小熊秀雄全集−19−
美術論・画論
小熊秀雄
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●目次
1.モヂリアニ論
2.松林桂月論(一)
3.松林桂月論(二)
4.堅山南風論
5.郷倉千靱論
6.伊東深水論
7.奥村土牛論
8.上村松園論
9.大智勝観論
10.小倉遊亀論
11.菊池契月論
12.金島桂華論
13.徳岡神泉論
14.石崎光瑤論
15.山口華楊論
16.小杉放庵論
17.福田平八郎論
18.川村曼舟論
19.児玉希望論
20.大森桃太郎氏の芸術
21.秋田義氏の芸術を評す
22.美術協会の絵画展を評す
23.広瀬操吉氏の芸術
24.旭ビル楼上の白楊画会評
25.洋画壇時評
26.洋画壇時評 三つの展覧会
27.洋画壇時評 旺玄社展を観て
28.洋画壇時評 独立展を評す
29.商業資本と日本画家の良心 三越日本画展を観て
30.小熊秀雄個展
31.超現実派洋画に就て ヱコルド東京絵画展の感想
32.二科展所感 坂本繁二郎小論
33.熊谷守一氏芸術談 青木繁との交遊など
34.独立展を評す
35.春陽会と国展 ルオーの描写力の事など
36.革新の日本画展
37.二科展を評す
38.文展日本画展望
39.日本画壇 新鋭作家集
40.新日本画の名コンビ 福田と吉岡
41.日本画の将来
42.橋本明治氏に与へる公開状 問題の『三人の女』が会期中に加筆されてゐることに就て
43.大観とユトリロ
44.時局と日本画――横山大観の場合
45.問題の日本画家
46.子供漫画論
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モヂリアニ論
薄幸の画家、アメデオ・モヂリアニに就いて、私の心理的なものに、彼の芸術の最初の決定的なものを与へたのは、日本劇場で仏蘭西洋画壇の大家の諸作の展覧に、モヂリアニの横臥した裸婦を見た時からである。
こゝではスーチンの作品も私を感動させたし、またルオーに就いては、ある種の失望を感じられた。スーチンやルオーに就いての感想は次の機会に述べることにしよう。画家といふものは案外臆病な性質があるものらしい。セザンヌやマチスやピカソの絵の前には画家達の人集りがいつもある。だが少し異色ある作家の絵の前には、殆んど寄り附かうとしない。そして遠くからおづおづと感心してゐるものだ。
この福島展の場合でもさうだつた。画家はモヂリアニの絵の前には何時もガランとしてゐたし、甚しかつたのはスーチンの絵などは殆んど観てゐるものが無かつた。画家達は激しい作品からの衝撃を無意識的に避けようとするのであらう。だからここでは同じ芸術にたずさはる同志に対する観賞の態度は口では玄人を自称するとしても、単なる描かざる一観衆と同じ心理状態になる。またさうなるべきだ。美術上の玄人と素人の限界をいつまでも固執し、主張する人を私は折々見かけるが、その境界を固執するその人の観念の世界には救ひ難いものがある。モヂリアニの絵は、アンリー・ルッソーと同様に『アマツールとしての良さ』に規定づけようとする評者が少なくない。口には言はないが、心の中ではさう思つてゐる所謂自称玄人画家が少くないのである。子供と大人の限界や、素人と玄人の限界や、昼と夜との境界や、大家と無名作家の継目を具体的に説明できる人は幸福なるかなである。絵画が思索的過程に入つてくると、すぐそれを『文学的要素』として排し、絵は『造型美術であるから』などと、何時も反復的にこの言葉を持ち出し、その言葉に拠つて玄人を主張する画家には、到底モヂリアニの良さは永久に理解されないだらう。
外見的に絵の幼稚さを見て、素人画家と断定し、たまたまその画家のすばらしい画人的なデッサンをみて、その画家を見直すといふ場合が、画家の世界には少くない。
