、すっかり気に入ってしまったよ。……平安京もこの通り一目で見渡せるし、それに、どうだい、こっち側の、この夕風にざわめいている素晴らしい竹林の遠々たる連なりは! 僕はさっき、親父と話しながらここまで登って来た時には、何だかまるで、突然夢の国に来たんじゃないかと眼を疑ってしまった。平安の都で世迷《よま》い事《ごと》に身をやつしている連中の中で、この丘のこっち側の世界の素晴しさに気の付いてる奴は、一体何人いるだろうかね? それにほら、見たまえ。すぐあすこにまであんなに深い竹林が続いて来てるなんて、実際、今まで僕は夢にも想像していなかった。全く、この丘から向うは別世界だ! あの堕落した平安人の巷《ちまた》からものの半道も離れていないこの丘の上には、まだ汚《けが》れない自然が、美しいそのままの姿で脈打っているような気がする。そんな気がするんだ。……清原。聞いてごらん。……山鴿《やまばと》だ。
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竹林の方から山鴿の鳴声、ひとしきり。二人共、しばらく沈黙。
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清原 (静かに)石ノ上、……君は今竹の精って云ったね? 君は竹の精の存在を信じるか?
文麻呂 どうしてだい、そりゃまた?
清原 (真剣な顔)石ノ上、僕は、……僕はその竹の精を見たのだ!
文麻呂 見た?
清原 見た。この眼ではっきりと見てしまったのだ。自然そのままの汚《けが》れのない清純な女性の形象《かたち》をとってこの現世《おつつよ》に存在している、いわばそれは若竹の精霊だ。微塵《みじん》の悪徳もなく、美《うる》わしい天然の姿のままで。それはあの竹林の中に生きている。
文麻呂 (じっ[#「じっ」に傍点]と友の顔を凝視《みつ》め、ややあって)「恋」だな? 清原………
清原 人の世の言挙《ことあげ》がそう名付けるならば、それもよかろう。……石ノ上、僕は白状する。……僕は、……僕はその恋を知りはじめたのだ。
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間――
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文麻呂 (そっと友の肩《かた》に手を掛けて)よかろう、清原。僕は決して咎《とが》め立てはしないぜ。いやむしろ君のその碧空《あおぞら》のごとく清浄無垢《せいじょうむく》なる心を捉《とら》えた女性の顔が一目|拝《おが》みたい位だよ。………
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