れずに、無明《むみょう》の闇の中に消え失《う》せて行くものと諦めておった。お若い方、それでは貴方はこの竹の里にあのなよたけが本当にいるとお思いなのだな? あのなよたけの赫映姫の語りつたえを本当に信じて下されると云うのじゃな?
文麻呂 信じる?……お爺さん! 何をおっしゃるのです! 僕はこの眼でなよたけに逢いました! この腕でなよたけを抱きました!……命をかけて、なよたけを愛したのです!
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間――
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竹取翁 おう、……それでは貴方だったのじゃな? なよたけの愛の琴糸《きんし》をふるわせるまことの心を持った若者は貴方だったのじゃな?……そう云えば、なよたけは近頃、ついと儂の眼の前に姿をあらわさぬようになってしもうた。まるで、遠い昔の思い出かなんぞのようにあれの姿はいつとはなしにこの儂の心からだんだんと薄れて行きましたのじゃ。……どこやらに、儂の代りになよたけを愛しはじめた人が確かにいると思っていた。儂に代ってなよたけの愛を受け入れて下さる人が確かにいると思っていた。……それが貴方だったのじゃ。お若い方、それが貴方だったのじゃ。儂は永いこと探し求めていた。なよたけをまことの心で愛して下さる人を探し求めておった。儂に代って、あの美しい夢を後の世々まで伝えて下さる人を永いこと探し求めておったのじゃ。……なよたけの話を語り継《つ》ぐ人は貴方なのじゃ。儂の夢をとこしえの後までも語り伝えて下され。なよたけは儂の夢じゃ。かぐやは儂の夢じゃ。……
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わらべ達の声………
だまされた だまされた
あんなあな[#「あんなあな」に傍点]にだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
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文麻呂 お爺さん!……あなたはなよたけを夢だとおっしゃるのですか? それではこの僕までが夢を見ているとおっしゃるのですか?
竹取翁 かぐやを愛し始める。……と、その時から人は夢を見始めるのじゃ、……儂《わし》だって、この両の眼で何度あれの美しい姿を見たか知りませぬ。……この両の腕で何度あれの可愛らしい体を抱いたか分りませぬ。……だが、お若い方、なよたけのかぐやは愛するものの夢なのじゃ。……あの竹の林の中を跳《と》び廻っているあれの美しい姿。……唄をうとうているあれの可愛い声。……あれは今でも時々この儂の眼に儂の耳にはっきりと蘇《よみがえ》って来はする。だが、あれは儂にはもうまるで遠い昔の夢のような気が致しますのじゃ。……(翁は無限に遠くの世界を思い浮べる心)……おう、あれはいつのことじゃったろう?……貴方はあれがどこから生れ出たか御存知かな? あれは、本《もと》光る若竹の筒《つつ》の中から生れ出たのじゃ。……儂にはもうはっきりとは思い出せない。……まるで、何千年も遠く過ぎ去った昔のことのような気がする。……かと思うと、つい昨日のことだったような気もする。……時には、あれは自分とはまるで縁もゆかりもない遥《はる》かな遠つ世の語り伝えだったような気さえ致しますのじゃ。
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合唱
げにうつし世は 夢ならむ
げにうつし世は 夢ならむ
何事もみな 思い出の
伝えは遠き 竹の里の
いつの名残《なご》りをとどめてや
いつの名残りをとどめてや
これやこの 遥けくも古《ふ》りにし伝え
跡や残るらむ 跡や残るらむ
聞えは朽《く》ちぬ世語りの
なよ竹山に翁ありけり
なよ竹取の翁ありけり
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竹取翁 聞いて下されますか?……お若い方。なよたけのかぐやの世語りを聞いて下されますか? 儂の娘の生い立ちを聞いて下されますか?
