瀬もない冥途《めいど》の河原。……何分遠い昔の想《おも》い出《で》話でございますでな。手前は父上様にお仕《つか》え申す身になって四十年。……華《はな》やかな平安のみやびの中であのようにしあわせ過ぎる位の身の上でございましたもので、そんな娘のことなぞすっかり忘れてしまっておりましたのです。ところがつい最近のことですが、風の便りか山ほととぎす。……お坊ちゃま、実はその娘がまだ手前の帰って来る日をたった独《ひと》りで待っていると云う話をふと、耳に致しましたのです。それを聞きました時には、ちょうど、今度のお父上の御栄転騒ぎで、都のお勤めからは手前もいよいよ身を引潮の漁《いさ》り歌と云うわけで、……何となくすずろな憂身《うきみ》をやつしておりました最中だったもんで、何と申しますか、……人里離れた生れ故郷の瓜生の里が無性《むしょう》にこう……懐《なつか》しくなって参りましてな。
文麻呂 ふーん? そうだったのかい。……いや、そう云うことなら衛門、そりゃ僕もとてもいいと思うよ。僕も大賛成だ。……故郷の山の中で一生を契《ちぎ》り合ったひとと二人っきりで瓜を作る。……いいな。羨《うらやま》しい生活だ。幸福な余生だ。衛門、……こんな汚れ多い都会の生活はもうお前のように正直な男には用のないものだよ。大切なのは孤独と云うことだ。真剣に生きると云うことだ。お婆《ばあ》さんもさぞ悦《よろこ》ぶことだろう。
瓜生ノ衛門 お婆さん?
文麻呂 や、こりゃ失礼。……だって、衛門。そりゃあもうだいぶお婆さんだろうじゃないか? 四十年も前に………
瓜生ノ衛門 (そう云われて、ふと、今更のように四十年の経過を思い起し)ああ、……さようでございましたな。……む、そこんところを衛門もう少し考えてみなければなりませんでしたな。む。さようでございますとも。いくら手前に惚《ほ》れ込んだと申しましても、……四十年間、年もとらずに娘のまんまで手前を待ってるなんてわけは、どう考えたって、そんなことは有りゃしませんですからな。(何だか少々情無い気持になって来る)いや、そりゃもう大変婆さんになっとりましょう。……何せ、手前が二十六で、あれがそう、かれこれ……
文麻呂 衛門!………そんなことは問題じゃないよ。顔に皺《しわ》が何本出来ていようと、どんなに腰が曲っていようと、お前を待っているのは忠実なひとりの少女の心だ。ね? 衛門、そうだろうが?
瓜生ノ衛門 そうでございましょうか?
文麻呂 なんだい、馬鹿に自信がなくなっちゃったんだね。そうだよ! 僕が保証する! そうだとも! 瓜生ノ衛門の帰りを、四十年間、ただひたすらに思いつめ待ちわびているのは美しい、ひとりの忠実な心の少女だ!
瓜生ノ衛門 (感動して)……有難うございます。……有難うございます。……瓜生ノ衛門、明日にでも早速婆さんに逢《あ》いに瓜生の山に帰ってみようと存じます。
文麻呂 それがいいよ、衛門。瓜生の山奥と云ったって、ここからは二里とは離れてやしないんだから、僕だって逢いたくなりゃいつだって逢いに行けるんだ。……ああ、何だか急に風が強くなって来たようじゃないか。
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竹林のざわめきが、急に何やら騒がしくなって来る。……不穏《ふおん》な風の渡る音。山鴿《やまばと》の鳴く声さえも、途絶え勝ちだ。空模様もだんだんあやしくなって来る。燦然《さんぜん》と瞬《またた》いていた星々も、あっちにひとつこっちにひとつとだんだん消え失せて行く………
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瓜生ノ衛門 (不安そうに)何だか気味の悪い空模様になって参りましたな。嵐でも来そうな気配《けはい》でございますよ。……そろそろお家へお帰りになってはいかがです?
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強い風が不気味な音を立てて、吹きわたりはじめた。
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文麻呂 おう、竹の葉があんなに烈《はげ》しくざわめき始めた。星々がだんだんと消えて行く。………(独白)父上は大丈夫だろうな? 竹林の「恋」は健在かな?
瓜生ノ衛門 (何やらはた[#「はた」に傍点]と思いついて)文麻呂殿! 瓜生ノ衛門、すっかり失念致しておりました! 実は手前、大変な噂《うわさ》の証拠をつきとめたのでございます。大納言様のことでございます。大納言様の道ならぬ浮名《うきな》の恋でございます。しかも相手はとんだ賤《いや》しい田舎娘《いなかむすめ》。いや、これだけはっきり尻尾《しっぽ》を掴《つか》んだら、それこそ大納言様の名声もたちどころ、と云ったよりどころでござりますぞ。昨日の午後《ひるすぎ》でござりました。手前、何気なくこの先の竹林に筍《たけのこ》を探しに参ったのでございます。……どうでしょう!
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