え、あの切株《きりかぶ》に腰《こし》を下して、もう少し色々なことを饒舌《しゃべ》り合いましょうよ。鴉が鳴くまでです。出発はそれからでも充分間に合いますよ。本当に保証します。……さあ、お父さん、お願いです。鴉が鳴くまで、せめて鴉が鳴くまでです。
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塒《ねぐら》へ帰る鴉が二三羽、大声で鳴きながら二人の頭上を飛んで行く。長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]
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文麻呂 (低い声)やっぱり、お別れですね。
綾麻呂 (しんみりと)ま、いずれは別れねばならない運命だったのさ。
文麻呂 任地にお着きになっても、身体だけは充分に気を付けて、御病気にならないように注意して下さい。
綾麻呂 む。
文麻呂 お父さんはお酒を召し上らない代りに、甘いものとなると眼がないから、ちょっと油断をして食べ過ぎをなさるとすぐお腹《なか》をこわします。
綾麻呂 有難《ありがと》う。充分に気をつける。お前も充分健康に留意して、無理をしない程度に、「文章《もんじょう》の道」を一生懸命に研鑚《けんさん》するんですよ。一日も早く偉くなって、お父さんを安心させておくれ。お前はお役所に勤めるのはどうも以前からあまり気がすすまなかったらしいが、いや、それならそれでもいい。お父さんは決して反対はしない。まあ、立派な学者になって、「文章博士《もんじょうはかせ》」の肩書でも貰《もら》ってくれれば、お父さんはそれだけでも大手を振って自慢が出来るからな。そうなれば、お父さんの受けた恥《はじ》も立派に雪《そそ》ぐことが出来るというものだ……しかしね、文麻呂。お前はどうも、この頃清原の息子《むすこ》や小野の息子達と一緒《いっしょ》になって、やれ「和歌」を作ってみたり、「恋物語」を書いてみたりしているらしいけれど、あれだけはお父さんどうしても気に掛ってしかたがないな。第一、外聞《がいぶん》が悪いよ。ああ云うものは当世の情事好《いろごとごの》みのすることで武人の血を引く石ノ上ノ綾麻呂の息子ともあろうものが、あんなものにかぶれるなどと云うことは大体、体裁《ていさい》がよくないからな。ことに学問の道に励《はげ》むものにはああ云うものは何の益もない代物《しろもの》だ。「芸術」と云うものか何と云うものか儂《わし》にはよく分らんが、お父さんに云わせればあんなものは不潔だ。ああ云う「遊びごと」だけは今後|是非《ぜひ》とも止めて欲しいもんだな。
文麻呂 (烈《はげ》しく)遊びごとではありません!
綾麻呂 (びっくりする)
文麻呂 (涙さえ含んで)お父さん、少くとも僕にとっちゃあれは決して「遊びごと」ではないつもりです。僕達の「詩《うた》」があんな巷《ちまた》で流行しているような下らない「恋歌」のやりとりと一緒くたにされては、僕は……情無くなって、涙が出て来ます。お父さん。僕はきっと立派な学者になってみせますよ。お望みなら「文章博士」にだってなります。ただ、詩《うた》だけは作らせて下さい。「文章博士」が経書の文句の暗誦《あんしょう》をするだけなら、あんなもの誰《だれ》だってなれます。だけど、そんな知識を振翳《ふりかざ》したって何になるでしょう。そんな学問はただの装飾です。いくら紅《くれない》の綾《あや》の単襲《ひとえがさね》をきらびやかに着込んだって、魂《たましい》の無い人間は空蝉《うつせみ》の抜殻《ぬけがら》です。僕達はこの時代の軟弱な風潮に反抗するんです。そして雄渾《ゆうこん》な本当の日本の「こころ」を取戻《とりもど》そうと思うんです。僕達があんな下らない「恋歌」や「恋愛心理」にうつつをぬかしているとお思いになるんでしたら、それこそそれは大変な誤解です。今、僕達の心を一番|捉《とら》えているのは、例えばそれはお父さん、……これなのです。(懐《ふところ》から一冊の本を取り出す)
綾麻呂 よろずはのあつめ……
文麻呂 万葉集って読むんです。
綾麻呂 奈良朝のものだな?
文麻呂 お父さん。これこそ僕達の求めてやまぬ心の歌なのです。
綾麻呂 巧《うま》い歌があるのかな? (黙って頁を繰《く》っている)
文麻呂 読んでごらんなさい。どこでもいいから、お父さん、ひとつ読んでごらんなさい。
綾麻呂 (何気なく開いたところを読み始める。夕日が赤々と輝き始める)玉だすき 畝火《うねび》の山の 橿原《かしはら》の 日知《ひじ》りの御代《みよ》ゆ あれましし 神のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天《あめ》の下 知ろしめししを そらみつ やまとをおきて 青によし 平山《ならやま》越えて いかさまに 思ほしけめか 天《あま》さかる 夷《ひな》にはあれど 石走《いわばし》る 淡海《おうみ》の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ すめろぎの 神の
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