。手前ども老人は、得てして自分達の過去の過ちを棚に上げて、すぐむきになって若い人達を非難する悪い癖がございます。……あれは悪い癖でございます。
綾麻呂 どんな女子なのだ? え? 衛門。……それはどんな女子なのだ?
衛門 ………
綾麻呂 言ってくれ。……儂《わし》は決してあれを非難しようなどと思っておらん。……ただ、父親としてそれを知っておいた方がいいと思うのだ。
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間――
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衛門 それでは、旦那様。手前、存じているだけのことは申し上げてしまいますが、文麻呂様は御自身でもかたく口をつぐんでおられますので、詳《くわ》しいことは手前とても皆目《かいもく》存じませぬ。……とにかく、これは旦那様の胸の内にだけそっと[#「そっと」に傍点]たたんでおいて下さりますようにお願い致しますぞ。……(声を低めて、静かに語り出す)実は、文麻呂様の心を惑《まど》わしたのは、年若な賤《いや》しい田舎娘《いなかむすめ》なのでございます。讃岐《さぬき》ノ造麻呂《みやつこまろ》と言う竹籠《たけかご》作りの爺《じい》の娘で、これが大変な器量よしで評判でございました。手前、その造麻呂という爺とは、ちょっと知り合っておりました関係上、その娘にも幾度か逢ったことがございますが、文麻呂様が夢中になるのももっともなほど、身分に似合わず、素直で、仲々見所のある娘でございます。ところが、その娘に、旦那様、人もあろうにあの大伴《おおとも》の大納言様が眼をつけましてな、例の手管《てくだ》で物にしようとなさっているのが分ったのでございます。さあ、文麻呂様がそれを聞いて、黙ってはおられません。大納言様の道ならぬ色恋沙汰を世間に振りまいて、これを機会に思い切り懲《こ》らしめてやろうと、そう決心なさったものでございます。手前は実はちょうど、家内と一緒になる積りでおりましたもので、それから間もなく瓜生《うりゅう》の山へ帰ってしまいました。そう云うわけで、その後のことは少しも存じませんでしたが、そうこうする内に、今度は文麻呂様御自身がすっかりその娘の恋の虜《とりこ》になってしまわれたらしいのです。烈《はげ》しい「恋」に気も狂わんばかりになられたとか、これは人から聞いた噂《うわさ》でございました。手前、そう云う噂をさるところから、ふと、耳にしましたもので、何だかひどく心配になり、早速都へ舞い戻って、あの姉小路《あねこうじ》のお宅へ伺《うかが》ってみたのです。……ところが、どうでしょう! いらっしゃいません! お家は空っぽです! さあ、驚きまして、手前、その晩は夜通しあっちへ行ったりこっちへ行ったりして文麻呂様をお探し申しました。……ようやく、あれはもう東の白《しら》む暁方《あけがた》頃でございましたろうか、……旦那様、手前、文麻呂様があの鹿《しし》ヶ|谷《たに》にあるお母上様の御墓所の近くに、死んだようになって倒れていらっしゃるのを見つけたのでございます。すっかり旅姿に身を整えられて、気を失っていらっしゃいました。
綾麻呂 どうしたと云うのだろう?
衛門 どうしたと云うのでございましょうか、手前にも皆目《かいもく》分らないのでございます。それでも、手前が介抱《かいほう》しております内にやっとお気がつきになりましたが、……もうまるで、魂がなくなったように、空《うつ》けた顔付をなされて、ぽかんと手前の顔を凝視《みつ》めていらっしゃいました。しばらくは、そのまま、何だかわけが分らないような御様子《ごようす》でしたが、そのうちに何を思い出されたか、急にぽろぽろ涙をこぼされて、……「衛門! お父様の所へ行こう! 一緒に東国へ行こう!……」と、うわごとのようにこうおっしゃって、手前の腕にすがりつくのでございます。手前も、初めは何だか狐につままれたような気持でございましたが、ま、とりあえず、手前の家でしばらく介抱申上げるのがよかろうと、こう、思いまして、早速それから瓜生《うりゅう》の山の家にお連れ申したわけでございます。そのうちに文麻呂様は間もなくお元気になられました。御身体の方はそう云うわけで、すっかりもと通りになられましたのですが、どうしたものでしょう、あの方は以前とは打って変ってあのような無口なこわいお方になってしまわれました。手前どもが何かお伺《うかが》い申しても、さっぱりお答えにならず、一日中部屋の中に引き籠《こも》って何やら物想いに耽《ふけ》ったり、一生懸命書きものをなさったりしていらっしゃる御様子でございました。どうしてああもさっぱりと都の生活に愛想を尽《つ》かしておしまいになったのかは手前などが詮索《せんさく》しても仕方がございませんが、……手前にはどうしても解《げ》せぬことがひとつあるのでございます
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