将』と表現し、この赤本漫画を読むことによつて、子供の正しい発言を、吃音児童に養成するやうなものである、ドモリの子供をつくる許りではない、鶏の鳴き声に似た(二字判読不能)雲助的(三字判読不能)追従的かけごえ『ケケケケ』とか『テヘヘ』とか人間の言葉とは思はれない言葉を汎濫させ、チャンバラ漫画では人間の胴体の輪切り、頭部の唐竹割り、黒ん坊を虐殺する人種的偏見場面、血シブキの飛散、博徒長脇差、他人の部屋に忍んでゆく破廉恥漢、忍術、空中飛行、等悪材料は枚挙にいとまがない、当局が浄化に手をつけた頃は、その粗悪な頂天で恐怖状態を示してゐたのである、
三
これらの粗悪漫画の数量や、配布範囲が広いといふことを、監督官庁が気づかなかつたといふ一理由はある、それはこの種の粗悪絵本や漫画は、内容の吟味された高級子供出版物とは、全くちがつたところに、出版業者の取引配布網があつたといふことである、価格もまた五銭、十銭二十銭程度のもので、長篇漫画で六七十銭級といふ、現在は一円近い低廉なことが特長であつた、これらの安漫画は、デパートの書籍部や、文学、哲学などの高級書籍を扱ふ書店には現はれない、赤本の配本網は別なところである、二流、三流どころの本屋、古本屋、玩具店、最も大量消化するのは、夜店商人であつた、本屋もない地方によつては、雑貨店の一隅に、チリ紙の束の隣りに、或は黒砂糖の桶の隣りにならんで売られてゐるといふ具合に、全く庶民的立場にある安価本として扱はれてきた、当局の検閲の眼の下をくぐつて出版されてゐたかどうか、粗悪時代の当時の状態は保証の限りではない、検閲の眼にふれることが少なかつた理由がもう一つある、赤本類は、出版物としてよりも、玩具形式として扱はれてゐたことである、木製の赤い自動車や、ブリキ製の青い船にまじつて、この漫画本は、何かしら赤青を塗りたくつた本、といつた程度の、玩具としての認識より外には、出版業者がもたなかつた、取締強化に際して、赤本出版業者は、児童の出版物といふものは、いかに喧しく取締られるものであるかといふことを、始めて経験し、なかには唖然として策の施しやうを知らなかつたのも出版業者にとつては無理があるまい。
浄化座談会で、教育家の一人の意見では、粗悪本の影響を避けるためには、子供自身に本を選ま[#「ま」に「ママ」の注記]せるからいけないので親が選択して買つてやることがよい――といふ、しかしこれは現に行はれてゐることでもある、子供の教育に熱心な、或は熱心すぎる家庭の母親はさうしてゐる、値段に構はず、高い読物を選んで買つてやつてゐる、座談会に出席した某デパートの書籍部主任はかういふ『手前どもでは、いくらでも高い本が売れますから、高くても、いゝ本をつくつていただきたい――』と、母親が子供のために良書を選むといふこと、高くても良い本と言ふことは、間違つてはゐないであらうが、子供読物浄化運動の主旨と、本質から少しく離れてゐる、殊にデパートの書籍部主任が、いくら高くても売れるからなどといふホめ方は、少数の子供を目標にしたホめ方で、大多数の子供のために、愛情ある言葉ではない、売れさへすればといふ、利益の幅の大きさを、前提とした言葉であつて、ある意味では悪質でさへある。
母親が選んで本を買つてやるといふ、良家庭は必要であるが、赤本漫画の改革は、かうした家庭の読む本といふより、俗に餓鬼鼻たれ小僧と呼ばれてゐる、広い庶民階級の子供を対象として起きた問題なのである、そこのところの混同はできない、本が安いといふことに問題がたくさん残つてゐる、五銭玉、十銭玉を一個母親に与へられて、本屋に子供自らが走つてゆくといふ性質のもので、さうした実状を無視して、兎角民間の浄化問題は理想論にかたむく。これらの鼻垂小僧の両親は、赤本漫画の有害なことを、知らなかつたのであらうか、充分に感じてゐたに違ひない、何故なら現在の我国の家庭に於ける児童の位置といふものを考へてみたらいゝ、家庭は子供達にとつては、ヱレン・ケイ女史のいふ、それは家庭があつても、無いと同様な『無家庭』の状態にをかれてゐる。
父親は働きにでかけ、子供達は学校にでかけるが、一日の大部分を学校では家庭から子供たちをうばつてゐる、やうやく家にかへると、母親は家のことで忙がしく、子供たちのことは、かまつてくれない、子供達は親にうるさがられ、幾何かの金を与へられる、子供はそれで鳥モチを買つて、トンボ釣りに出かけるか、紙芝居を見るか、赤本漫画を買ふかする。
ことに漫画を愛好する子供の狂的な熱心さは、手に負へない悪太郎も、『本を読んでゐる間は』猫のやうに温和しくなる、その有様を、親達は内心恐れながら、子供達のお守りをしてくれる漫画の本に、感謝さへしてゐる、トルストイは、学校といふところは、既に中性的なところで、子供達はそのことを、ちやんと知つてゐる――といつてゐるが、トルストイのいふやうに家庭と社会との中間に、宙ぶらりん的な存在を、学校が果しつゝあるやうな気がする、子供達は教科書の硬さによつて精神状態を硬化することを、漫画といふ課外読物の、弊害的な柔らかさに、喰ひついて、精神を中和させてゐるかのやうである。
四
