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間――
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小野 あるのか?
文麻呂 ある!
小野 (恐る恐る)たとえば、それはどんなふうにだ?……
文麻呂 俺はどこにいたって、なよたけに逢《あ》いたくなれば、思いのままに俺の眼の前に彼女をあらわすことが出来る。……俺の魂がなよたけを呼べば、彼女はいつでも微笑《ほほえ》みながら、俺の前に現れるのだ。なよたけの唄が聞きたくなれば、俺はいつでもはっきりと聞くことが出来る……
小野 はっきりとか?
文麻呂 はっきりとだ!……例えば、俺は今、ここでこうして眼をつむる。……(眼をつむって)おう。……はっきり[#「はっきり」に傍点]と聞えて来るのだ。なよたけとわらべ達の唄うあの春の唄だ。……(沈黙。眼をつむったまま異様な恍惚境《こうこつきょう》)ほら。聞えないのかい? 貴様には聞えないのかい?
小野 (呆然《ぼうぜん》として)俺には聞えない……
文麻呂 それじゃ、あの無数の小鳥の声はどうだ? あれも聞えないのか!……
小野 (文麻呂の異様な態度に不気味な恐怖《きょうふ》を感じ始める)俺には聞えない……
文麻呂 それでは、あの竹の葉がさやさやと春風にそよぐ音は聞えないのか? 俺にはそれまで手に取るように聞えて来るのだ。
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遠くの方から、魂《たま》ごいの行者達の呼ばい声が鈴の音と共にだんだんと聞えて来る。
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小野 (その声にはっとして耳を澄まし、何やら烈しい恐怖感に襲われ、文麻呂が眼をつむっているすきに、抜足差足《ぬきあしさしあし》で左方にこそこそ逃げて行こうとする)
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行者達の声、鈴の音、だんだん近く。
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文麻呂 (夢から醒《さ》めたごとく徐《おもむ》ろに眼を開き、うっとりと)ああ、なよたけはこの世の奇蹟《きせき》だ! 月の世界から送られて来た清らかな魂の使者だ! 俺はなよたけがこの世に生きていると云うことを思うだけで、この上もない生《い》き甲斐《がい》を感ずるんだ。……清原と云う奴は実にしあわせな奴だよ。なよたけはあんな奴には勿体《もったい》ない位だ。……それでも大納言の手に渡るよりはよっぽどまし[#「まし」に傍点]だ。清原にしたって、貴様にしたって、とにかく、生死を誓った俺の無二の親友なんだからなあ……(左の方へ抜足差足で逃げて行く小野ノ連に気がつき)おいッ! どこへ行くんだ!
小野 (ぎくんとして立止る)
文麻呂 どこへ行くつもりなのだ!
小野 (意を決したように、悲壮《ひそう》な顔)石ノ上! 俺は失敬する! 君を見棄《みす》てるのは忍びないが、俺は気違いと行動を共にするのはまっぴら御免だ! 君がなよたけの唄と聞いているのは、あれは山籠《やまごも》りに行く行者どもの呼ばい声だぞ! 君が小鳥の声と聞いているのはあれは鈴の音《ね》だ! 君は気が狂っているんだ! 恋のために気が狂っているんだ! 君とはもう今日限り絶交だ! 清原だってもう君とは手を切ったぞ! 都中の人達はみんな君のことを気違いだと云ってるんだ! 君なんかと交際《つきあ》ってたら、俺達はどんな眼に遭《あ》わされるか分りゃしない! とんだ「人笑え」だ! 俺達までが気違い扱いにされちまうからな! 俺達の将来まで滅茶滅茶にされちまうからな!
文麻呂 (悲痛《ひつう》な声をしぼって)小野ッ! 何を云うんだッ! 待ってくれ!……小野ッ!
小野 石ノ上! 俺は失敬する! さよなら! (逃げ去るように左方へ消える)
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行者達の呼ばい声、鈴の音が不気味に聞えている。
中央に呆然自失したごとく、文麻呂はひとり残される。
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文麻呂 (うわごとのごとき独白)……俺が「恋」をしてる?……「恋」のために俺の気が狂っている?……俺の気が狂っている?
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行者達の呼ばい声、鈴の音。それに重って男女の嘲《あざ》け笑いが聞えて来る。
続いて、「気違い、気違い」と云う私語・囁《ささや》き声が幻聴の如く、文麻呂の不穏《ふおん》な頭を乱し始める。……
文麻呂、両手を頭にやって、心の乱れを鎮《しず》めようとする。
行者達の呼ばい声・鈴の音。……
再び、男女の嘲け笑い。
文麻呂、頭を両手で抑えたまま、がっくりとひざまずく。……
やがて、呼ばい声も鈴の音も次第に遠くへ消えて行き、舞台裏から「合唱」が低く聞えて来る。
合唱
術《すべ》なくも 苦しくあれば
術なくも 苦しくあれば
よしなく物を思うかな。
白雲の たなびく里の
なよたけの ささ
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