、何かしら逃れられない前の世からの契《ちぎ》りがあったんだわ。それが今、蘇《よみがえ》って来るの。眼に見えない雲のように、遠い前の世の物思いがだんだん蘇って来るの。あたしは、いつの頃か、この竹の林の中に生れた。世の中の事は何も知らずにこの竹の林の中で幸せに育って来た。……あたしはきっと竹の中でしか幸せになれなかったんだわ。竹の中でしか生きて行けない人間だったんだわ。この竹の林を見棄ててしまえばあたしは何だかもう生きて行くことさえ出来ないような気がするの。
文麻呂 (烈しく)なよたけ! 信じてはいけないよ! 僕以外の誰の言葉も信じてはいけないよ!
なよたけ (だんだんと独白ふうになって行く)あたし、初めてあんたに逢った時から、二人だけの幸福を夢みていたわ。それは青々とした竹の林にかこまれて、あんたと一生楽しく暮すことなの。……ああ、だけど、もう駄目。遅過ぎたわ。あたしは、もう、この竹の林を見棄ててしまった。お天道《てんとう》様のおっしゃることに背《そむ》いて、一旦都へ出てしまったあたしはきっと罰を受けなければならないんだわ。黙ってここでじっと苦しみに耐えて行かなければならないんだわ。……文麻呂! あたしにもどうしてだか分らない。だけどもうあたしの幸福はこれっきりで終ってしまうような気がするの。……あたしはどこにも行ってはいけないんだわ。ここで黙ってひとりで待っていなければならないんだわ。
文麻呂 なよたけ! 何を待っているんだ!……しっかりおし! 何を待ってるって云うんだ! そんなことがあるもんか! そんなことが……
なよたけ (急に烈しく咎《とが》めるような調子になり)文麻呂! あんたはあたしがあんな車にのせられて都へ連れて行かれるのをどうして止めてくれなかったの? どうしてあたしが好きになった時、すぐにでも都を棄てて、あたしのところに飛んで来てくれなかったの?……ああ、そうすれば、あたし達はそのままずっとしあわせに暮せたかもしれないのに!
文麻呂 (次第に懺悔《ざんげ》するもののごとく)なよたけ、……許しておくれ。僕は自分の心を偽《いつわ》っていたんだ。不純な虚栄に心を奪《うば》われていたんだ。僕の心は濁《にご》っていた。僕にはお前のその清らかな透《す》き通った心が恐しかったんだ。お前に初めて逢った時から、僕はお前が好きで好きでたまらなかったのに、今日になるまで自分の本心をかくしていた。僕にはあんなあな[#「あんなあな」に傍点]が取憑《とりつ》いていたんだ。……(次第に慟哭《どうこく》するもののごとく)……なよたけ! 許しておくれ! 僕が悪かったんだ!……なよたけ! 許しておくれ!
なよたけ (何かその眼は次第に神々しい光に輝き始める)いいのよ。いいのよ。……ああ、あたしって何て悪い子でしょう。こんなことを云って、またあんたの心を苦しめようとするのね。いいのよ。いいのよ。あんたはいい人なんだわ。あんたはいい人なんだわ。
文麻呂 なよたけ! (烈しく抱きすくめる)今日からだって僕達は決して遅くはないんだよ! 決して遅くはないんだ! 心の正しい僕達二人をお天道様が許して下さらないなんて、どうしてそんなことが考えられよう! 何もかも今日からなんだ! 僕達の新しい生活は今日から始まるんだ! さあ、元気を出して、一緒に行こう!
なよたけ 文麻呂! 本当にそう思う! 本当にそう思う! (切《せつ》な気《げ》に文麻呂の胸にすがりつき)……ああ、文麻呂! 文麻呂! あたしを棄てちゃ嫌《いや》! あたしを棄てちゃ嫌!
文麻呂 何を云うんだ!……お前を棄てるなんて……
なよたけ (突然、烈しい不安に襲われたごとく、表情は硬直《こうちょく》した)文麻呂! あたしをしっかり守ってて! あたしをしっかり守ってて! あたしをお月様の所へなんか行かしては嫌よ!
文麻呂 (凝然《ぎょうぜん》として)お月様!
なよたけ (心は次第に天界の彼方《かなた》に放たれて行く)文麻呂! ほら! お月様からあたしを迎えに来るんだわ! お月様からお迎えの人達が雲に乗って下りて来るんだわ! 遠くの方から、あの人達の話し声が聞えて来るわ! ほら! 文麻呂! 聞えるでしょう! 聞えるでしょう! あれは空を飛ぶ月の車の音なの!
文麻呂 (呆然《ぼうぜん》と)僕には聞えない……
なよたけ ほら! あの天の頂きの辺がだんだん明るくなって来たわ! あれは、月の国の使いが雲に乗ってあたしを迎えにやって来るの! ……文麻呂! 文麻呂! あたしをあの人達の手に渡しては嫌よ! あたしを離しては嫌よ!
文麻呂 なよたけ、僕には何も見えない……
なよたけ ああ、あたしは死にたくないの! あんたと一緒にいつまでもいつまでも生きていたいの! あたしをしっかり抑《おさ》えてて! あたしをしっかり抑えてて
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