母さんにも死別れて、儂のような無骨《ぶこつ》な父親の手ひとつに育てられて来た。……しかし、もうお前は立派に一人前の男のはずだ。儂がいつ死んでも立派にひとりで生き抜いて行ける一人前の男になっていると思っている。……儂はな、文麻呂。人間の運命と云う奴は、実に不思議なものだと思うのだよ。儂が都からここへ左遷《させん》されると聞いた時には、まるで島流しにでもされるような気になってずいぶん心細い嫌な思いをしたものだが、どうだ、ここへ来てみると、もうあんな不愉快な都へなんぞ二度と足を踏み入れる気がしなくなってしまった。ここへ来て、儂はまるで死場所を得たような気持がするよ。こうして、遥かな東国へ来てみると、あんなごみごみした、愚劣な人間達の寄り集っている狭っくるしい都の中で、なんでまあ、あのように浅間《あさま》しく名声なぞと云うものにこせこせ執着していたのだろうと思ってなあ。まるで、夢のような気がするよ。やれ、位が一つ上ったと云っては鬼《おに》の首をとったように大騒ぎをして喜んでみたり、やれ、大伴の大納言は一生の敵《かたき》だなんぞとむきになって憎んだりしていたあの頃の自分がまるで嘘のように馬鹿馬鹿しく思われて来るのだよ。本当に儂はもう一生あんな馬鹿げた所へは帰りたくなくなった。……この広大無辺の大自然の中に溶け込んでいると、何だかもう、このまま儂はいつ死んでもいいような気がする。今では、あの崇厳な不尽の山を眼《ま》のあたりに眺めながら死ぬと云うことがこの儂の理想なのだよ。儂は、この頃つくづくそう云うことを考えるようになった。……全く人間と云う奴は可笑《おか》しなものさ。……文麻呂! この頃儂はな、都の奴等のことなどをふと思い出すと、腹を抱えて大声で笑い出したくなるのだ。
文麻呂 (静かに)お父さん、……あれはみんな前の世の夢なのですね。僕には何だかそんな気がします。もう自分には何の縁《ゆかり》もなくなった遠い前世の夢が、悔《くい》もなく、ただ遥かな想い出のように蘇《よみがえ》って来るのです。
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間――
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綾麻呂 まあ、……お互いに都のことなぞもういっさい考えぬことにしようではないか。……こんな広々とした自然の懐に抱かれているんだ。お前ももっとのびのびした気持にならなければいけない。歌や物語を作るのもいいが、お前のように一日中狭っくるしい部屋の中に閉じこもっていたって、決していいものは出来ないと思うな。第一、あれでは身体に障《さわ》るよ。儂はそれが一番心配なのだよ。……ああ、そうそう! 文麻呂! お前、覚えているだろう? 儂がこっちへ赴任する日に、お前が儂に記念にくれた小さな歌の本があったね?
文麻呂 万葉集ですか?
綾麻呂 うむ。……あれはいい本だな。あれはお父さんも感心した。どの歌もどの歌もみんな偽《いつわ》りのない魂がこもっている。歌よみ根性がないから、読む者の心を打つのだ。心の底から詠《うた》いきっているから、こっちの心の底にもひびいて来るのだ。歌を作るならああでなくてはお父さんはいけないと思う。……文麻呂! あの中でな、お父さんの大好きな歌がひとつあるのだ。……
文麻呂 何て云う歌です。
綾麻呂 (遠く不尽を望みながら、朗々と朗誦《ろうしょう》し始める)……
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天地《あめつち》の 分れし時ゆ 神《かん》さびて
高く貴き 駿河《するが》なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を
天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば 渡る日の
影も隠ろい 照る月の 光も見えず
白雲も い行き憚《はばか》り 時じくぞ
雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
不尽の高嶺は……
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文麻呂 (不尽を仰ぎながら)あの時代には国中の人達が美しい調和の中に生きていたのですね。……お父さん! 僕はしあわせです。(うっとりとして)万葉を生んだ国土。うつくしい国土。僕はこの国に生れたことを心の底からしあわせに思っています。
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右手、遠くの方から、瓜生ノ衛門夫婦の唄う「瓜作りの歌」が聞えて来る。

笹山《ささやま》の 山坂越えて
山城の 瓜生の里に
我は 瓜作る 瓜作り
ナヨヤ ライシナヤ サイシナヤ
我は 瓜作る 瓜作り 瓜作り ハレ。
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綾麻呂 文麻呂!……ほら、聞いてみろ! 衛門がお内儀《かみ》さんと一緒に唄をうとうとる……。
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空は紺碧《こんぺき》に晴れ渡っている。どこかで山蝉《やまぜみ》が鳴きはじめた。
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