!……あたしがあの人達の手に渡されてしまったら、もう何もかもみんなお終《しま》いなのよ! あの人達は天の羽衣《はごろも》を持って来るの! あたしに着せようと思って天の羽衣を持って来るの! それを着せられてしまったら、あたしはもう、あんたのことも、何もかも、この世のことはみんな忘れてしまわなければならないんだわ! いくら思い出そうとしたって、もう駄目なんだわ! あたしは記憶を失ってしまうの! あたしは人間ではなくなってしまうの! あたしはこの世の人ではなくなってしまうの!
文麻呂 なよたけ! お前は何を云ってるんだ!……お月様からお迎えが来るなんてそんなことがあるもんか! みんな、心の迷いなんだ。お前は疲れてるんだよ。疲れのために心が乱れてるんだよ。……さあ、あそこの草の上に腰《こし》を下ろして、しばらく身体をおやすめ。……お前はしばらく、じっと静かにしていなくてはいけない……(いたわるように彼女を抱えて、連れて行こうとする)
なよたけ ああ、文麻呂! 文麻呂!……(発作《ほっさ》的に衣裳《いしょう》の襟《えり》に手をやって、苦しそうに)この重っ苦しい着物を脱《ぬ》がして!……この着物がいけないんだわ!……苦しい、……息がつまりそう。……苦しい、……文麻呂! 脱がして! 脱がして!……(気を失ったように、よろよろと彼の胸に倒れかかる。片手から竹の枝がはらりと地面に落ちる)……
文麻呂 なよたけ! どうしたの! しっかりおし! なよたけ! (彼女を抱きかかえたまま、前面に連れて来て、丘の傾斜面にそっと横たえる。突然、驚愕《きょうがく》の色)なよたけ! 死んじゃいけない! しっかりおし! しっかりおし! (衣裳の襟を押し開いてやろうとする)なよたけ! なよたけ!……僕が分るかい! え! 僕の声が聞えるかい!
なよたけ (かすかに頷《うなず》き、落した竹の枝の方に弱々しく手を差しのべて)竹!……文麻呂!……竹! 竹!……
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文麻呂、その差しのべられた手の行方《ゆくえ》に竹の枝が落ちているのに気がつく。
はっとして、急いで駆《か》けより、それを手に、再び戻って来る。なよたけはもうぐんなりとしている。
[#ここで字下げ終わり]
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文麻呂 さ、しっかりとお掴《つか》み! しっかりとお掴み!……お前のいのちよりも大切な……(なよたけは死んでいる)なよたけ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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文麻呂は呆然として、なよたけの死顔を凝視《みつ》める。……
背後の天空にいつの間にやら大きな満月がぽっかりと浮び上った。白色光の神秘な光芒《こうぼう》があたりに耀《かがよ》いはじめた。……そして、どこからともなく、「雅楽」のような不思議な楽音がかすかに聞えて来る。やがて、文麻呂は魂を失ったもののごとく、茫然として立上る。……彼の手から、なよたけの美しい衣裳の上に竹の枝がはらりと落ちかかった。……「合唱」が低く低く、聞えて来る。

 合唱

かくばかり 憂《う》けく辛《から》けく なよ竹の
かくばかり 憂けく辛けく なよ竹の
花も常無き 現《うつ》そ身や
珠《たま》の緒《お》の惜しき盛りに 立つ霧《きり》の
失《う》せぬるごとく 消《け》ぬるごとく
おとめごは いま みまかりぬ
おとめごは いま みまかりぬ

なよたけは今や忘れられたもののごとく、文麻呂の姿のみ神秘な白色光の光芒に包まれて行く。文麻呂は、魔に憑《つ》かれたように、天空の彼方《かなた》を打ち眺める。……
月は白銀に輝く棚雲《たなぐも》の上、異様に冴《さ》え渡って行く。

現し世の 旅にまどいて
甲斐《かい》なくも 散るべきものを
いつの世の契《ちぎ》りなりけむ。
今はただ、彼の岸の光に充《み》ちて
我はなお、君に恋うらむ
みまかりし 君に恋うらむ
          恋路なれば
今はただ 彼の岸の 光に充ちて
我はなお、君に恋うらむ
みまかりし 君に恋うらむ
          恋路なれば

不可思議な楽音、高調し、白色光の光芒はあたりに異様に充ち溢れて……
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]静かに幕――

  第五幕(終幕)

[#ここから2字下げ]
東国のある丘陵《きゅうりょう》地帯にある石《いそ》ノ上《かみ》ノ綾麻呂《あやまろ》の任地。約二ヶ月後の七月初旬。
幕が上ると、場面は緑の丘陵が遠々と拡がっている、例えば相模《さがみ》ノ国のある風景。
舞台左手は小高い丘。右手にかけて、なだらかな傾斜が続いている。
丘の頂上には、雑木の丸太で作った粗末な掛台がひとつ。石ノ上ノ綾麻呂がその上に腰を掛けて、前方右手の方を遠く放心したように眺めている。雨雲が晴れる前の、何やら落着かぬ雲行である。
丘の向う側
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