文麻呂 聞きます、お爺《じい》さん。なよたけの話なら、僕は喜んで聞きます。
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わらべ達の声、微《かす》かに遠く………
だまされた だまされた
あんなあな[#「あんなあな」に傍点]にだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ
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竹取翁 (静かに語り始める)今は昔、竹取の翁と云う者がおりましたのじゃ。もとより、人目も稀《まれ》な竹山の隠れ里に住まう、しがない世捨人《よすてびと》、……野山にまじりて、竹を取りながら、それで竹籠《たけかご》なんぞを編んでは、細々とその日その日の生計《くらし》にあてておりましたのじゃ。……その名は、讃岐《さぬき》ノ造麻呂《みやつこまろ》と申した。……ところがある日のこと、そうして竹を取っていると、その中に本《もと》光る竹が一本あるのに気がついたのじゃ。……不思議に思うて、ふと、近付いてみると、その筒の中が光っておりますのじゃ。更によくみると、その中に小さな娘がひとり立っておりましたのじゃ。……それがあのなよたけのかぐやじゃった。……おう、儂はどんなにか待ちこがれておったことじゃろう。なよたけの赫映姫《かぐやひめ》はとうとうこの儂に授けられたのですじゃ。
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わらべ達の声、微かに遠く………
だまされた だまされた
あんなあな[#「あんなあな」に傍点]にだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
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文麻呂 お爺さん!
竹取翁 終《しま》いまでお聞き下され。儂の話を黙って終いまでお聞き下され。なよたけのかぐやがこうして生れたのですじゃ。長いこと待ちあぐんでいた儂の夢が正夢となって現れたのですじゃ。……お若い方。儂は信じておった。本当にあのなよたけが儂と一緒にいると信じておった。儂はまるで宝物を扱うように、大事に可愛がり育てましたのじゃ。そのうち、あの娘の容貌《かおかたち》の清らかに美しくなって行くこと、それはもう云うに云われぬほどで、そのために家の中は暗いところもなく、いつの日も光り輝いているようであった。儂《わし》が何かやまいで気分が悪しく、胸内が苦しいような時でも、あの子が眼の前にあらわれると、おのずとその苦しさが止むのじゃ。また、何か無性《むしょう》に腹の立つ時でも、あの子があらわれれば、やんわりと心が静まってしまうのじゃ。……なよたけのかぐやはこの儂のたったひとつの生《い》き甲斐《がい》じゃった。……そうこうするうちにあれは眼の覚めるような綺麗《きれい》な娘になって行った。世の中の男どもは、あれの美しさに惹《ひ》きつけられて、我も我もとこの儂のところに云い寄って来ては、執拗《しつこ》くあれを所望したが、誰《だれ》も彼もみな一時の浮気心であれを我物にしようとする色好みの愚《おろ》か者《もの》ばかりなのじゃ。あれの生い立ちを話して聞かせても、一人として信ずる者はおりませなんだ。儂の話を本当にせぬばかりか、終いには、皆、寄ってたかってこの儂を物狂い扱いにして、見向きもせんようになってしもうた。儂はまことの心で儂の話を聞き入れてくれる人はもうこの現《うつ》し世《よ》には一人もおらぬものと諦めてしもうた。……儂が己《おの》が力で己が現《うつ》そ身《み》を捨てて行ったのじゃ。……お分りかな? なよたけを夢と云うなれば、この儂も夢なのじゃ。今ではこうしてこの竹の里で、儂自身が夢になってしもうたような気がする……現《おつつ》の影はみな遠い昔の夢のように儂の心から薄れて行ったのじゃ。……物皆が儂の心から次第に喪《うしな》われて行く。……儂があれほど愛しておったなよたけのかぐやまでが、儂の心からだんだんと離れて行くのじゃ。……儂はあれを無明《むみょう》の中に喪うてしまいたくはない。お若い方、現そ身の人なれば、儂に代ってかぐやを信じて下され。後の世々までも儂の夢を伝えて下され。あれはもはや儂には遠く過ぎ去った前世の夢なのじゃ。儂に代ってあの美しい夢を夢みて下され。……あれは儂等には分らぬ天の声まで耳ざとく聴き分ける娘じゃ。あれが雨が降る、と云えば立ちどころに雨が降って来る。風が吹くと云えば、立ちどころに風が吹いて来る。あれは天女なのじゃ。月の都からこの世に送られてきた天女なのじゃ。なよたけを愛するとなればこの儂の話を信じて下さらねばなりませぬぞ。あれを人の世の女として愛してはなりませぬぞ。あれはいつの日にか月の都へ帰らねばなりませぬのじゃ。人の世のなべてのものに望みを失った時、天人達はあれを月の都に呼び戻すのじゃ。……それは、もち月のかがやく美しい夜じゃ。天人達は、空を飛ぶ月の車に乗ってこの現し世に舞い下りて来るのじゃ。天の羽衣《はごろも》を持ってこの現し世に舞い下りて来るのじゃ。
文麻呂 お爺さん!
