様! 文麻呂様が来ていらっしゃいますよ!
綾麻呂 (丘の上から)おう、文麻呂か!……なんだ、お前も来ていたのか?
文麻呂 ええ。
綾麻呂 どうだ! 見えるか! あの素晴しい不尽の山が見えるか!
文麻呂 ええ。さっきから見ていたんです。……
綾麻呂 うむ、……それはちょうどよかった。今しがた、雲が晴れたばかりの所なのだ。見ろ! 今日の不尽は、まるで後光がさしているような神々しさだぞ!
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間――
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文麻呂 (不尽を凝視《みつ》めながら、静かに)……僕が夢に画《えが》いていた通りでした。長いこと夢に画いていた通りでした。……お父さん、僕はたった今「物語」をひとつ書き上げて来たんです。それはまだ見ぬ不尽の煙が天雲の彼方《かなた》へたちのぼる場面で終ったのです。……不尽は、今朝からもう僕の頭の中にはっきりこの通りの姿で浮び上っていました。この通りの姿で僕の中に生き始めていました。……(瞳を輝かして)……この通りでした。
衛門 文麻呂様!……貴方は今日はまるで人が変ったように晴々とした顔付をなすっていらっしゃいます。
文麻呂 衛門、……それはきっと僕の心の隅々《すみずみ》まですっかり晴れ渡った証拠なのだよ。……僕がまた新しい僕自身を取戻した証拠なのだよ。……僕はこの日のためにすべてに耐《た》えて来た。とうとう恵まれた日がやって来たのだよ。新しい僕のいのちが蘇《よみがえ》って来たのだよ。
綾麻呂 文麻呂!……お前、ちょっと、ここへ上って来んかな?……お父さんは今日はお前としばらく話がしたいんじゃ。
文麻呂 ええ。
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文麻呂、無言で丘の上に上って行く。
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衛門 (文麻呂の言葉に触れて、何やら理由の分らぬ爽朗《そうろう》の気が身内に溢れて来た。……)旦那様!……それでは手前は失礼致して……
綾麻呂 ああ、行っておいで!……まあ、ひとつ精を出して、立派な瓜畠を作ってくれるのだな!
衛門 (剽軽に)かしこまりましてございます!
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衛門、右手奥へ退場。綾麻呂は笑いながらその後姿を見送っている。
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綾麻呂 なあ、文麻呂。……衛門の奴はこの東路《あずまじ》の果《はて》に来てまでも、瓜を作る積りなのだそうじゃ。この東国が瓜で一杯になるまでふやしてみせますぞと、いやもう大した意気込なのだ。……面白い奴だよ。……この年になっては家内を貰《もら》っても子供の出来る見込みがないから、その代りに瓜を嫌になるほど育ててみせる積りですじゃと、そう儂《わし》に云うとった。
文麻呂 (これも明るい微笑で、丘の上から衛門の後姿を見送っている)
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間――
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綾麻呂 文麻呂。……まあ、ここへ、ひとつ、坐らんか?
文麻呂 ええ。
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二人、並んで掛台に腰を下ろす。父は何やら気まずい。
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綾麻呂 どうだ、相模《さがみ》の国は気に入ったか?
文麻呂 ええ。
綾麻呂 お父さんはな、……お前がここへやって来たことを、とても喜んでいる。
文麻呂 そうですか。
綾麻呂 お父さんだって、実を云えば、お前をたったひとり都へ残しておきたくはなかったのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前がどうして都を離れる気になったか、そんなことは儂は決して詮索《せんさく》する気持はない。……だが、いったん、この東国に来た以上はもう絶対に都の生活なぞに未練を感ずるようなことがあってはいけないよ。この東国は厳しい試煉の土地だ。……都の人間達のようなあんな惰弱《だじゃく》な気持ではとても生きては行けないのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前にも追々分って来るだろうと思うが、ここでは人間はのらりくらりと遊び暮して行くわけにはゆかない。飯を食おうと思えば、畠へ出て血の汗を流して米を作らなければならないし、烈しい雨風とも戦わねばならない。あるいは、憎むべき不逞《ふてい》の賊《やから》どもがいついかなる場合に我々に刃向って来るかも分らないのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前はこれからはこの厳しい生活に耐《た》える強い人間にならなければいけないんだぞ。
文麻呂 (黙って頷《うなず》く)
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間――
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綾麻呂 (しんみりと)儂《わし》は前からお前は本当に可哀想な奴だと思っていた。……幼いうちから、お
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