モヂリアニ程、絵画といふものの一般性や普遍性を良く心得てゐる画家はない。この普遍性こそ『画を描かない人』に絵画の美しさを伝へようとする積極的な態度、芸術家の大衆に対する親切な表現である。
そしてこれらの普遍性一般性に依拠して尚ほ且つモヂリアニがアカデミーに反逆的であつたといふ困難な努力やその価値を、汲みとらなければいけない。
福島展での私のモヂリアニに対する感動の性質は奇怪なことには、彼のもつてゐる画に現はれた詩では決してなかつた。それは技術的方面に対する感動であつた。
画面から発散する異様な魅力は、感情的なものであつただけ、素朴に我々の感情に訴へてくる。
ジョルジュ・ミシ※[#小書き片仮名ヱ、12−上−10]ルの『もんぱるの』は、モヂリアニをモデルにしたものと言はれてゐるが、この小説の中でモヂリアニはズボロスキイに対して斯ういふことを言つてゐる。
『うむ、よし、俺がやつてみたいと思つてゐることを、まだ君に話さなかつたね。硝子かと思はれるやうな色なんだ。それを画に塗ると、瀬戸物のやうに見えるんだがね。七宝を描いてみてそれから肌を描いて見ようと思つてゐるんだ。解るかね、ズボロ、どんな、どんな絵描きだつて、俺が今、肌を、チチアンの描いた肌より美しい肌を描くために、使つて見ようと思つて、マチヱールに到達した者は一人もないんだ――』
と、いつてゐる。
私はこの文章と一致するものをモヂリアニの描法から感ずる。ルノアールの描法は一種の硝子的な透明感があるが、それは筆触のうるささで相殺される。モヂリアニの場合は、ルノアール的なタッチの煩雑さがない。しかも七宝的な絢爛とした美しさは、洋画の材料としての油絵具を完全に生かしきつたといふ美しさである。主としてこの華麗さは、彼が光りに対する理解の深さから来てゐる。光りが単に物象からの反射としてみる場合は、安易にハイライトを描ききつて、物質に対する光りの効果を外光派的に生かすことができよう。だが、モヂリアニの絵具の扱ひ方は、もつと決定的な、的確な意図の下になされてゐる。
つまり、光りの物質への肉化を行つてゐる。『硝子かと思はれるやうな』肉体の美しさは、彼の一筆毎のタッチに光りの消化と吸収を行つてゐることである。光線は彼にとつては物質に対する後からの従属物ではない。現実的なイデー、光り及び生命の肉化のために彼は僅かなマッスの中に、驚くべき光りの諧調の仕事を為し遂げてゐる。だが、人々は彼の苦心を看過してゐる。ただ、全体的な感[#「感」に「ママ」の注記]能さにのみ撃たれて彼の神経のリズミカルな複雑さを見逃してゐる。透明色の無限の重ね出をしてゐるゴオギャンに比して、その意味では彼は確かにゴッホ的なところがある。
発光の法則や、色彩の原素的な表現をモヂリアニ程生かし切つてゐる画家は少ない。ゴッホはその点で色彩の世界では原素的といふよりも、中間色の世界の開拓をしてゐる。
ただ、その色彩の原素性は、彼がフランス的であるといふ意味でシャガアル風な民俗的などうにも割り切れない人間的な色彩上の原素性、原始性ではない。遙るかに近代的な、洗練さが色彩の上に働いてゐる。
ユダヤ系の作家の色彩の悪どさは観る者をして、その色彩から受ける感じは、能動性である。ロシヤの作家の赤は、観る者を絵を離れて行動性に駈り立てるものがあるが、モヂリアニの赤は人間の心理を感[#「感」に「ママ」の注記]能的に沈静させるものがある。
モヂリアニは絵のテーマの上に現れてゐるのを見ても判るやうに、彼は小市民性の完全な表現である、欧洲戦乱からうけた彼の心理的な衝撃は、インテリゲンチャ的な焦燥性を色感の激情の世界でじつと堪へ忍んでゐるといふ絵である。モヂリアニの絵画製作の世界を見給へ。まつたく彼は狂へるものであり、肉体的にも自滅の過程を通つて行つた。だが、一度彼の絵を見給へ、全く、これらの生活の激情性は現れてゐない。そこには、センチメントと哀愁の表現がある。
