実な従僕《しもべ》だ。ああ、忘れていた。これ。万葉集………
文麻呂 いえ、それはお父さんに差上げます。僕はもう一冊持っていますから。東国の任地などでしみじみとお読みになるにはこれほどよい書物はありません。
綾麻呂 そうか。それでは記念にひとつ貰《もら》っておこう。これはなかなかよさそうな本だから、お父さんもじっくり読んでみることにしよう。それから東国へ下る人があったら、必ず手紙をくれるんですよ。ああ、だいぶ遅くなってしまった。山科《やましな》の里では供奉《ぐぶ》の者達がさぞや待ちかねていることだろう。では、文麻呂。さらばじゃ!
文麻呂 さようなら! お父さん!
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石ノ上ノ綾麻呂、左方へ下りて行く。退場。
文麻呂。独り中央丘の上に残る。
あたりには夕闇が立ち籠《こ》めている。………
文麻呂は傍の木の切株に腰を下ろして、冥想《めいそう》に耽《ふけ》り始める。………
遠近《おちこち》の広大な竹林の竹の葉のざわめく音が無気味に響き渡りはじめる。………
文麻呂ぎょっとして後をふりみる。
風。………そして、時折、山鴿《やまばと》の物淋《ものさび》しげな鳴声がし始める。
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文麻呂 (独白)風か!………
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文麻呂は何やら急に耐え難い孤独感に襲われるのであった。懐《ふところ》より横笛を取り出して、親しい「曲」を奏し始める。澄んだ笛の妙音、風に伝わって、余韻嫋々《よいんじょうじょう》………舞台、しばらくは横笛を奏する文麻呂。
文麻呂、突然、何か不思議な予感に襲われたもののように唇《くちびる》からふと横笛を離す。耳を澄ます。――どこからともなく、こだまのように同じ曲が響いて、………消える。
文麻呂、不思議な笛の反響を解《げ》せぬ態度で、もうひとしきり吹いて、再び突然、唇から笛を離してみる。耳を澄ます。
――やはり、どこからともなく、同じ曲が響いて、………消える。文麻呂、もう一度今度は思い切り強く吹いてみる。――やはり、どこからともなく同じ音が反響する………
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文麻呂 (不気味な気持に襲われて、すっく[#「すっく」に傍点]と立上り)誰《だれ》だ!………
声 誰だ!………
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清原ノ秀臣《ひでおみ》、同じように横笛を片手に、丘の向側からつと[#「つと」に傍点]文麻呂の背後に現れた。
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清原 石ノ上ノ文麻呂ではないか?
文麻呂 (びくんとして振向き)なんだ、清原。………君だったのか?
清原 大学寮学生、清原ノ秀臣。………僕だ。
文麻呂 一ヶ月前だったらこの僕も同じ「名乗り」を堂々と名乗り返せたのになあ。……残念ながら、今では、別曹《べっそう》、修学院学生、石ノ上ノ文麻呂……か。
清原 おい、石ノ上。そのことだけはいつまでもそうくよくよ気に掛けるのは止めてもらおうじゃないか。学校がどうのこうのと云ったって、正しい文《ふみ》の道はただ一つさ。小野ノ連《むらじ》にしろ、この僕にしろ、君とは一生を誓い合った同志じゃないか。その繰言《くりごと》だけはもういい加減に止めたまえ。………ところで石ノ上。お父様は? もう発《た》たれたの?
文麻呂 ああ、いまさっき。………ここで別れたところなんだ。何だか、今夜中に三井寺《みいでら》を過ぎて、滋賀《しが》の里までは是《ぜ》が非《ひ》でも辿《たど》り着くんだなんて、とても張り切ってたよ。
清原 そりゃ大変だな。殊《こと》に夜道になると逢坂山《おうさかやま》を越えるのは一苦労だぜ。……でも、何だってよりによって夕方なぞにお発ちになろうなんてお考えになったのかな。
文麻呂 人目を忍ぶ旅衣《たびごろも》と云う奴さ。でも、親父《おやじ》、あれで内心東国にはとても抱負があるらしいんだ。まあ、別れる時は割合に二人共さっぱりしてて、気が楽だったよ。山科《やましな》の里まで行けば、供奉《ぐぶ》の者がたくさん待っているそうだから……
清原 そうか。それなら安心だ。……いや、実は、妙《みょう》な所で君に逢ったんで、びっくりしちゃってね。
文麻呂 僕もびっくりした。こんな処《ところ》にまさか君が来ようとは思わなかったからな。僕は君をこだまと間違えてしまった。………
清原 え?
文麻呂 こだまさ。例えば、そら、向うの竹山から春風に乗って反響して来るこだまと間違えたのだよ。竹の精と間違えてしまったのさ。
清原 竹の精?
文麻呂 うん。ま、竹の精とでも云うんだろうな。何だか、そんなものがこの辺なら現れそうな気持がしたんだ。この丘へ登ってみたのは、実は僕は今日が初めてなんだがね。とにかく
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