て湧かしてなんかゐない、一枚二万五千円計二十枚五十万円の海と山との絵を描いてゐるのである、陸海軍省へ献納しようといふ大観のひたむきな制作態度を賞めてやつてもいいだらう、さういふことに彼が制作情熱を沸かす、それが大観の特質なんだから――
福田平八郎小論
○…京都在住の画家には何か格式といふべきものへの執着を、多かれ少なかれもつてゐる。人と逢つても体を崩さないといふところがある、福田平八郎は京都住ひではあるが、その点全く江戸人のやうな鉄火肌のところがあり、開放的でザックバランだ、おしやべりかといへば、どつちかといふと無口の方だが、開口一番するや思つたことをズバズバ言つてのけるといふ性格で彼の描く絵のやうに明確なものがある。
○…福田平八郎の人気を名づけて「好もしき人気」といつたらぴつたりしよう。流布される人気は何時の場合も、好感的なもので、作為のない彼の人柄がさうした好ましさを生むのであらう、この作家の初期の画面は神経をゆきわたらした、ねつとりとした粘液質のものだが、最近作では次第にそれが様式化され図式化されてきてゐて、淡白なものになつてゐる。
○…問題なのは近頃になつてからの仕事だらう、この様式化は彼にとつて一つの手段で、この様式化には問題がない、その様式、図式の中に埋められた色彩に問題があるのだ、他の画家が予期しないやうな、配色、調子、対照、をつくりだしてこゝに異常な美しい色彩を発明する、彼の作品の特異な輝やきといふのは、その色彩の案出された新しさといふべきである
小倉遊亀小論――小品作家たるべし
○…女流作家のうちでは、彼女位佳き抒情をもつてゐるものはあるまい、彼女はモダニズムを自然に身につけてゐる、西洋草花などを描かしたら、それがよく出てゐて、非常に美しいものだ、洋画の新しがり屋などの真似の出来ない境地がある、花束とか寄り集まつた小さな花などに、念の入つた美観を呈する画壇といふところはやつぱりかうした小品物許り描いてゐてはうだつがあがらぬところらしく彼女も「浴女」「浴後」などの大物を発表してぐんと人気が昂まつた形だ。
○…この二つの作品に対して、美術批評界の絶讃ぶりは、しかしこれも日本画の世界なればこそだ、女性の裸の数を彼女よりずつと沢山見つけてゐる、洋画家に言はせると、浴場の裸婦のデッサンは噴飯もので、あれでも裸婦で通るのだから日本画壇は幸福なものだと噂してゐる、ともあれ彼女は、柿を一つ二つ転がした絵を描きたがらないで、草花を描いたら第一人者だらう、他人の真似の出来ない伸々とした自然な描写がある、大作はまあ人気を保つ手段程度で止めておくべし
徳岡神泉小論
○…世間では神泉を苦悶の行者のやうに見てゐるが、いやしくも芸術と名のつくものをやつてゐるからには神泉程度の勉強ぶりを行者扱ひするのはおかしい、他の連中が色気が多すぎるので、ちよつとばかり手堅い作品を見せれば、苦悶だとか、業苦だとかいふ、神泉は目立つのだ、神泉はたしかに画壇でも追究派の一人に属して人柄もまた甚だ深刻である
○…神泉は明確な主題の決定がなければ、筆をとらない、だから彼の描くものには、ソツがないし作者の意図がはつきりしてゐる点、彼の絵を見ていて気持がいゝ、彼の絵が問題になる場合には、世間的な取り上げられ方ではなく、絵画の技法上の問題として取り上げられる場合が多く、したがつて若い連中にとつては、神泉の作は研究題目として十分に興味がある
○…しかし神泉研究は往々にして、錯誤を招く、ある者は、神泉は実に新しく時代的で本人もまた時代へ革新的な絵画を目指してゐるのだといつたやうな考へ、それは少しく異なる、徳岡神泉の作品と、吉岡堅二の作品とを較べてみたらよくわかる、神泉の作はおそろしく古典だ、その古典の再現が外見的にはフレッシュに見せてゐるだけで、所詮彼は新しくなることが不可能なのであらう。
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子供漫画論
一
絵本漫画の出版業者にむかつて、或る人が質問を発した、『君は自分のところで出版してゐる漫画を、自分の子供に与へるか――』すると出版業者は『いや、なるべく見せないやうにしてゐる』と答へたさうである、自分の子供に与へて弊害の有る所謂『赤本漫画』も、他人の子供には、平気で売りつけるといふ態度が、従来のこの種、子供読物出版業者の、出版態度だといつてよいものと言へよう。
内務省、及び文部省が手をつけた子供読物浄化運動は、一昨年の夏頃からで、その年の秋は取締りの酷烈なクライマックスに達した、昨年に入つても当局の出版業者に対する、警告、発禁、の連続的処置や、出版前内閲の手厳しさは、業者にとつては全く出版の自由を失ふものであつた。しかし取締当局が、出版業者の出版の自由を、うばつたといふ見解よりも、かういふ言ひ方がいゝ、当局の取締方針が、漸次、確立するにしたがつて、出版業者が逆に出版の『方針』がわからなくなつて、出版能力を減殺していつたと解す方が正しいだらう。
現在の状態は、子供漫画の場合は、童話、絵本の類よりも、はるかに出版能力が低下してゐる、取締を強化しない以前に発行したものは、内容が悪くて、再版して発行するといふことは不可能な状態にある、当局もまた再版ものを喜ばないのである、出版業者は、従来の既刊物を自発的絶版にしてしまふより仕方がない、或る出版業者の話であるが、この業者は七十種類ほど漫画を刊行してゐたが、現在その大部分を自発的絶版にして、今は手持漫画は数種よりないといふ、市場に商品は、少くなるばかりであるし、新しく出版しようとすれば、当局が児童読物の内容に対して、いろいろの注文をする、その当局の注文を呑み込めない出版屋が多い、したがつて出版も渋滞し勝ちであるが一方、漫画は市場に品不足で、さうした中で、出版しさへすれば羽が生えて飛ぶやうに売れる、需要に応じきれない現在、出版業者は出版はしたいし、出版取締の(以下十字判読不能)至難といふジレンマに陥つてゐる状態だ。
子供読物取締に就いて、一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話がある、内務省の一役人が、関西地方の視察旅行をしたとき、ある本屋に入つて、子供にはどんな本が、いちばん売れるか――、と質問した、そのとき本屋が、これですと差出したのが、所謂赤本漫画であつた、その漫画の内容がまた言語に絶した、粗悪なもので、本屋の主人に『これはどの位、売れるものか』と質ねたところが、全国に数十万、捌かれるといふことを聞かされて、役人は驚愕した、これではいかんと浄化取締に着手したといはれてゐる。
過般の児童読物浄化取締は、児童心理の研究者や、教育者が当局に浄化取締の、動機をつくつて与へたものでなくて、今回の取締の当局自身が、それに着手したといふことが、特徴的なところである、子供漫画がそれほどに俗悪のクライマックスに達してゐるのに、児童心理の研究者や、教育家達は、それまで何をしてゐたかといふことに就いては、この人々が、決して教育に対して不熱心でも、専門的でなかつたわけではあるまい、何故なら『××的教育の批判的云々』とか、『児童心理学から見た××』とか、さかんに教育に関する著書も、むづかしい名前がつけられて発表されてゐたから、いろいろな子供の善導についての研究会や、座談会も盛んに催してゐたやうであるから、しかし、現実にこれらの人々と、子供読物の急速な卑俗化とは何の関係もなかつたのである。理想主義的な教育主張をもつ人々や、これらの著書とは別に、燎原の火のやうな勢ひで、粗悪漫画が子供たちに、広く手渡されてゐる事実は、早晩、社会問題化さないでは、をかない性質のものであつたわけだ、私はこゝで国家の文化政策と、利益を目的にした商人の生活との、協調などといふことが、如何に至難な事業であるかといふことを言ひたい、子供のためになる良い本を出せば、それですべてが解決するのである――しかしこの単純にみえる政策が、事実の効果の上では、たつた一冊の良い本になつて現はれるといふことの、そこまでに到る裏面的事情は、複雑多岐を極めて、たどたどしい性質のものであることを知らねばならない。
二
或る子供絵本、漫画の改革の座談会の席上、一教育者が、出版業者にむかつて、かういふことを言つた、『みなさんは儲けること許り考へないで、たまには損をしても良い本を出して下さい』そして教育者と出版業者とが声を合して、和気藹々と哄笑したのである、しかしこゝには二つの性質の哄笑があつたのである、深刻なのは出版業者側の発した笑ひである、いつたい商人が儲けを除外して出版するなどといふことは、全く考へられない、教育者のさうした出版業者に対する求め方は、現実的性質の薄弱なもので、夢想である、商人側が声を揃へて笑ふのも無理がないのである、
現在、政府の子供読物浄化方針は、出版業者との直接な触れ合ひによつて進められ、すこしづゝ内容が改良されて行つてゐる、さうした場合の、教育関係者は、両者の批判的な実行的な位置になど、全く立つてゐない、これまでも、また現在も、当局の相談役的存在は、その吐くところの意見が、出版業者の実状とは全くかけ離れたところにある、一口に言つて理想論が多い、私はこの種の人々を『座談会用の人間』と呼びたい、一つの問題解決のために、政府当局の招きによつて、改革に参画し、直接その事業に携はる業者を前にして述べる、これら専門家達の改革意見は、その座談的老練なる故で、其の場の雰囲気を柔らかにはするが、ただ一冊の本の内容を実際的に改める力をもつてゐない。これは絵本浄化の場合にかぎるまい、政府と接触する民間団体の中には、単なる『座談会用の人間』がまことに多いやうにも見掛けられる。
子供読物の浄化座談会では、教育者が実状とは全く遠い現象的な改革意見をのべる、すると座談会に参加してゐる、世間的にも有名な漫画家が『どうも漫画といふものは、教育と背中合せの所がありますね――』などとお座なりな意見をのべて、そこで一同がまた笑ふといふ状態である、大部分の漫画家の文化的水準の低いことはお話にならない、これまでの赤本漫画や、絵本の作画家は、その低俗な意味に於いて、出版業者とよくウマがあつてゐた、現在までに卑俗性を高揚させるには、前述の漫画家の座談会での発言のやうに、『漫画といふものは教育とは背中合せだ――』といふ意見通りにやつてきたのである、浄化がこゝまでに到つても、まだ子供読物は反教育的であつて構はぬなどといふ、無理論な漫画家が現在でも少くない。
しかも文学者や、科学者や、画家、教育者などは、商人よりは文化人であるといふ意見は、常識的に通用することである、しかし温ま湯のやうな低い文化性などは、商人の現実からの反映の敏感さで、割り出された、現実的行為の前には、往々にこの文化人なるものが、商人にイニシャアチブを握られるといふ現象も起る、従来の漫画家の場合は、それが最も極端に現はれ、一冊の漫画ができ上るためには、漫画家は出版屋から、要求される――といふ形式で、実はさまざまの牽制をうけてきたのである、漫画家が気品のある漫画を描いたときは、それは売れないといふ理由で、卑俗な漫画の形式へ復帰逆戻りさせられたり、画中の人物を乱暴に扱ふ仕組みは歓迎された、画中の主人公が無人島に漂着する、猛獣が現れて、この太郎少年を脚で跳ねとばす、すると少年はきまつて椰子の幹にぶつかると、上から椰子の実が落ちてきて、下の太郎少年の頭にあたり、少年は『テヘッ、いてイ』(痛い)と叫ぶ、このやり口は殆んど常套手段である、
漫画の教育的意義などは、どこにも発見できない、丸髷の奥様が、乳房を露出して海水浴をしてゐれば、蟹が泡をふいてそれを見物してゐるといふ野卑なものから、『アリャリャ』『アタタタタ』『ウヘッ』『テヘッ』『ヱヘヘヘ』『ヒャア』『アレレ』『ウワッ』『チヱッ[#「ヱ」は小文字]』などの愚劣な感動『止まれ』といふべきところを『トトトト止まれ』といひ『大将』といふべきを『タタタタ大
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