みことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここといえども 霞《かすみ》立つ 春日《はるひ》かきれる 夏草香《なつくさか》 繁《しげ》くなりぬる ももしきの大宮処《おおみやどころ》 見ればかなしも。
文麻呂 (厳《おごそ》かに)柿本《かきのもと》ノ朝臣人麻呂《あそんひとまろ》。過[#(ギシ)][#二]近江[#(ノ)]荒都[#(ヲ)][#一]時作[#(レル)]歌。…………
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
綾麻呂 む。………
文麻呂 お父さん。そりゃ、僕だって三史や五経の教訓の立派なことくらいようく分っています。「李太白《りたいはく》」だって僕には涙の出るほど有難い書物です。だけど、あの教義をただ断片的に暗誦《あんしょう》して博識ぶったり、あの唐風《からふう》の詩から小手先の技巧を模倣《もほう》してみたりしたところで何になるでしょう? 要するに僕は、………自覚がなければ問題にならないと思うのです。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
綾麻呂 文麻呂。………お父さんはあるいは誤解しておったかもしれん。この本は、残念ながらまだお父さん読んだことがないからよく分らんけれど、お前のやろうとしてることはどうやら間違ってはおらぬようだ。いや、そう云う心構えさえあるのならば、歌は遠慮なく作りなさい。けれども、真の儒教精神もこれまた大切なものだから、経書の勉強も決して怠《おこた》ってはいけません。いかにそれを日本的に生かすかがお前達の仕事なのだからな。………うむ、それはそうかもしれん。奈良朝時代の人達は、少くとも私達よりはもっとずっと純粋で、日本の心を知っておったかもしれんよ。いや、お前のやり方については、もうつべこべ云わぬ方がよさそうだ。自分の正しいと思ったことは、躊躇《ちゅうちょ》せずに思い切って最後までやり通すようにしなさい。
[#ここから2字下げ]
突然、夕闇が迫《せま》り、舞台薄暗くなる。
[#ここから1字下げ]
おや! 急に日が暮れてしまった! うっかりしていたら、夕日が朝日ヶ峰にかくれてしまった! こりゃ、ぐずぐずしてはおられない。少し長話しをし過ぎてしまったようだ。さ! 文麻呂! いよいよお父さんは行くぞ!
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
文麻呂 (厳然たる姿勢をとる)御機嫌《ごきげん》よろしく、お父さん!
綾麻呂 臣、石ノ上ノ綾麻呂、今、無実無根の讒言《ざんげん》を蒙《こうむ》って、平安の都を退下《たいげ》し、国司となって東国に左遷《させん》されんとす。………文麻呂いいか? もう一度、返答だ!
文麻呂 はいッ!
綾麻呂 勲《いさお》高き武人《もののふ》の家系、臣、石ノ上ノ綾麻呂から五位の位を奪いとった我等が仇敵《きゅうてき》は?
文麻呂 (凜《りん》たる声)大納言《だいなごん》、大伴《おおとも》ノ宿禰御行《すくねみゆき》!
綾麻呂 巧みなる贈賄《ぞうわい》行為で人々を手馴《てな》ずけ、無実の中傷で蔵人所《くろうどどころ》の官を奪い、あまつさえその復讐《ふくしゅう》をおそれて、臣、石ノ上を東国の果《はて》に追いやった我等が仇敵は?
文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!
綾麻呂 あるいはまた、その一人息子、文麻呂の出世を妨げんとて、大学寮内よりこれを追放し、より条件の悪い別曹《べっそう》、修学院などへと転校せしとめたる我等が仇敵は?
文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!
綾麻呂 よし!……くれぐれも我々の受けたあの侮辱《ぶじょく》だけは忘れないようにしなさいよ。不潔な血を流すことはたやすいことだが、我々はそんな他愛もない復讐はいさぎよしとしないのだ。お前は平安の都に残って、孜々《しし》として勉学にはげみ、立派な学者となる。私は東国の任地に赴《おもむ》き、武を練り、人格を磨いて、立派な武人となる。そうして、いつの日にか二人がまたこの地で相まみえる時があるとすれば、その時こそ、大伴ノ御行は必ずや地下人《じげびと》かさもなければ、それ以下の庶民《しもびと》にまで失墜《しっつい》するであろう。………(中央を向き、感慨深く)ああ、平安の都もどうやらこれでしばらくは見納めなのだな。………さて、いつまでぐずぐずしていてもきりがない。では、文麻呂、儂《わし》は出掛ける!
文麻呂 じゃ、お父さん! お気をつけて!
綾麻呂 お母さんのお墓参りだけは決して欠かさないようにしなさいよ! じゃ、元気で勉強しなさい! それから、瓜生《うりゅう》ノ衛門《えもん》だが、あれはもうだいぶ年をとってしまったから、あまり役には立たんだろうが、ま、よく面倒をみておやりなさい。あれだけはいつも変らぬ我々の忠
前へ
次へ
全51ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 道夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング