。画壇での、良心的分子として堅山南風をまづ挙げる必要がある。彼の人柄は誠実とされてゐる、時に誠実と良心とが度がすぎて作品が右顧左眄的なことがある、彼の耳を患つてゐて対談してゐる人も、彼が聞えたのか、聞えなかつたのかさつぱりその誠実の在り場所がわからない、南風の耳の遠いのは時には有効に悪画商を追つ払ふさうだ
小杉放庵小論
○…もう我々は放庵のやうな人間を見ることができないだらうといふことは、珍しくこの画家は、人格的に日本人的完成ともいふべきものがあるからだ、画は東洋的で人柄が日本的だといへるのであらう。
現在はあまりに半日本人や、変形日本人が多すぎるとき、彼放庵に逢ふと、やれ/\こゝに「日本人の典型」が残つてゐるといふ安心さへ湧く。
○…放庵は生活人であつて、決して画人とはいへない、だから彼の描く絵には、たゞの一枚として嫌々描いた絵はない「本朝道釈」のやうな絵物語風のものは彼自身描いてゐて一番楽しいに違ひなく、また観賞者もこの種の絵を観てゐると自づと、作者の生活の片鱗に触れる思ひがする、そこには平隠[#「平隠」はママ]と静寂との境地があり、見るものゝ心がそこで休息できるのである。
○…放庵は老いて益※[#二の字点、1−2−22]旺んなものでスキーになど出掛けてゆく、しやれたスキー支度の服装で、雪の上に立つてゐる写真を見かけることがあるが、それが少しも俗物的にも変てこにも見えない、何のイヤ味も感じられない、放庵は一言で言へば、丹念に人生を生活する人といへるだらう
竹内栖鳳小論
○…この老画人がどうして問題をもつてゐるだらうかそれは問題が全くないといふ意味で問題があるといふべき処また画壇での長老、尊老思想のよき対象として色々引つぱり出され上座に据られる処をみるとこの老作家もまた問題作家の資格は十分、長い画生活の業績はきつとこゝに貫禄を産み出してゐる訳だ
○…栖鳳の絵といへば今では批評外で、日本画の典型だと一口に言つてしまへば、まあ/\間違ひのない処だ、一般の大衆も日本画壇がどんな処やらどんな名前の画家がゐるのやら、さつぱりそんなことに無頓着な大衆が多いのだ、君は日本の洋画家の名前を日本画家の名前を知つてゐるだけ云つて見給へと質問したと仮定し給へ、洋画家では藤田嗣治、日本画家では大観、栖鳳これだけより知らんと答へる大衆が案外に多いだらう、知つてゐる理由はオカッパにしてゐるから
○…大観は有名だからそして栖鳳は僕がもつてゐる扇子にこの人の絵が刷つてあるから、さうして栖鳳の絵は真夏の扇子をバタ/\やることに依つて起きる涼しさの有難さと共に扇面の栖鳳の画風はこの人なりに理解される然しこの栖鳳の扇面うちわ的大衆化こそ彼の築きあげた努力なのである
中村岳陵小論
○…中村岳陵はどちらかといへば気の多い作家である、何んでも一度は手掛けてみなければ気がすまぬといふところがある、制作態度が慎重だからいいやうなものゝテクニック不足の作家なら、すぐボロをだすところだらう、個展なども開いてみればおそろしく絵が概念的だし工夫といふものを放棄してゐて至つて常識的な絵になつてゐる、大作の意表に出るやうなテーマの取扱ひ方などに比べると小品物は味気ない貧寒なものだ。
○…彼は写生に熱心で、その追究が形態の崩れるまで凝視的だが、その形態をまとめる力をうしなつて、時には洋画の抽象派の連中の喜びさうな、ちよつと見てはわからないやうな絵を描くことが間々ある、水を扱つたものにさうしたものが多いやうだ、彼は珍しく岳陵の画風といふものをもつてゐない、すべての連中が早く画風をつくりあげてゐるのに、善意に解して、彼は大器として後年その画風を確立するのであるかもしれない、しかし半面に岳陵は暗中模索をしてゐるのだと解するのが至当だらう。
彼には彼一流の美しい抒情をもつてゐる、作品「砂浜」の単純な構成と美の中に、すべての将来の秘密がひそんでゐるのだが、彼はそれに気附いてはをるまい
奥村土牛小論
