え、あの切株《きりかぶ》に腰《こし》を下して、もう少し色々なことを饒舌《しゃべ》り合いましょうよ。鴉が鳴くまでです。出発はそれからでも充分間に合いますよ。本当に保証します。……さあ、お父さん、お願いです。鴉が鳴くまで、せめて鴉が鳴くまでです。
[#ここから2字下げ]
塒《ねぐら》へ帰る鴉が二三羽、大声で鳴きながら二人の頭上を飛んで行く。長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
文麻呂 (低い声)やっぱり、お別れですね。
綾麻呂 (しんみりと)ま、いずれは別れねばならない運命だったのさ。
文麻呂 任地にお着きになっても、身体だけは充分に気を付けて、御病気にならないように注意して下さい。
綾麻呂 む。
文麻呂 お父さんはお酒を召し上らない代りに、甘いものとなると眼がないから、ちょっと油断をして食べ過ぎをなさるとすぐお腹《なか》をこわします。
綾麻呂 有難《ありがと》う。充分に気をつける。お前も充分健康に留意して、無理をしない程度に、「文章《もんじょう》の道」を一生懸命に研鑚《けんさん》するんですよ。一日も早く偉くなって、お父さんを安心させておくれ。お前はお役所に勤めるのはどうも以前からあまり気がすすまなかったらしいが、いや、それならそれでもいい。お父さんは決して反対はしない。まあ、立派な学者になって、「文章博士《もんじょうはかせ》」の肩書でも貰《もら》ってくれれば、お父さんはそれだけでも大手を振って自慢が出来るからな。そうなれば、お父さんの受けた恥《はじ》も立派に雪《そそ》ぐことが出来るというものだ……しかしね、文麻呂。お前はどうも、この頃清原の息子《むすこ》や小野の息子達と一緒《いっしょ》になって、やれ「和歌」を作ってみたり、「恋物語」を書いてみたりしているらしいけれど、あれだけはお父さんどうしても気に掛ってしかたがないな。第一、外聞《がいぶん》が悪いよ。ああ云うものは当世の情事好《いろごとごの》みのすることで武人の血を引く石ノ上ノ綾麻呂の息子ともあろうものが、あんなものにかぶれるなどと云うことは大体、体裁《ていさい》がよくないからな。ことに学問の道に励《はげ》むものにはああ云うものは何の益もない代物《しろもの》だ。「芸術」と云うものか何と云うものか儂《わし》にはよく分らんが、お父さんに云わせればあんなものは不潔だ。ああ云う「
前へ
次へ
全101ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 道夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング