はないのかい? 僕は家の名誉ってことを考えてるんだ。……別に自慢するわけじゃないけど、僕の父上だってれっきとした三位の官人《つかさびと》だ。……そりゃ、今僕が止めてしまったら、石ノ上はがっかりするだろうけど、僕あそれ以上にこんなことをしてたら世間のひとがどう思うかと云うことを考えてるんだ。僕達のやったことが後の世までも謗《そしり》を受けるようなことになったら、僕達だけの恥じゃ済まされないんだぜ。家の恥なんだ! 父上の恥なんだ! 石ノ上は、貴様のように世間の思惑《おもわく》ばかり気にしていたら何にも出来やしないぞって、よく云うけど、……それにしてもあいつのやることは少し乱暴だ。正気の沙汰《さた》じゃない。あいつは何をするんでも、慎重な判断なしにやり始めてしまうんだ。まるでもう馬車馬だ! あいつは完全に気が触れてるんだ! 僕は気違いと一緒にこんなことをするのはまっぴら御免《ごめん》だ! お断りだ!
小野 気違い!……おい、おい、清原、いくらなんでもそりゃ少しひど過ぎるじゃないか?
清原 僕あこんなことは云いたくないさ。云いたくないけど、だけど、本当なんだから仕方がないよ。あいつは気が狂ってしまったんだ。……君は、第一、そう云う噂《うわさ》を耳にしたことはないのかい? 大学寮なんかでもみんなそう云ってるんだぜ。僕あ、御修法《みずほう》をやるお医者さんにも訊《き》いてみたんだ。もう、ああ云うふうに病気が進行しちゃったらおしまいだそうだ。いくらお祓《はら》いをしてみたところで、決して物《もの》の怪《け》は退散しないんだそうだ。
小野 清原!……(真剣な顔)貴様、……本当にあの男の発狂を信じてるのか?
清原 ………
小野 え! 清原!……貴様はそんな噂を本当に信じてるのかい!
清原 む、……信じてる。そりゃ僕だって初めはそんなこと信じられなかったさ。だけど、色んなことを綜合して考えてみると、まああいつには気の毒だけど、……僕もそう断定せざるを得ないんだ。第一、あんな恰好《かっこう》をして都中をほっつき歩いていることからして、訝《おか》しいとは思わないかい? いくら人目を避ける変装だからと云ったって、あれは少々極端だ。あいつは確かに気が変になってしまったんだよ。あの勉強家の秀才が勉強もそっちのけで、あんな妙な恰好をして、都中を一日中ほっつき廻ってさ、口に出すことと言ったら、なよたけと大納言のことばかりだ。……そうかと思うとまるで、うわごとみたいにわけの分らないことばかり言っている。小野、君も知ってるだろ? あいつはこの頃、人の顔さえ見れば、あんなあな[#「あんなあな」に傍点]とか、かんなあな[#「かんなあな」に傍点]とか妙なことばかり言って、やたらに人にくってかかるけど、あれは一体何のことだか、君には分るのかい?
小野 いや、あれは俺も実はよく分らんのだ。……うーむ。
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間――
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清原 御修法《みずほう》の雲斎《うんさい》先生もそう云ってらした。気違いになるとわけの分らないことを云って、人には分ってもらったような気になるんだそうだ。……僕は、うるさいから、あいつの云うことは一々「そうだ、そうだ」って合槌《あいづち》を打ってやってはいるけど、実際この頃のあいつの云ってることはさっぱりわけが分らないんだ。第一|条理《すじみち》がたっていないよ。まるで、雲を掴《つか》むように漠然《ばくぜん》としている。そうかと思うと、突然、大声をはり上げて、「貴様はあんなあな[#「あんなあな」に傍点]だ!」って怒鳴《どな》りつけるんだ。あれはどうしたって狂人の衝動って奴さ。あたりに何人ひとがいようがお構いなしなんだ。全く僕あ穴があったら這入《はい》りたくなるような目に何度逢ったか分りゃしない。……理性と云うものを完全に喪失《そうしつ》してしまってるんだ。あの精密な論理の秩序は、跡方もなく破滅してしまった!
小野 (深刻に)……うーむ、……しかし、考えられぬことだな。あれほど明快な頭脳の持主がそんなに簡単に理性を喪《うしな》ってしまうもんだろうかね? 俺はやっぱりあいつが発狂してるとは思いたくないね。あるいは俺達のような凡人《ぼんじん》には考えも及ばないような深奥なる境地に到達してしまったのかもしれんぞ。いや、そうかもしれんのだ。
清原 そんなことはないよ。僕も初めはそうかなとも思ってみた。だけど、色々とあいつの精神状態を冷静に判断してみると、どうしたってあいつは健全な精神を喪失しちまってるんだ。例えば、この間、僕は思いきってあいつに、「君の云うそのあんなあな[#「あんなあな」に傍点]って云うのは一体何のことだい?」って訊《き》いてみたんだ。すると、どうだい? あいつは恐し
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