○…最近の土牛の作品の市価の鰻のぼりはすばらしいもので一にも二にも土牛で持ちきつた期間があつた、この原因を解く者は誰もゐない、土牛はすつかり神殿におしこめられて、急に賑やかに御燈明をあげられてしまつた
○…これほどに土牛の人間と作品を神格化してしまつたのは、それはせつせと提灯を運びこむ画商共の仕業であつたさうで、ところが画商共は、土牛の神様化をやり始めてゐるうちに、いづれも強度の自己催眠にかゝり滑稽にも、土牛の絵の出来悪しの問題は、そつちのけで、土牛の一投足、一挙手にも値打づけるやうになつてしまつた
○…例へば土牛の作品の値段がぐん/\あがる一理由の中には「土牛の遅筆」がある、絵を依頼しても、なか/\出来ないといふことは、困つたやうな顔をしてゐて、実は有り難いのである、自分は土牛の処に四十三回催促に通つたとか、いやわしは五十八回通つた揚句一年のびたとか、さういふ理由も土牛神格化の半面である
○…土牛は下手な画家ではない、しかしそれほど大騒ぎするほどでもあるまい、彼の最近の作品では「入瀬所見」など、色彩の対照の上で、矯激なほどの美しい絵を描いた、彼は腹が立つたやうに、ぽつんぽつんと間ををいてすぐれた作品を発表する
郷倉千靱小論
○…千靱は最初洋画希望であつた、学校を卒へると、アメリカに渡つたが、こゝで彼は西洋画に対する希望を打破かれた、それは遠く祖国を離れて、初めて日本画といふ立派な形式の独自性と独創性とを海を越えて感得したのであつた
○…それが動機で、日本画をやるやうになつたといふことだ、この話は如何にも必然性がありまた問題を含んでゐよう、だから彼には、日本画の特殊性といふものについて、いつもそれを考へてゐるといふ認識のふかさがある
○…初期は相当脂肪のかゝつた大作をやつた、曾ての日本画に見られなかつた、特別な重厚さと、細叙主義であつたが、当時から彼の自然洞察は高度な精神的観察の下に立つてゐたやうだ
○…作品の例をあげると「小鳥の水浴び」などがそれだ、こゝは深い自然であり、人間の呼吸に驚ろかされない深い静寂な境地である、小鳥は何物にもおそれずにそこで姿態をつくりながら、嬉々として水浴をしてゐる、こゝまでこの創作に接近することができたのは、この作家が呼吸を凝らし、呼吸を止めることができるからだ、所詮この作家は静穏な愛の自然詩人といふことができるだらう
福田豊四郎小論
○…新美術人協会はまだ第三回目だ、海のものとも山のものとも判らない、しかしこの団体は妙に人気があり、注目されてゐる、その原因那辺にありや――、この団体の主宰者福田と、吉岡堅二との人気がさうさせてゐるのだらうか、それもあるだらう、それよりも、福田と吉岡との制作態度の時代性が問題とならう
○…この二人位時代に対して臆病な作家は珍らしく、その臆病さがまた逆に時代に抗する強靱な作品を生むといふ珍現象をもたらすのである、見渡すところ、日本画壇では福田、吉岡位のろのろした存在はあるまい、他の連中のやうに速歩主義ではない、絵の勉強の仕方もまたちがつてゐる、この二人は時代の変転を見出さなければ、絵の技術を前進させない、こゝに時代と技術の不可欠なものを彼等は知つてゐる
○…多くの画家が、その個人主義的な、自由主義的な態度で今は何のテクニックも残つてゐないのを気がつかないで何か他人の知らない技術をみつけようと躍起になるのとはちがふのである、福田はあれで、小品を描くと彼の人間的モロサを露出させ、大作にみる強い人間としての彼とは全くちがふものをそこにみいだす、それも無理もあるまい、彼は涙もろい東北出身である
石崎光瑤小論
○…展覧会場になど立つと、よくもかうした愚かしい仕事に熱心になれるものだと、思はずその画家の顔をみたくなることがある、日本画の観方、いまではもうさういふものはない、事実一般の観衆は、色々の角度から、終に断案を下して、絵の前を過ぎ去つてしまふ、さうした恐ろしさの存在することを知らないのは画家ばかりである。
○…さうした恐ろしい観衆を控へてゐるなかで、石崎光瑤の作品の前では、一応その足をとめ、批評を沈黙のまゝですぎるだらう、何故なら、彼の殊に「牡丹」を描いた作品の美しさはどうだ、そしてこの作品には作者の精神の微妙な動き、揺曳があり、魂のささやきがある、人々はその魅力にうたれるのであらう。
○…光瑤は光淋[#「光淋」はママ]派から出発してゐるので、古い時代の象徴派のコースをたどつてきた、しかしこの派につきまとふ形式主義が彼を硬直させてしまつて一時人気がおちたことがある
○…しかし最近の彼の描くものは、いよいよその技術の練磨が眼にみえるしかも、写実性はいよいよ加はり、現実的理解は透徹してきて、美しさの極限をその作品に見ることが多い
吉岡堅二小論
○…吉岡の日本画壇の中での血みどろの改革事業は、傍からみても気の毒のやうなものである、彼は作品の上で、ヒットをうつ、たしかに新しい世界を開いたといふ自信も、周囲は何か吉岡の仕事に対して「これは新機軸――」程度の讃辞を与へて、ふんはりと薄い布を作品の上にかぶせてしまふやうなものだ
○…後はそれきりで吉岡の新美術人協会での作品はみな立派なものだが、吉岡の良識はおそらく理解されないだらう
○…相棒の福田豊四郎はこの仕事の世間的公認が思つたよりも低かつた場合になどに焦躁する、その点、吉岡の度胸は大きい
○…また粘着力、闘志、さうしたものに充実してゐる、彼が殆んど生れながらに身につけてゐるかと、思はれるほどの対象の近代的理解を手堅く仕事の上に見せて、どんどん世間の風評などを蹴散らしてゆく、吉岡堅二が洋画家であつたらなアと、ふつと繰りごとのやうなことをいつてみる、彼はやつぱり洋画壇で革新的な仕事をやるだらう、彼はこゝでは、日本画壇でよりは幾分理解者が多いだらう
金島桂華小論
○…俗にいふ「腹ができた作家」は、誰々かといつたら桂華あたりを一人加へておくべきだらう、ところで画家の腹なるものが、甚だその言葉の意味の具体性を欠く、抽象的言葉なのだ。
○…然し若い画学生など、本気でそのことを考へてゐるのがあるから、頗る近代的でない、また世間でも案外問題にしてゐるやうだ、この腹は、仕事や、人格や、教養やが身についてゐるといふ意味で理由はあるが、気取つた態度や、馬鹿々々しい度が過ぎた無口、何をきいても返答をしない、応接室への現はれと引込みの芝居がゝり日本画家にはずいぶん可笑しくなる程多いのだ、桂華の腹は彼の仕事の蓄積がものを言つてゐる腹だ、実際最近の桂華は何も仕事らしい仕事をしてゐない、しかし人気は落ちない、それといふのは過去の仕事がそれを支へてゐるからだ、だから言ひ換へれば人気の波の頂点ではなく、その波のひろがりの末の人気といふべきだ
○…「鳴干九皐」(宮内省御買上)などの過去の作品がある、白鶴三羽を描いたものだが、この作品の緊密感は、塩が利いてゐるといふ形容よりも、ニガリが利いてゐると言つていゝほどぴりつと緊つた作品であつたが、彼がピリッとしたニガリ的なものを喪はぬ間は、人気の落ちるやうなこともあるまい
横山大観小論
○…大観が画学生時代には彼はことごとに仲間の意表にでて、帽子などヒサシの直径六尺のを冠り、のつしのつしとのし廻つたもの、若いときから大きなことが好きであつた、大観の画壇的動きの大きさは、ちよつと他の画家の真似の出来ないものがあらう。
○…もつとも明治三十一年に当時の東京美術学校々長岡倉覚三氏と日本美術院を創設したり、大観の過去の画業を系列的にみると、なかなか俗にいふ世の中につくし、画壇につくしてゐる、大観に活を入れてもらつて、蘇生した画家がそこいら辺りに居さうな気がするがどうだらう。
○…ところがこの画家位、悪評野に満ちてゐる人は少なからう、絵を依頼して断られた腹いせに悪くいはれることも数多ければ悪評は高いわけだ。
○…しかし大観はそんな場合、美術雑誌や画商のために創作の情熱は決し
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