、二人だけの幸福を夢みていたわ。それは青々とした竹の林にかこまれて、あんたと一生楽しく暮すことなの。……ああ、だけど、もう駄目。遅過ぎたわ。あたしは、もう、この竹の林を見棄ててしまった。お天道《てんとう》様のおっしゃることに背《そむ》いて、一旦都へ出てしまったあたしはきっと罰を受けなければならないんだわ。黙ってここでじっと苦しみに耐えて行かなければならないんだわ。……文麻呂! あたしにもどうしてだか分らない。だけどもうあたしの幸福はこれっきりで終ってしまうような気がするの。……あたしはどこにも行ってはいけないんだわ。ここで黙ってひとりで待っていなければならないんだわ。
文麻呂 なよたけ! 何を待っているんだ!……しっかりおし! 何を待ってるって云うんだ! そんなことがあるもんか! そんなことが……
なよたけ (急に烈しく咎《とが》めるような調子になり)文麻呂! あんたはあたしがあんな車にのせられて都へ連れて行かれるのをどうして止めてくれなかったの? どうしてあたしが好きになった時、すぐにでも都を棄てて、あたしのところに飛んで来てくれなかったの?……ああ、そうすれば、あたし達はそのままずっとしあわせに暮せたかもしれないのに!
文麻呂 (次第に懺悔《ざんげ》するもののごとく)なよたけ、……許しておくれ。僕は自分の心を偽《いつわ》っていたんだ。不純な虚栄に心を奪《うば》われていたんだ。僕の心は濁《にご》っていた。僕にはお前のその清らかな透《す》き通った心が恐しかったんだ。お前に初めて逢った時から、僕はお前が好きで好きでたまらなかったのに、今日になるまで自
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