ならない。なよたけが僕を呼んでいる………
文麻呂 (きっぱりと)行きたまえ!
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清原、脱兎《だっと》のごとく、やや左手奥へ駆け下りて行く。
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文麻呂 (清原の後姿を見送りながら、独白)清原。……貴様は、完全に……「恋」の虜《とりこ》だ。………
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燦然《さんぜん》たる星空を背景に丘の中央に、影絵のごとく立っている文麻呂。
わらべ達の謡《うた》う童謡《わざうた》がだんだんと明瞭に聞えて来る。………
〔わらべ達の唄〕
なよ竹やぶに 山鴿《やまばと》は
るら るら
やよ春のとり 春のとり
るろ るろ
なよ竹の葉に るうら
るうら るら
春風にざわめく竹林の音と、わらべ達の謡う愛らしい童謡《わざうた》の旋律《せんりつ》と、時折|淋《さび》しげに鳴く山鴿の鳴声が、微妙に入り交り、織りなされ、不可思議な「夢幻」の諧調となって、舞台はしばらくは奇妙に美しい一幅の「絵図」になってくれればいい。文麻呂は何か吾《われ》を忘れたもののように、じっと遠く竹林の方を見ている。……
やがてわらべ達の唄声が次第に遠く消えて行く頃、瓜生《うりゅう》ノ衛門《えもん》、右手より現れる。丘の上の人影をそっと窺《うかが》うようにみている。
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瓜生ノ衛門 (文麻呂だと分ると、低い声で)文麻呂様。……文麻呂様。………
文麻呂 (その声にふと我に返り、あたりを見廻すが、暗くてよく分らない。空耳かな、とも思う)
瓜生ノ衛門 お坊ちゃま。………ここですよ。こちらでございますよ。
文麻呂 誰だ!
瓜生ノ衛門 私でございます! 瓜生ノ衛門でございます。
文麻呂 なんだ、衛門か。……お前だったのか? びっくりさせるじゃないか、こんな処《ところ》に……
瓜生ノ衛門 (笑いながら、近寄って行く)やっと見付けました。ずいぶん方々お探し申したんですよ。……お父上はもう?
文麻呂 (丘の上から下りて来る)む。行ってしまわれた。……元気に発《た》って行かれた。
瓜生ノ衛門 東路《あずまじ》はさぞ淋しゅうござりましょうな。……手前もお供致しとうございました。………でも、供奉《ぐぶ》のものはみな大伴《おおとも》様の御所存だったので、……残念ながら、……致し方ござりませぬ。
文麻呂 む。あの供奉の連中ね。……まあ、あれは大納言の決めた人達なんで、心配でないこともないんだが、……しかし、父上のあの高邁《こうまい》な「人格」はたとえどんな腹黒い奴等《やつら》でも、たちどころに腹心の家来にしてしまうよ。僕はそう信ずる。……ねえ、衛門、そうだろうが?
瓜生ノ衛門 そうでございますとも。……瓜生ノ衛門、今更《いまさら》ながら御父上から受けました四十年の御厚誼《ごこうぎ》、つくづくと身に沁《し》みまする。……(涙して)しがない瓜《うり》作りの山男を……これまでに……
文麻呂 まあ、いいさ、衛門。過ぎ去った過去のことを思い出してくよくよするのは、遠い先の未来のことを妄想《もうそう》して思い上るのと同じくらい愚劣な空事《そらごと》だからな。一番大切なのは現在だ。現在の中に存在する可能性だ。……ところで、衛門。お前、これから、どうする積り?
瓜生ノ衛門 手前、生れ故郷の瓜生の山里に帰って、また瓜作りでも始めようかと思います。
文麻呂 え?
瓜生ノ衛門 また瓜でも作ろうと思うのでございます。この上、お坊ちゃまに御厄介《ごやっかい》をお掛け申すのは、この衛門、とても忍びのうございますでな。それに、お坊ちゃま。(柄《がら》になく恥しそうに笑う)へ、へ、へ、へ、へ、………
文麻呂 何だい。気持が悪いね。……それに? どうしたって云うんだい?
瓜生ノ衛門 へえ、誠《まこと》に気恥しくて申し上げにくい話なんでございますが、……実は手前……瓜生の里には四十年前に云い交した許婚《いいなずけ》がひとり待って居るんでございます。
文麻呂 許婚?
瓜生ノ衛門 へえ、まあ、そのような……へ、へ、へ、へ、へ、……
文麻呂 おい、おい。衛門。お前もなかなか隅《すみ》には置けないね。六十八にもなって許婚とは……さすがの僕も恐れ入っちゃった。それじゃ、まあ、惚《のろ》け話の花でもひとつ咲かせてもらおうかい。
瓜生ノ衛門 いや、お坊ちゃまの方から先にそう開きなおられると、せっかくの花も蕾《つぼ》んでしまいます。………実を云えば、手前、若気《わかげ》のあやまち、とでも申しましょうか、……今から四十年前の昔でございます。手前がまだ瓜作りをやっておりました時分、ふとした浮気心から云い交した娘がございました。と云いましても、名前も顔もはっきりとはとても浮ぶ
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