より、瓜生《うりゅう》ノ衛門《えもん》現れ、舞台右手に立つ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
衛門 旦那《だんな》様。お独《ひと》りで何をしていらっしゃるのです。
綾麻呂 おう。衛門か?………む、待っているのだ。……長いこと、鬱陶《うっとう》しく蔽《おお》いかぶさっていたこの梅雨雲《つゆぐも》が今日こそは晴れるのではないかと思ってな。……待っているのだ。
衛門 晴れそうでございますか?
綾麻呂 晴れそうだ。昨日から雨も止んでしまったし、この分ではもう梅雨は終りだ。もうすぐ晴れるのではないかと思う。……(雲行を見ている)
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
衛門 (丘の上に上って行きながら)それにしても、駿河《するが》の国にあると云う山が、ここからそんなにはっきりと見えるものでしょうか?
綾麻呂 見えるとも! 晴れた日なら、百里も離れた所からでも見えるだろう。……いや、もう、何と云うか、……実に見事なのだ。実に高いのだ。実に美しいのだ。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
衛門 (指さして)あの辺でございますか?
綾麻呂 (前方右を指し)いや、……あの辺だ。
衛門 何でも話に聞くと、摺鉢《すりばち》を伏せたような山だそうではありませんか?
綾麻呂 情無いことを云う奴だな。……摺鉢とは情無いことを云う奴だ。そんなのは凡人の言草だ。……せいぜい、下手糞《へたくそ》な絵でも見た奴が考え出した形容だろう。……実物を見れば、それこそ物も云えなくなってしまうのだ。……何と云うかな?……何とも云いようがない。「天雲のそきえのきわみ……」とでも読み出さなければ、とても後が続かない。
衛門 今時分でも頂上には雪が積っているのだそうですね?
綾麻呂 積っている。……儂《わし》がここへ赴任して来た当時は半分から上は純白の雪に蔽《おお》われていた。……この長雨で、あるいは幾らか溶けてしまったかもしれんが、……ま、いずれ雲が晴れてみれば分る。……玲瓏《れいろう》と云うか崇厳と云うか、とにかく、あれは日《ひ》の本《もと》の秋津島《あきつしま》の魂の象徴だ。……儂はもう文麻呂の奴に早くみせてやりたくてな。
衛門 手前だって早く見とうござります。
綾麻呂 いや何も別にお前には見せないと云うわけではない。ただあの不甲斐《ふがい》ない息子が一時も早く迷いの夢から覚めてくれれば、と思っているのだ。あの崇厳な不尽《ふじ》ヶ|嶺《ね》の姿をみれば、少しは気持が落着いてくれるだろう。……全く、あいつは不甲斐のない男になってしまったものだ。
衛門 まあ、旦那様。そっとしておいておやりなさいまし。……お若い方の気持はもう私どもには分りませぬ。
綾麻呂 衛門。……お前は文麻呂のことになると何だか妙に偉そうに肩を持つようだが、あれのことについて何かもっと他《ほか》に儂にかくしているようなことはないのかい? ただ、親しい友達と仲違《なかたが》いをした位であんなになってしまうとは儂にはとても考えられんのだよ。あれは以前はもっと陽気な奴じゃった。口泡を飛ばして儂などとも盛んに議論をしたりしたものだ。……それが、どうしたわけか、あんな無口の偏屈者になって儂の所にやって来よった。お前は、なに神経衰弱です、などと簡単に片附けるが、儂はそんな生やさしいものではないように思う。儂はどうも心配でならんのだよ。あのままでは、到底、この東の国の厳しい生活には耐えて行けん、……先が思いやられる。あれでは本当に困るのだ。
衛門 旦那様。御心配なさいますな。まあ、しばらくの間、あのままそっとしておいておやりなさいまし。あの方の過去については決して御詮索《ごせんさく》なさいますな。……たとえ何か過《あやま》ちがございましたにしても、若い時代の過ちは許して上げなければいけませぬ。若い頃には人間は誰にも必ずひとつやふたつの過ちはあるもんではございませんかな?……手前にもございました。旦那様にもそう云う過ちがなかったとはおっしゃいますまい?
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
綾麻呂 (はたと思い当り)女子《おなご》か?
衛門 ………
綾麻呂 衛門!……女子のことを云うとるのだな?
衛門 ………
綾麻呂 そうなのだな? え? 衛門!
衛門 言い当てられました。
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
綾麻呂 む。……そうだったのか。
衛門 旦那様。しかし、さようなことで文麻呂様を決して非難なされてはいけませぬぞ
前へ
次へ
全51ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 道夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング