ふ》れたこの上もない幸福《しあわせ》な生活なんだ。
なよたけ 文麻呂。……あたし達にはもう何も起らないんだわ。……もう。これから先、あたし達には何にも起らないんだわ。
文麻呂 僕もそう思う。……もう、僕達の幸福の邪魔をするようなことは、何も起らないんだ。
なよたけ そうじゃないの、文麻呂。あたしは、もうこれで何もかもが一度にみんな起ってしまったんじゃないかと思うの。何だかそんな気がするの。こんな幸福が一時《いちどき》にあたしを訪れて来るなんて!……あたし、何だかまるで、一生の幸福が一ぺんに来てしまったような気がするの。ねえ、文麻呂。あたしがこの世に生れて来たのは、ただ、あんたを愛するためだけだったんだわ。……
文麻呂 僕だってそうだ。なよたけ! 僕だってお前を愛するためにこの現《うつ》し世《よ》に生れて来たんだ。お前は僕のいのちだ! たったひとつのかけがいのない僕のいのちだ!
なよたけ (何やら不安に襲われたように)ねえ、文麻呂! あたしの一生はもしかしたらこのまま終ってしまうんじゃないかしら?……あたし、さっきから変な胸騒ぎがするの。何か分らない不吉な胸騒ぎがするの。……文麻呂! あたしはもうこの世に生きるつとめをすっかり果してしまったんじゃないかしら?
文麻呂 何を云ってるんだ? そんなことがあるもんか! 僕達が愛し合うのはこれからなんだ!……お前は清らかな若竹の中に太陽に導かれながら、すくすくと育って来た。人の世の汚れも知らずに、清浄ないのちを生きて来た。お前はもう竹の里から離れたって立派にひとりだちが出来るんだよ、……なよたけ! お前はこれからは僕と一緒に強く生きて行くんだ。僕達の行手を遮《さえぎ》るものはもう何もありゃしない。この大空のように果しない愛の世界があるだけなんだ。僕達はこれからもっともっと愛し合って行くんだ。この上もない愛のしあわせを僕達だけの力で作り上げて行くんだ……
なよたけ (切ない疑惑をもって)文麻呂!……あたし達にこれ以上愛し合うことなんて出来るの? 今よりももっともっと愛し合うことなんて出来るの?……あたしには考えられないわ。これ以上の愛のしあわせがあるなんて、……あたしにはとても考えられないわ。
文麻呂 なよたけ! お前は何も知らないんだ。僕達が本当に愛し合うのはこれからなんだぜ。人間はもっともっと烈《はげ》しく愛し合うことが出来るんだ。もっともっと幸福《しあわせ》になることが出来るんだ。
なよたけ あたしには信じられない。……文麻呂、あたしには、そんなこと、とても信じられないわ。
文麻呂 なよたけ、……そうだ、僕達はこれからすぐに旅に出よう! 黙って僕についておいで! 僕達は旅に出るんだ!
なよたけ 旅?……どこへ行くの、文麻呂?
文麻呂 東の国だ。そこにはこの上もない僕達の幸福が待っている。
なよたけ 遠い国?……
文麻呂 (遠く思いを致す)……はるかな旅路だ。……だけどね、なよたけ、そこには僕達の新しい故郷《ふるさと》が待っている。……そこには懐しいお父上が僕達の来るのを待っていて下さるんだよ。
なよたけ 文麻呂!……あんたのお父様?
文麻呂 うん、……そしてお前の優しいお父様だ。……お父上はきっとお前を喜んで迎えて下さるに違いない。きっとお前をこの上もなく可愛がって下さるよ。
なよたけ でも、文麻呂。……あたしの顔を見て。あたしにそんな遠い所まで旅をする元気があるかしら?……ああ、あたしはなぜだかだんだん身も心も疲れきって行くわ。どうしてかしら? 何だかこうして立っていることさえ耐《た》えられないほど苦しいの。……
文麻呂 (不吉な予感を打ち消すように)なよたけ! 何でもないんだ! しっかりおし! お前はただ疲れているんだよ。……ねえ、なよたけ。それじゃ、お前がまた元気な体になるまでどこかで待っていてもいい。ここからそんなに遠くない瓜生《うりゅう》の山里に、衛門《えもん》と云う僕の忠実な爺やが瓜を作りながら暮しているんだ。僕達はこれからそこへ行こう! しばらくその家に厄介《やっかい》になって、お前がすっかり元気になってから改めて東国へ旅立つことにしよう!……ね? いいだろ?……さあ、なよたけ! とにかく、この丘を下りよう! (促すように、舞台奥を指し)あんな広々とした天地が僕達を呼んでるんだ!
なよたけ 待って、文麻呂! あたしは駄目! あたしはやっぱり駄目なんだわ! あたしはこの竹の林の外へ出てはいけなかったんだわ!
文麻呂 (ぎょっとしたようになよたけの蒼白《そうはく》な顔をのぞきこむ……)
なよたけ (空《うつ》けて行くように)……文麻呂!……誰《だれ》かがあたしを呼んでいるの。声のない言葉で、……何かほの白い寒気のするようなものがあたしを呼んでいるの。……文麻呂! あたしには
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