モヂリアニが絵画以前に彫刻をやつたといふ意味でよく彼の絵には彫刻的な立体の効果があるとか、影響があるとかいふ人もあるが、私の理解では、彼の絵からは何等彫刻的な効果といふものを感ずることができない。むしろ私は逆なものを感ずる。彼の彫刻は絵画的でさへある。彼の絵画の世界では立体からの解放があり、人体の最も普遍的な外劃的な線を描くことに決して臆病ではない。その点が、彼がリアリストであることを語つてゐるものである。しかも、この外劃的な線への追求は、丹念に神経的な筆触をもつて埋めてゆく、絵の具の剥ぎ取りの効果や、色の重ねの効果といふよりも、彼の態度は画布の一端から逐次的に仕上げてゆく、といふやり方の画家に属す。今人物の鼻の頭を描いてゐたかと思ふと、次の筆は足の指を描くといふ描き方ではない。彼の絵が純情であるといふ感じは、仕事のしかたに何等偶然性をねらふことをしない彼の素朴な態度による。丹念に顔を仕上げてから首に移るといつた彼の仕事ぶりの過程には、真からの画家らしい仕事に対する酔ひがあり、陶酔がある。部分の追求がいつの間にか、全体的な立派なまとまりをつけてしまつたといつた絵である。よく自称リアリスト達は、『真に写実的に描くには客観的に描け――』と叫んでゐるのを私は知つてゐる。客観的に描け描けといふ一点張りの主張こそ、徹底した主観論者であるといへよう。帝展派の画家の行き詰まりと、最も進歩的でなければならない筈のプロレタリア・リアリズム画家の行き詰まりの状態に相似点のあることは、この種の客観主義者が多いからである。これでは生きて[#「て」に「ママ」の注記]人間が絵筆をもつ必要がない。写真機のシャッターを切つた方が遙るかにましである。
この種のあやまつた客観主義者に対しては、君はそれでは、客観の高さに尾いてくるほど、主観の高さの持ち合せがあるかと、質問をしたい位である。モヂリアニは一見頗る主観的な画家のやうに見えるし、また事実彼の仕事ぶりは主観的な強さが勝つてゐたであらう。だが、彼の出来上つた絵を見給へ彼の絵は何と冷静な、科学性の豊富な絵であらう。
モヂリアニの生活行動の奇矯から察すれば、彼は逆立ちをして絵を描いてゐなければならない筈であるのに、なんと彼はすべての人々に、絵の玄人にも、素人にも、判り易い、尋常な形に於いて表現してゐることであらう。彼の絵から受ける感じをもつて通俗性と呼んではいけない。それは『大衆性』と呼ぶべきである。
そしてモヂリアニの作品に対して見る者をして感心させ、『モヂリアニの絵は、ただ何となく良い』とか、或ひは『何となく好きだ』と言はしてゐる。『ただ何となく――』といふ褒め方はモヂリアニの作品に最もピッタリとした褒め方であり、芸術の褒め方で、これ以上に最上の褒め方はないのである。モヂリアニの作品が見る者に、感性の世界を与へた証拠として、かゝる単純で的確な、無条件的に『ただ何となく――』といふ言葉が人々の口から吐かれる。感性に訴へる画家は、往々にアマチュアとして画家仲間から異端と敬遠とをもつて迎へられるが、この種の優れた画家は、画壇では孤立であつても、彼は直接一般人と結びつくことを知つてゐるし、また、大衆はこの種の画家の芸術的真実をよく理解する。
モヂリアニの芸術の一面性の一つとして数へられるものには『肖像画』が多いといふことである、何故彼は好んで人物を描いたか、横向きでは彼の出世作と言はれてゐる『ヴィオロセールを弾く男』があるが、其の他の大部分は正面向きである。彼は全く横向きを好まないのである。この彼のポーズの選択の仕方はとりもなほさず、彼の芸術探究の真正面向きを語るものである、ひたむきな現実の追究の態度の真正面向きである。
そしてこの人物の正面向きが、彼の絵に厳粛さ
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