文麻呂 なぜです、お父さん。まだです。
綾麻呂 ――聞いてごらん。(鐘の音)……あれは寺々が夕方の勤行《ごんぎょう》の始まりをしらせる鐘の音だ。御覧《ごらん》。太陽が西に傾いた。黄昏《たそがれ》が平安の都大路《みやこおおじ》に立籠《たちこ》め始めた。都を落ちて行くものに、これほど都合《つごう》のよい時刻はあるまい。このひととき、家々からは夕餉《ゆうげ》の煙が立上り、人々は都大路から姿をひそめる。その名もまさに平安の、静けき沈黙《ちんもく》が街々の上を蔽《おお》うている……
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沈黙。あちこちから静かに鐘の音。
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人目をはばかる落人《おちうど》にとっては、これこそまたとない機会だ。うっかりしていると、すぐ夜の帳《とばり》が落ちかかるからな。暗くならない内に、私は国境いを越して、出来ることなら、今夜のうちに滋賀《しが》の国のあの湖辺《みずうみべ》の町までは何とかして辿《たど》りついてやろうと思っている。おや! あそこの善仁寺ではもう勤行を始めたらしい。……文麻呂、やっぱり時間だよ。
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