内務省と、出版業者との最初の会合のとき、内務省図書課の方針では、かういふ悪いものが、あるからいけないのだ、といふこの世から漫画を絶滅してしまはうといふ強硬意見をみせた、すでにその卑俗性は頂上に達し、改革の余地なしといふ見解をたてたのであらう、すると席上で、出版業者側が驚いて、漫画の廉価な立場と、無産者の子供のための出版――といふ社会的意義を主張した、そこで内務省もその立場を是認して、それでは内容を改革しろといふことを業者に要求した、現在市場に現はれてゐる商品のいろいろの価格のうちで、五銭、十銭などといふ単価のものは、価格が安いといふ意見だけでなく、社会的意義が大きい、しかし漫画はキャラメルのやうに、舌の上では溶けない、子供達は一冊の本を何度も繰り返してよむばかりでなく、それを持ち出して友人に借すと、一日のうちで幾人かの子供の間を、非常なスピードで回覧される、卑俗を感じながら、親達はそれ以外の、種々の利得をこの赤本から得てゐる、残念なことには全く教育的でないといふ、一事だけが残つてゐる。
内務省の強硬方針で、もし現在漫画が廃滅されてゐたとしたら、何の問題もない、しかし漫画は子供達を無性によろこばしてゐたといふ事実は、この世から漫画が影を消した後でも、さうした事実のあつたことだけは問題として残るだらう、子供達はそれにかはる他のものに転じてゆくだらう。ソログープの子供を扱つた小説で、牛殺しの父親をもつた小さな姉妹が、母親の留守にそつと庖刀をもち出して『牛殺しごつこ』をやる、姉は父親が牛を殺すやり方そつくりに、妹の首に庖刀を加へるという筋であつたが、子供達はどのやうな恐怖すべき遊びをでも案出する、『自爆自爆』と叫んで二階から飛びおりて怪我した子供があつたとか、ないとかいふ、この子供は新聞記事を読んでゐたに違ひない、子供読物がこの世から姿を消しても、子供自身は決して困らない、この連中は色々な遊びを考へ出す、大人の講談本でも結構読む、子供漫画が廃されないで、存続したといふことは、子供にとつての問題よりも、大人にとつて問題が残されたのである、出版業者はその儲けを継続することができるし、漫画家は執筆によつて命をつなげるし当局は取締りの余地をのこした、教育者、児童心理の研究者達は、今後も相変らず座談会を開くであらう、ただ子供読物の問題は、文部省、内務省の今後の取締方針の如何によつてすべての状態が、いくらでも良い方向に変つてくるに違ひない、その意味では(五字判読不能)
幼稚園のブランコの綱が切れはしまいかと注意を払つてくれる保母があるとすれば、子供たちにとつて、優しい親切な保母であらう、多くの場合はブランコの綱が切れて子供が墜落してから、幼稚園では綱は取り替へることになつてゐる、政府が、映画とか、読物とか、子供のことに関して、危険の起きる事前にそれを防がうとし、気を揉むやうになつたことは、子供のための良き保母になつてきたといへよう、国立児童出版所のやうなものができてゐない我国の状態では、政府が子供読物の良いものを、率先出版して、見本を示すといふわけにはいかない、従つて個人の資本投資による出版を否定するわけにもいかない、内容が悪いといふ理由で、出版されたものを発売禁止処分にするといふ、所謂断乎たる処置が、政府の政策遂行を容易にするばかりとは限らない、そんなに子供出版物の発行が難かしいのであれば面倒だからと、昨日の子供読物出版屋が、けふはタワシの製造業に、さつさと転業もしかねないのである、『儲からなくても良い本を』などといふ言葉が、いかに非現実的な言葉であるかは、この業者の心理状態に接触した経験のある人はよくわかる筈である、良い本をつくらせることは、取締当局の方策であり、画家、教育者は、ことに政府の良き協同者でなければならない、そして出版屋は儲けるといふ単純な理由でだけ出版する、何故なら儲けさへすれば、どのように優れた立派な子供読物でも出版するからである、現在の出版業者が、自発的な出版良心をもつまでになるには、多少時間がかゝるやうだ、文部省や、内務省の取締り方針が、過渡期であるといふ意味で、方針の動揺といふものもあるため、出版業者の出版方針もまた戸まどひしてゐる、羊が紙を喰つてゐるやうな漫画を書いたところ、紙を喰ふなどとは、国策に反するのではないかと神経質になつた人があるといふ、羊が紙を喰ふのは、羊の習性であつて、国策とは何の関係もない筈である、しかし現在の子供漫画の出版には、その位にも当局や出版者が敏感になつてゐる、国策に反するのは、羊が紙を喰つてゐる絵ではなくて、卑俗な子供出版物を出版して、印刷紙を浪費する、そのことであらう、有害なものは勿論悪いが、無害なものも無意味な出版である、他の大人の娯楽出版物は知らないが、子供出版物はあくまで有益なものでなければならない、しかし子供漫画の卑俗化は、我国の現下の『赤本的現実』の一つの現はれであつて、漫画だけがその責を負ふべきではないからだ。
底本:「新版・小熊秀雄全集第五巻」創樹社
1991(平成3)年11月30日新版第1刷発行
入力:小林繁雄
校正:瀬戸茂之
2006年2月26日作成
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