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合唱
げにうつし世は 夢ならむ
げにうつし世は 夢ならむ
何事もみな 思い出の
伝えは遠き 竹の里の
いつの名残りをとどめてや
いつの名残りをとどめてや
これやこの 遥けくも古りにし伝え
跡や残るらむ 跡や残るらむ
聞えは朽ちぬ世語りの
なよ竹山に翁《おきな》ありけり
なよ竹取の翁ありけり
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竹取翁 (合唱にかぶせて)おう、今日もまた夕日が西の方《かた》に沈んで行く。……(静かに西の方を仰ぎ)御覧《ごらん》なされ。今日もまた夕日が西の方に沈んで行くのじゃ。……いつものように暗い夜がやって来る。……儂はいつかしらず深い眠りの中にいる。……そして、いつかしらず儂はまたさやかな陽の光のもとに目覚めているのじゃ。……この夢とも現《おつつ》とも知れぬ限りない時の間《ま》は一体いつまで続くと云うのじゃろうか? これは、見果てなき常世《とこよ》の夢じゃ。そうじゃ、儂は見果てなき常世の夢に生きている。……お若い方、貴方にはこの儂の姿が見えるのかな? 儂がここにこうして立っている姿が貴方には本当に見えるのかな? あの世語りの竹取翁はこの竹の林の中に生きておりまするのじゃ。讃岐ノ造麻呂はこの通りここにこうして生きておりまするのじゃ。……
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翁は文麻呂から数歩離れた所に、まるで石像のように立ったままじっと動かない。日没前の異様な輝耀《きよう》を竹の緑に反射させて、夕陽が西の方に沈んで行った。文麻呂は何やら不可解な神秘に取《と》り憑《つ》かれたように、言葉もなく翁の姿を凝視《みつ》めている。
あたりは次第に暗くなって行く。……
翁の姿は、残像のように、夕闇の中に取り残されている。……
山鴿《やまばと》が遠近《おちこち》で、急に申し合わせたように鳴き始めた。
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竹取翁 おう、山鴿が鳴き始めた。……儂《わし》にはもうあれの唄う可愛らしい唄声も聞えなくなってしまった。……儂はまるでつい昨日のことのように覚えている。あの子は山鴿が鳴き始める頃になるときまって唄をうたい出したものじゃ。山のわくらべどもと一緒になって、可愛い声を出して唄をうたい出したものじゃ。……儂にはもうそれさえ聞えなくなってしもうた。あれはもう二度と儂の前に姿をあらわしては来ぬような気がする。あれにはもうこの儂が必要ではなくなったのじゃ。なよたけのかぐやは竹取翁を見離して行きまする。この儂を見棄《みす》てて、貴方のものになるのじゃ。あれにはもうこの竹の里は要《い》らぬものになってしもうた。……御覧なされ。なよたけを失うたこの伝えの里はだんだんと荒れすさんで行きまする。……おう、風じゃ。滅《ほろ》びの風が吹きつのりはじめた、……この伝えの里は儂と共に滅びて行きまするのじゃ。……お願い致しまするぞ。儂に代ってなよたけのいいつたえを信じて下され。儂に代ってなよたけを夢みて下され。
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竹の葉に不気味な音を立てて、強い風が吹きつのり始めた。竹の落葉が烈しい渦《うず》を巻いて、二人の足許に乱れ散り始める。風の音に交って、不安げな山鴿の声、しきり。
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