性から抜けきれないと見える、……歌を作るのもいいが、ああして一日中ろくに飯も食わずに部屋の中にくすぶっていたって、いい歌が出来るはずはない。……あれも長いこと都の中で育った故《せい》か、どうもあの軟弱な都の悪風に染まってしまって、豪放《ごうほう》なところが欠けていて困る。あれだけは厳しく躾《しつ》けて直さなければどうにもならんな。……都の奴等《やつら》と来たら、全く軽佻浮薄《けいちょうふはく》だ。あのような惰弱《だじゃく》な逸楽に時を忘れて、外ならぬ己《うぬ》が所業で、このやまとの国の尊厳を傷《きずつ》け損《そこ》ねていることに気がつかぬのじゃ。……衛門! 今や、東国を初め、地方の秩序は紊《みだ》れに紊れているのだぞ! 都の連中が「あなめでたや、この世のめでたき事には」などとうそぶいて、栄華《えいが》に耽《ふけ》っている間に、地方の政治は名状し難いまでに紊乱《びんらん》してしまった! 悪辣《あくらつ》な国司どもは官権を濫用《らんよう》して、不正を働き、私腹を肥《こや》して、人民を酷使《こくし》している。今こそ、長いこと忘れられていた正義の魂がとり戻されねばならぬ時なのだ!……まあ、幸い、ここ、相模《さがみ》の国だけはまだ平穏無事だとは云うものの……それでも、決して安心はしてはおられんのだ。足柄《あしがら》の箱根の山の中には数え切れぬほどの不逞《ふてい》の賊《やから》どもが蟠居《ばんきょ》しているのだそうだ。いつ我々に対して刃向《はむか》って来るか分ったものではない。……平和な国土を我物顔に跳梁《ちょうりょう》する憎むべき賊どもが巣喰《すく》っているのだ!
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急に、雨雲が晴れ渡って、太陽が燦々《さんさん》と輝きはじめた。
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衛門 おう! 旦那様! あれは不尽山《ふじさん》ではございませんか! あれは不尽山ではございませんか! (前方右手を指さしている)
綾麻呂 うむ! そうだ! あれが不尽の山だ! あれが不尽の山だよ! (空を仰いで)おお、それにしても何と云う不思議だ! つい今しがたまで、あのように鬱陶《うっとう》しく立ちこめていた雨雲が、いつの間にやら、まるで嘘のように跡方もなく晴れ渡ってしまったではないか?……それに、どうだ! 衛門! 今日の不尽は嘗《かつ》て見たこともない神々《こうごう》しさだぞ! こんな荘厳な不尽を見るのは儂《わし》も初めてだ! 見ろ! あの白銀《しろがね》に燦《きら》めく頂《いただ》きの美しさを!……おう! 後光だ! あれはまるで神の後光だ!
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いつの間にか、文麻呂が向う側から丘の中腹に姿を現わして、輝やかしい瞳《ひとみ》でじっと不尽山をみつめながら、立っている。丘の上の二人は気が付かない。舞台右手奥の方にも遠い連山が見え始める。
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綾麻呂 衛門! 長い旅路を遥々《はるばる》ここまでやって来た甲斐《かい》があったろう? ん?
衛門 (恍惚《こうこつ》として見ている)はい。
綾麻呂 都の奴等がいくら偉そうにわめき立てたところで、この素晴しい不尽ヶ嶺の偉容を仰いだものは一人もおらんのだ。……どうだ! あの天の果までとどくばかりの噴煙を見ろ!……なあ、衛門。あの山の頂きは日本中で一番天に近いのだぞ。それから、あの雪だ。あれは、千古の昔から消えたことのない不滅の雪だ。これからも永久に消えることのない不滅の雪だ。
衛門 (ふと、吾《われ》に返って)旦那様! 手前、これからちょっと婆さんの所に知らせに行ってやろうと存じます。実は、手前ども、今朝は暗いうちから起きて、あちらの雑木林に瓜畠を作っておったのでございます。今日は天気もよくなりましたし、ひとつ、婆さんと一緒に不尽山を眺めながら、瓜の種を蒔《ま》いてやろうと思っています。瓜生の里から遥々持って参じましたあの少しばかりの瓜の種が、不尽山の御加護によって、この東国の地にうまく実を結んでくれますれば、手前もう何ひとつ思い残すこともなく、喜んで死ねるのでございますがな。
綾麻呂 む。やってみなさい。それは、早速やってみなさい。
衛門 (剽軽《ひょうきん》に改まって)旦那様!……後の世の人達が、もしこの東国の地でたらふく瓜を食うことが出来るとしたら、それは外ならぬこの瓜生ノ衛門のお陰でござりますぞ!
綾麻呂 (笑って)うむ、そうとも、衛門。それはそうだ。
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衛門、妙に若やいで、剽軽に笑いながら、丘を駆け下りて行くと、文麻呂が立っているので、びっくりしたように、……
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衛門 おや! 文麻呂様!……旦那
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