恋とは夢だ。……「夢」とは全《まった》き放心だ。その正しい極限では一切が虚無となる。一切が存在しなくなる。それは未来|永劫《えいごう》を一瞬に定着する詩人の凝視を形成する場所だ。真実の詩《うた》とはそこに生れるのだ。その虚無の場を不安と観ずるべからず、法悦《ほうえつ》の境と信ずべし、だ。そこに生ずる悲哀よりも歓喜よりも、何よりもそこに存する真実の詩《うた》をこそ尊ぶべきだ、と僕は思う。……清原、恋をしたまえ。一切を捨てて恋に酔《よ》いたまえ。
清原 有難う。
文麻呂 敷島《しきしま》の日本《やまと》の国に人二人ありとし念《も》わば何か嘆かむ、だ。……………知ってるかい、清原。
清原 む。……万葉、巻十三、相聞《そうもん》の反歌だ。
文麻呂 恋とはああ云うものだよ。僕はそう信ずる。恋とはただ一つの魂を烈《はげ》しくもひそかに呼び合うことだ。僕はそう信ずる。あの巷《ちまた》にあれすさんでいる火遊びの嵐はどうだ。あんなものは何が恋だ。あんなものは不潔な野合《やごう》だ。……汚らわしい惰遊《だゆう》だ。
清原 石ノ上、……僕の場合に限って、あんな汚れた気持は微塵もないって云うこと、……君、信じてくれるだろうね?
文麻呂 うん。信じる。信じよう。信じないではいられないのだ。君が本当のものと嘘《うそ》のものとを識別《みわ》ける眼を持っていることだけは、僕は心から信じているんだからな。
清原 (次第に涙を催《もよお》すような感傷的な気持になって行く)………石ノ上、僕は、そのうちに君にもあの女《ひと》に一度逢ってもらおうと思ってる。
文麻呂 何て云うの? 名前は。
清原 ……なよたけ。
文麻呂 え?
清原 なよたけ。(舞台左手奥の竹林の方を指し)あすこの竹林の向うに住んでいる………
[#ここから2字下げ]
二人共、そっちの方を眺めている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
文麻呂 田舎娘《いなかむすめ》なのかい?
清原 竹籠《たけかご》作りの娘なんだ。年取った父親と二人暮しの貧しい少女さ。……まだ、まるで少女なんだ。汚れ多い浮世の風には一度だって触れたことのないような。……何て云うのかなあ、こう、まるで、……………
文麻呂 いくつ?
清原 え?
文麻呂 年さ。いくつ?
[#ここから2字下げ]
間――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天
前へ 次へ
全101ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 道夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング